2011年04月22日

斉明天皇記 その12

 斉明7年(661)1月6日、前年末から難波宮に居た斉明天皇は難波津を出発した。8日、吉備の大伯の海で、大海人皇子の妃・大田姫皇女が女の子を出産した。大伯皇女と名付けられた。14日に伊予の熟田津に到着し、石湯の行宮に滞在した。

 各地方からの軍は、各自ばらばらに瀬戸を航海し、熟田津に立ち寄っては筑紫に向かったのではなかろうかと思うのだが、そうした場面はない。天皇が熟田津を発ったのは3月も終わりの頃であった。

 熟田津に 船乗せむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな   

 天皇に替って額田王が詠唱したとされる。迷いのない勇壮な歌である。天皇が博多湾に着いたのは3月末であった。

 磐瀬の行宮に入った。この地を長津と改称しているので海岸と思われる。4月に入って、百済の鬼室福信は、改めて東朝(大和王朝)にも使いを遣って、皇子・豊璋の返還と援軍を求めた。

 朝倉山の木を伐り払って朝倉橘広庭宮を造営し、天皇は5月9日にここに移った。麻底良布(まてらふ)神社の辺りと考えられている。祭神は伊弉諾尊であるが、他に天照大神、素盞嗚尊、月讀尊、蛭子尊、伊弉册尊、 斎明天皇、天智天皇、明日香皇子、天照國照彦火明命が合祀されている。明日香皇子とは、その名前に関わらず倭国の大王と思われる。

 朝倉山はこの神社のご神体であり、麻底良山ということになる。この山の神は雷神であったらしく、その祟りで宮に雷が落ちたり、鬼火が現れて、病気になって死ぬ者が多かったという。にもかかわらず、天皇は祟りを避けるための試みを何もせず、朝倉宮に住み続けたようだ。

 そこは博多湾岸から40キロも内陸に入ったところで、遠征軍を指揮する場所ではなく、佐賀平野を含めて北部九州を統治するのにふさわしい。地図を見る限り、奈良の飛鳥とどこかよく似ている。直観的にという以外に何の根拠もないが、倭国の都はここにあったと思う。

 5月23日、先の遣唐使がようやくのこと帰ってきた。越州に留めていた船に乗り、4月1日に出港したが、陸地の見えない海上の航海技術が不完全であったらしく、9日間漂流して耽羅島(済州島)に着いた。島人の王子らを伴って帰り、以後、耽羅国との通交が始まったという。

 6月に「伊勢王が薨じた」とだけ書かれている。後の天智天皇7年6月にも「伊勢王とその弟王とが日をついで薨去した」とある。この二つの記事は同一事件と思われ、年代が分からなかったのであるらしいことから、伊勢王は大和王国ではなく倭国の王族ではないかと疑われる。しかし、天武紀に登場する伊勢王と同一人物とするには無理がある。

 翌7月に、斉明天皇は崩御する。中大兄皇子は8月1日に葬儀を行い、遺体を博多湾岸の磐瀬宮に移した。朝倉山の上に鬼が現れ、大笠を着けて葬儀を見守っていたという。はたして朝倉の鬼は天皇に祟ったのだろうか、それとも天皇を見守り続けてきたのだろうか。


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2011年04月10日

斉明天皇記 その11

 斉明6年(660)9月、長安で幽閉されていた日本の遣唐使らはやっと放免された。直ちに帰国の支度をして、10月には洛陽に入った。爾加委島で難にあい生き残った5人とも再会した。翌月、将軍・蘇定方が百済の王族ら50人ばかりの捕虜を引き連れて、洛陽に凱旋してきた。皇帝・高宗はその場で捕虜を釈放したという。遣唐使一行は高宗に挨拶して洛陽を後にした。

 百済の滅亡は、9月に百済の使者によって伝えられた。この頃には、百済の遺臣である鬼室福信、余自進らが兵を集めて反撃し、ある程度、領地を回復していたようである。10月、鬼室福信は、唐兵の捕虜100人ばかりをみやげに使者を送り、倭国に百済再建を依頼した。人質として倭国に居た皇子・豊璋を迎えて国王としたいということと、大規模な出兵を求めた。

 倭国にとっても、半島における影響力を失い、間近に敵が迫るという深刻な事態であり、直ちに出兵の準備を始めた。大和王朝にも要請をしたものと思われる。斉明天皇は、駿河国に大船を作ることを命じた。なぜ駿河なのだろう。駿河で製造された船は、小舟で引いて、太平洋岸を黒潮にさからって伊勢まで航海し、さらに難波津まで行かなければならない。駿河に特別な造船技術があったとしか思えない。応神天皇が長さ10丈の優秀船「枯野」を作ったのも伊豆であった。

