2017年09月15日

南浜 (4) 始まり

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 鳴門の塩づくりは、慶長4年(1599)、撫養城代・益田大膳が、播磨から馬居七朗左衛門、大谷五郎右衛門を招いて、夷山周辺(桑島)に入浜塩田を開いたのが始まりとされている。

 しかし、竹島村(高島)庄屋・篠原孫兵衛が奉行に提出した文書や、桑島の橋本家の主張によれば、慶長元年の京畿大地震で斉田の土地が隆起したという噂を聞いて、淡路の人々がやって来て干潟を検分し、城代に建策して慶長3年には塩田築造を始めたようである。

 徳島藩は、塩田事業を主導するために、急いで前の領国であった播磨から有力な事業者を招いたのではなかろうか。その上で強力な保護にのりだしたようだ。

 塩田築造は、浅い海の中に堤防を築いて、その内部を適切な高さに埋め立てるもので、大規模な干拓事業であった。やって来た事業者は一定の資金力を持ち、とりあえず住み家を建てて、畑地を開墾しながら、人を集めて工事を始めたと思われる。築いた塩田は「捨て置かれ(課税されず)」「当分築いた者の所有とする」とされ、開墾中は「諸役免除」された。

 2代目小川三郎左衛門は「これはチャンスだ」と考えたのかもしれない。おそらく慶長4年に塩田築造を願い出た。彼は斎田村の南部に住んでいた。先代は播磨出身の浪士で、文禄年中(1592〜1595)に家人3名とともに撫養に来て畑地を開墾し始めた。生活が安定してから改名して小川三郎左衛門を名乗り、まもなく息子に跡目を譲り隠居したようだ。2代目三郎左衛門は、資金集めも人集めもでき、事業家としての才覚があった人物と思われる。

 塩田の工事が始まると、斎田村と木津村にまたがる新たなコミュニティーができ、南浜村として独立することになった。2代目三郎左衛門は、その創始者として政所(庄屋)となった。編入する者が次第に増加し、やがて大きな村になっていく。また、広かった内海がどんどん埋め立てられていくと、海の交通状況が変わり、古くからの港であった木津などはほとんど使われなくなっていった。2代目三郎左衛門は、開墾して自分が居住する地域に各種商家を受入れ、その地区はやがて四軒屋と呼ばれる商業地となっていった。

 四軒屋は、後に郷町に指定されて大きく発展した。郷町というのはかなり自由に売買が認められた(扱える商品に制限があったが)、いはば商店街であり、最初は徳島城下だけであった。

 南浜の事代主神社の近くに八坂神社とされる小さな宮がある。宝暦年中(1751〜1764)、何代目か分からないが小川三郎左衛門が通りかかると多くの蛇が集まっていた。蛇を取り除けると小さな刀があった。それを祭って「剣権現」として社を建てた。寛政の始めころ(1789〜1795)、お告げによってこれは祇園さまだということで牛頭天王を祭ることになり、街道沿いの現在の場所に移したという。明治になって神仏分離から八坂神社に改められた。

posted by kaiyo at 18:14| 徳島 ☁| Comment(0) | 鳴門市 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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