2017年12月12日

南浜 (5) 市杵島姫神社

ben1.JPG

 小さな神社で、狭い境内の半分近くが岩山になっている。岩山の割れ目から妖しげな樹木が這い出していて、まるで岩自体が木の幹でそこから四方に枝が延びて繁っているように見える。その前にある石柱に「鳴門市天然記念物うばめ樫」とある。手前に銀杏の木があって、その落ち葉に混じってなるほど樫の実が落ちていた。

 昔、この付近は馬目木と呼ばれ、馬目(うばめ樫)の大木がたくさんあったそうだ。ところが宝暦11年(1761)、四軒屋町が大火事となり140軒の家々とともに馬目の樹々も焼けてしまった。岩の上で焼け残った木の株から芽が出て現在の奇妙な姿になったものらしい。

 さらに、岩のてっぺんには古い石碑がある。碑面の大部分が層をなして剥落し、1字か2字くらいしか残っていない。これは嘉永2年(1849)、13代徳島藩主・蜂須賀斉裕(なりひろ)が建立したもので、通称「こつかみの碑」である。その少し下に鳴門市が立て直した石碑がある。

 石碑は、藤原基房の歌碑で、「阿波の守になりて又同じ国にかへりなりて下りけるにこづかみの浦といふ所に浪のたつを見てよみ侍りける。藤原基房朝臣 こつかみの浦に年へてよる浪も同じ所にかへるなりけり」とのことだが、私には正確に碑文が読めない。ただ「こづかみ」も「こつかみ」も新碑では「木津神」となっている。もちろん、原典の後拾遺和歌集にどのように書かれているのかは知らない。現在「木津」「木津野」が地名になっていて、「きづ」と読まれている。「木津神」という地名は無いそうだが、あいまいな地域名としては今も使われている。

 この藤原基房は、平清盛の時代の関白・藤原基房ではない。それより100年以上前、藤原道長が亡くなった翌年の長元2年(1029)に阿波の国司となった基房である。彼は若い時に役人として阿波の国に赴任したことがあって、かつて愛人もいたであろうその地に今は国司として再び訪れた感慨を述べたものと思われる。

 この付近は中央構造線の上にあって、山際は古い断層によって直線的に削られたようになり、淡路島南辺、さらに和歌山まで続いている。そんなに高くはないが崖だったと思われ、その前は浅い海だった。神社の岩山はその崖から10mくらい飛び出していて、そこには古くから大きなうばめ樫が繁っていた。そこから西に狭い砂利浜が続き、三拍子酒造の付近にある小さな谷川からの土砂の堆積があって緩やかな弧を描いていたと想像される。そこが古代からの阿波の国への最初の上陸地であったのではなかろうか。

ben2.JPG 岩山には海上交通の無事を祈って、市杵島姫らの宗像三女神が祀られていて、仏教が浸透した平安時代にはすでに弁天様になっていたと思われる。長く弁天様として親しまれていたが、明治になって神仏分離が強行されて市杵島姫神社とされた。対岸の木津野にある弁天様は厳島神社とされた。厳島神社も宗像三女神を祀る神社で、市杵島が転じたものではなかろうか。この厳島神社は本殿が川の中に建てられている。川の中に石垣を築き、その上に社殿を建て、祭殿まで橋を渡している。南浜の市杵島姫神社は、わざわざ池を作り、その池の中に本殿を建てている。水との関係を尊重したのだろう。池には亀が日向ぼっこしていて、時々、水中に滑り落ちていた。

posted by kaiyo at 06:00| 徳島 ☀| Comment(0) | 鳴門市 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。