2017年08月15日

南浜 (1) 撫養足袋

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 最近、鳴門への往復に旧の撫養街道を通っている。姫田で旧道に入って、大代、木津、南浜を経て、斎田で巻きずしを買って、黒崎のマルナカに立ち寄って、小鳴門大橋を渡って高島に至るというコースだ。

 道幅が狭くて曲がりくねり、道の両端に電柱が飛び出していて、走りにくい。しかし、なかなかおもしろい建物があり、いわくありげな神社や寺などが多い。

 南浜の事代主神社の横に、古い工場のような建物があって、隣接して新しい工場が並んでいる。「潟Lントキ」と表記されている。現在、唯一残っている足袋製造の会社である。もちろん今は、足袋だけ生産しているとは思えないが、その経歴はとんでもなく古い。

 鳴門で足袋の生産が始まったのは、はっきりしないが、宝永から安永にかけてと言われる。1751年から1781年頃ということだ。その頃は、「こはぜ」が無くて、ひもが付いていてそれで縛っていたようだ。家庭で個人が縫い上げた足袋を小さな問屋が買い取って、数がまとまったら関西の問屋に売っていたものと思われる。撫養足袋の生産は南浜だけではなかったが、業者の数からして南浜が始まりのように思える。

 鯨のひげや金属で「こはぜ」が作られ、足袋の生産が本格的になるのは、明治になってからだが、幕末にはすでに年間30万足を生産していたそうだ。明治21年には営業組合が設立され、29年からは会社形態となっていった。

 大正に入るとミシンなど機械化が進み、第一次世界大戦による好景気を背景に、年間438万足の生産高となった。以後、世界恐慌や価格破壊もあって、波乱があったが、昭和11年には1000万足に達したといわれる。

 戦時中には資材の統制、人出不足で生産は縮小され、会社も二つにまとめられて、企業活動は停滞した。戦後復活したが、やがて需要が減少し、靴下や手袋に取って代わられ、廃業が相次いだ。

 「キントキ足袋」は、文久3年(1863)の契約文書に坂田屋という問屋名で記載されていて、その時点よりもずっと古くから足袋卸しに関わってきたものと考えられる。

 そこで気が付いた。なぜ「キントキ」なのかということだ。洒落なのだ。金時さんの苗字は「坂田」である。坂田屋は明治になって、屋号をそのまま苗字としたようだ。そして、会社を設立した時は「坂田合名会社」、昭和4年には「坂田兵助工場」としている。つまり、あくまで個人企業として経営し続けている。日中戦争が始まり企業統合されて株式会社とされた。「坂田」の個人名を名乗るわけにはいかなかったから「金時足袋株式会社」としたのではなかろうか。

 近くに廃工場と思われる建物が残っている。これは小橋足袋と思われる。この会社もかなり古くから続いてきた足袋卸し商である。隣に双愛足袋があったはずだが、すでに空き地になっていた。

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posted by kaiyo at 22:12| 徳島 ☁| Comment(0) | 鳴門市 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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