2018年06月29日

光勝院

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 先日、「勝瑞学講座」に出席して、初めてその名を知った。こんなに近くにありながら名前も知らなかったとは情けない。阿波守護・細川氏の菩提寺なのだ。我が家からは10分もかからない。さっそく行ってみた。

 草木の手入れがあまりされていなくて、荒れた印象だった。入り口には宝篋印塔と6地蔵がならんでいる。南明山の額が掲げられた本堂は立派な建物だった。蜂須賀氏により建てられたという。もちろん、現在の本堂は修理もしくは建て替えられているようだ。本堂の横に小さな池があって、弁天様と思われる赤い社があった。本堂に住職の居住する建物がくっついている他は建物はない。山門もなく、隣の空地は鐘楼跡だろうか。

 道路が寺の横を回って裏の墓地に続いている。墓石群はかなり新しい。その途中に、細川頼春の墓所がある。茂みに隠されてとても分かりにくい。英文併記の表示板があるのだが、それ自体が茂みの中に隠されている。玉垣に囲われた大きな墓碑は、おそらく昭和に建てられたのではないかと思われる。その横にころがっている岩が古い墓石なのではなかろうか。ほかに一族と思われる尼僧の宝篋印塔と、少し離れて累代の墓石があった。累代といっても無縫塔だから、歴代の住職を祀っているのかもしれない。

 ただ、元の境内はかなり広かったのではないかと思われる。参道は県道、JR線を越えて真っ直ぐに続いていて、その間に中門、山門があったそうだ。寺からかなり離れたところに地神塔や、寺僧の墓地などが散在している。

 光勝院は貞治3年(1364)、細川頼之が四条大宮で戦死した父・頼春の13回忌に建立した。一族の菩提寺であり足利幕府の官寺であった秋月の安国寺・補陀寺の中の1院であった。

 後に、光勝院は萩原(大麻町萩原)に移転する。移転については別の事情もあったようだが、阿波の守護所が秋月から勝瑞に移転することと連動しているとみなされることから、移転の時期が問題となる。また、補陀寺との関係が古くから混乱しているようである。

 実際のところ、歴史上の事実というのは僅かな断片であり、その背後にどんな事情があったのかなどほとんど分からない。よほど確かな証拠でもなければ、簡単に結論付けるべきではない。

 そのうえで私の考えを述べるなら、補陀寺と光勝院が合併したなどは考えられない。一方の寺が焼けて、別の寺に本尊を預けたり、住職がいなくなって別の寺の住職が兼務するといったことはあり得るだろうが、いずれ再建すればよい。光勝院は阿波守護家の祖霊として独立して萩原に移転したと思われる。頼春の墓は移転しているが、和氏の墓は移転されていない。「補陀寺の光勝院」という由緒が言い伝えられただけではないか。

 また、守護所の勝瑞への移転は、阿波における南朝勢力の衰退から服属とともに、そもそも経済的な中心である東部に移らざるを得なかったのではなかろうか。康暦3年(1881)に祖谷山が降伏し、安宅頼藤が阿波を撤退して以降のことと思われる。

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posted by kaiyo at 00:44| 徳島 ☁| Comment(0) | 鳴門市 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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