2010年06月01日

武島神社について (訂正)

 先日、この神社と石碑について書いたが、これらの石碑の裏には碑文があった。十分には解読できないが、それぞれの碑文をつなげるとおよそ次のような内容ではないかと思われる。

武島神社の石碑群 この神社は、木曽の御嶽山にある御嶽(おんたけ)神社を分祀して、明治15年に建てられた。名称は武山神社。中心になったのは三原家7代目の勘十郎で、弟子(?)の大石幸太郎らが協力した。おそらく御嶽山で行者修行をした人物だったのだろう。勘十郎は、明治18年に没し、霊寛霊神一心行者の神号を授けられた。中央の石碑はこれを記念して翌年に建てられた。丸に三つ引き紋は、その上に山二つを書いて御嶽神社の紋である。建てたのは養子・百五郎。

御嶽神社の紋 大石幸太郎は、師とその子3代を支え、日露戦争の戦死者を祈るなどして功績を認められ、明治38年、孝幸行者の神号を受けた。大正4年に亡くなり、9年に後継ぎの重兵衛が記念碑を建てた。碑銘は孝幸一心行者。どうも「一心」が入ると格が上がるらしい。

 百五郎は、明治38年に神徳行者となり、大正9年に神徳一心行者の神号を受け、大正14年に73歳で亡くなった。昭和5年に嫡子・元太郎が石碑を建てている。

 つまり、この神社は昭和初期まで、この地で修験道に根差す御嶽信仰の布教の場であったのではなかろうか。

 しかし、この武山と呼ぶ小山には、もうひとつの物語がある。現在、高島にある唯一の神社・八幡神社は、慶長3年(1598)、淡路の塩屋村・八幡宮を分祀したとされ、明治元年、村社となった。そして、大正5年「近在の神社5社を合祀した」という。その中に、室町幕府・10代将軍である足利義稙が祀られている。

高島・八幡神社 「鳴門海峡(西条益美著)」によれば、「御嶽神社の南に箱型石室のある古墳があり、足利義稙を祀った小祠が大正時代のころまであった」というのである。そうすると、高島・八幡宮に祀られている義稙命はこの武山にあった祠に違いない。

 西条益美氏は、ひとつの説として紹介しているだけだが、「もっともらしい説」と述べている。足利義稙は10代将軍になるが、しばしば実権を行使するため、時の権力者である管領・細川政元や日野富子にうとまれ、クーデタ(明応の政変)を起こされ幽閉される。逃げ出して、越中、越前、周防と10何年も亡命した。永正5年(1508)、大内義興の援助と細川高国が味方になったことで、将軍に返り咲いた。13年後、再び和泉から淡路、そして阿波に逃げることになり、撫養で死んだといわれる。

 義稙は、淡路の沼島に居住して復権をめざしたといわれるのだが、沼島(ぬしま)は当時武島(むしま)であった。ところが、鳴門の高島も武島(たけしま)であった。幕末の漢学者・小杉榲邨は、同じ字のため思い違いされている、義稙が拠点にしたのは高島であり、そこで亡くなったという。従って、武山の古墳は義稙の墓所というわけだ。

 ただ、沼島は水軍の根拠地で、太平記でもしばしば出てくる軍事的拠点だが、当時の高島が同様な意味をもつ島であったかどうか疑わしい。義稙の墓所は、通説では那賀川町の西光寺とされている。しかし、「陰徳太平記」には、細川高国と対立して出奔した義稙の乗った船に「たぞやこの鳴門の沖に御所めくは泊り定めぬ流れ公方か」という狂歌が張り出されたという。これも淡路・沼島というよりは、鳴門・高島に逃げたと考える方が自然である。

 実は、武島神社を訪ねた後、その背後の山を探検してみた。雑木や笹が生い茂っているだけで何も見つけることができなかったが、この山は自然のままではなく、人の手によって削られたりいろいろ加工されているようだ。
posted by kaiyo at 06:09| Comment(0) | 鳴門市 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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