2017年09月28日

木津 その3 長谷寺と金毘羅さん

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 境内の中央に銀杏の古木がある。大きく枝を伸ばして雲のように盛り上がっている。樹齢600年といわれ市の天然記念物である。周囲には百日紅が植えられていて、ついこの間まで花盛りだった。撮影しようと思っていたのだが、通り過ぎるうちに花は終わり、今は小さな実をたくさん付けている。昭和60年に落成した本堂はコンクリートに瓦拭きであるが、御殿造りの玄関部分は古い建物が使われているそうだ。

 ここ長谷寺(ちょうこくじ)は、元は木津江寺といったそうだ。文明12年(1480)、細川家臣の船戸左衛門尉なる者が大和長谷寺の観音像と同木の11面観音像を受けて開創したといわれる。大和長谷寺観音は10メートルを超える巨像で、木造としては日本最大級である。7度の火災で焼失し、その都度作り直され、現在は8代目、天文7年(1538)の作とされる。ということは7代目の端材が使われたのだろうか。

 細川氏さらに三好氏に保護され、三好氏からは知行13貫を受け、1町7反の土地を寄進された。天正10年(1582)、長宗我部氏の侵攻により全山焼失したといわれる。秀吉の四国征伐の後、蜂須賀氏が入国し、慶長3年に駅路寺に指定された。駅路寺というのは徳島藩独自の制度で、街道沿いの8ヶ寺が指定され、宿泊など旅人の便宜を図るとともに旅人を監視し、治安維持にも協力する制度であった。

 慶長6年(1601)、長谷寺が再建され、同時に裏山の中腹に金毘羅大権現が創建された。創建者は撫養城主とされているので、藩の事業であったのだと思われる。当時、木津の前面は吉野川の河口であり、広く浅い海であった。撫養の港というのは岡崎や林崎、土佐泊など小鳴門海峡入り口周辺の港の総称のようだ。そこからは川船に乗り換えて、斎田から木津にかけての浜に上陸した。あるいは徳島や勝瑞まで船旅ができた。その広い入り江を見下ろす位置に金毘羅さんが創建されたのは海の安全を願うのにふさわしいと思える。しかし、この頃から塩田や新田の開発が急速に進みはじめ、またたく間に入り江のほとんどが干拓されていった。

 金毘羅大権現は、長谷寺が別当として管理するなかで、奉納相撲を藩主が見に来るなど、信仰を定着させていった。ところが、慶応元年(1865)、火災を起こして社殿を焼失した。長谷寺を中心に急いで修復しようとし始めたところで明治維新を迎えた。明治政府は、神道を国教として、仏教から分離させようとした。

 大権現は仏教的なので、金毘羅大権現は金毘羅神社と名称変更して、撫養地域の郷社とされた。長谷寺の境内は分割されて、山の上半分と境内の東半分は金毘羅さんの領域とされた。これは大変なことであった。本尊の観音堂、鐘楼、仁王門、参道が神社の領域になってしまったのである。薬師堂の向きもおかしくなった。しかし、金毘羅神社の再建が急がれ、寺の建物の移動はなかなか進まなかった。

 そのうち、仁王門は神社の所有として届けられてしまい、裁判沙汰になった。これは長谷寺が取り下げて裁判にはならなかった。現在、金毘羅さんの門になっている。中の仁王さまは観音堂に移されているそうだ。毘沙門堂も神社側にあるが、この建物は3重の塔として計画されたが安政4年(1858)に1層目ができた段階で放置されたものらしい。

 まあいろいろおかしなことがあるものの、木津の金毘羅さんは阿波の3大金毘羅として知られるようになり、国鉄鳴門線には金毘羅前駅ができた。

 今は、昔日ほどの賑わいはない。階段を上って参拝した。拝殿には大きな和船の模型が置かれている。おみくじも引いてみた。末吉だった。

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posted by kaiyo at 10:11| 徳島 ☔| Comment(0) | 鳴門市 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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