 大和王朝の発祥地と思われる巻向遺跡では、外来の土器のうち半数が東海地方のものである。古くから特別な関係があったと考えられる。むしろ、東海地方に支えられ、その後、吉備地方と同盟して、有力な国になったのではなかろうか。

 清水平野に本拠を置く廬原君(いおはらのきみ)は、万余の軍を集めて従軍の準備をしていた。しかし、駿河の船は、伊勢で一夜のうちに艫と舳が入れ替わり、人々は戦えば負けることを悟ったという。

 信濃国からの報告では、「蠅の大群が西へ、巨坂(おおさか=神坂峠)を飛び越えて行った」と報告があり、やはり敗戦の前兆とされている。

 童謡(わざうた)が記録されている。「わざうた」というのは単なる童謡ではなく、自然発生的な民間歌謡に呪術的な意味を認め、史書に記されたものである。

 マヒラク ツノクレツレ オノヘタヲ ラフクノリカリガ
 ミワタトノリカミ ヲノヘタヲ ラフクノリカリガ
 カウシトワ ヨトミ ヲノヘタヲ ラフクノリカリガ

 意味がよく解明されていないらしい。それで、私流に訳してみる。

 這いつくばって、耕し植えた 私の田を 食べてしまうよ雁が来て
 いっぱいの収穫を祈っているのに 山の上の田を 食べてしまうよ雁が来て
 怖い兵隊が来たぞと叫んでも 山の上の田を 食べてしまうよ雁が来て

 雁が渡ってくる頃、信濃国では徴兵が始まったのだろう。収穫を目前にして、雁を追い払う案山子の役にもたたない兵士として、多くの村人らが巨坂を越えていったのだろう。そして、ハエの群れのように消え去った。

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2011年03月31日

斉明天皇記 その10

 斉明5年(659)、出雲国造に命じて出雲大社を修造した。その時、狐が意宇郡の役丁の採ってきた葛を噛み切って逃げた。また、犬が死人の腕を噛んで言屋(いうや)社に置いた。これらは天子の崩御の前兆と書かれている。斉明天皇は66歳、体調がすぐれなかったのかもしれない。

 意宇郡は島根県東部、安木から松江にかけての地域で、大和王朝はここを拠点に出雲を支配していた。言屋社とは現在もある 揖夜(いや)神社であり、古事記では伊賦夜坂は黄泉比良坂とされ、あの世への入り口と考えられていた。つまり、狐と犬の事件は、大和王朝に不幸をもたらすと考えられたのである。

 書紀は、高麗の使者とヒグマの毛皮のエピソードに続いて、斉明6年正月、高麗の使者・乙相賀取文ら100人が筑紫に着いたと伝える。この人物が何者かは不明であるが、相当に身分の高い人物であったようだ。

 当時、唐は新羅の要請を口実にして高句麗を攻撃していた。中国は、漢代の楽浪郡を自らの領土と考えていたので、隋・唐を通じてこの地にあった高句麗に何度も遠征軍を送ったが成功しなかった。

 高句麗の大臣・淵蓋蘇文は、皇極元年(642)にクーデターを起こして、栄留王ら親唐派を殺し、宝蔵王を擁立し、軍事独裁体制を築いていた。唐の遠征軍を撃退しつつ、百済と結んで(麗済同盟)新羅を攻めていた。高麗の使者は倭国に軍事協力を求めてきたと考えられる。

 唐はすでに朝鮮半島への大遠征を決めていて、日本の遣唐使は帰国を許されず、都に幽閉されていた。

 阿倍比羅夫は、再び北海道に渡るが、政庁は粛真の反撃を受けていて激しい戦闘になり、能都臣が戦死した。名をムマタツというから蝦夷の首長と思われる。粛真は家族を殺して敗走したという。書かれている以上に悲惨な戦いであったと思われる。

 乙相賀取文は、倭国と同盟の協議を行った後、5月に難波に着き、大和王朝にも協力を求めた。斉明天皇は仁王般若波羅密経の大法会を執り行い、また、「寺院の塔ほどある」巨大な須弥山を作った。中大兄皇子は漏刻(水時計)を作り、阿倍比羅夫は蝦夷50余人を奉り、せいいっぱいに国威を見せつけた。乙相賀取文らが帰途についたのは7月16日であった。

 この時、トカラ人・乾豆波斯達阿は、本国に帰りたいと申入れ、妻子を人質として残し、高麗の船に乗って「西海の帰途についた」。彼らは遠くペルシヤに帰ったのではない。おそらくは無人島に近いトカラ列島に新たに建国しようとしたのではないかと思われる。しかし、その計画は直ぐに破綻したと思われる。文武3年(699)にはすでに形跡がない。

 人々は険悪な半島情勢を知ってか、不安にかられて武器を持ち歩く者が多かったらしい。それもそのはずで、日本では、朝鮮半島に起原をもつ人々が集団で同居していたのであり、互いに他の集団がどういった行動をするか疑っていた。

 この月、新羅・武烈王は自ら軍を率いて、炭峴の峠の守りを突破し、百済に侵攻した。百済は内紛を起こしていて、王の下にまとまることができなかった。忠義の将軍・堦伯は、自らの家族を殺して決死の戦いに臨んだ。彼は少数の決死兵をもって黄山原に新羅軍を迎え討ち、4戦4勝したというものの、兵力を失って戦死した。唐は蘇定方率いる10万の軍を白江に強襲上陸させた。

 百済・義慈王は、なすすべもなく王都・泗沘城を捨てて熊津城に逃げたが、これも囲まれて降伏した。百済の滅亡、これが7月18日であった。

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2011年03月03日

斉明天皇記 その9

 斎明天皇5年(659)7月、2隻の遣唐使船が難波の港を出た。8月11日に博多湾を出発して9月13日には朝鮮半島の南西端にある島に到着し、翌日の早朝、2隻は黄海を一気に渡ろうとした。

 朝鮮半島北部は、新羅が一部を奪回して百済と戦争中で、高句麗攻撃のための唐軍が、目標を百済攻撃に変更し、南下しようとしていたと思われる。そのため、遣唐使船は黄海を渡って、山東半島に取りつこうとしたのだと考えられる。

 ところが、翌日になって北東の風が強くなり、両船は南西に流された。坂合部連石布の船は爾加委島に漂着し、島人によって多くが殺された。わずかに5人が島人の船を奪って逃げた。手漕ぎの小さな舟と思われ、それで括州に着いているので、爾加委島というのは浙江省沿岸のどこかに違いない。

 津守連吉祥の舟は16日に越州の会稽県の須岸山(舟山群島)に着いた。杭州湾口である。速度が速いことから嵐に近い状態のなかを操船もできずに漂流したものと思われる。

 吉祥連の一行は、22日に余姚県(寧波)に入港し、船と調度をそこに留めて越州の州衙(紹興)に行き、そこから長安に行ったが、皇帝は東京(洛陽)に居たのでさらに洛陽に向かった。皇帝に拝謁したのは閏10月末日であった。

 蝦夷の代表が、白鹿の皮と弓矢を献上し、皇帝は蝦夷の国の位置と習俗を尋ねた。書紀には日本の使者が蝦夷を手土産に連れて行ったかのように書かれているが、そうではない。中国側は「蝦夷国、倭国の使に随いて入朝す」と記録している。新たに朝貢してきた独立国の国使として対応している。

 11月1日にも拝謁したが、出火騒ぎがあって最後まで言上ができなかった。今回の使者は、唐に正式な国交(朝貢)を求めようとしていたと思われる。「正式な」というのは、これまで大和の天皇は倭国の中の一豪族として扱われてきたことに対し、独立した国として遇してほしいという意味である。

 しかし、これは当の倭国にとってはとんでもない話であり、12月3日に倭国の使者・韓智興は、その供人を遣わして、大和の使者が虚偽の申し立てをしようとしていると訴えた。だが、こうした訴えは唐の政治への介入であり、唐は韓智興に直ちに三千里の流罪を言い渡した。

 その一方で、訴えの通りであれば、大和の使者は唐の歴史認識を誹謗していることになり重罪であった。だが、具体的に不都合な内容が言上されたわけではなかったので、とりあえず流罪とされた。

 韓智興は、大和の使者が「倭国からの分離独立、あるいは宗主権の簒奪」の意図をもっている、これは「謀反だ」と考えたようだ。しかし、伊吉博徳が弁明して罪を許されているので、大和側は過去の経過をひっくり返すようなつもりはなく、現状を反映した処遇を求めたものと思われる。

 唐はその史書に、「倭国伝」と「日本伝」とに別けて二つの日本を書き記した。「日本伝」の冒頭には「日本国は倭国の別種なり。その国、日辺にあるをもって、故に日本を以て名となす。或いは言う、倭国は自らその名の雅ならざるを悪み、改めて日本と為すと。或いは言う、日本はもと小国、倭国の地を併せたりと」とある。

 つまり、日本国は倭国とは違う小さな国であったが、後に倭国を併合した。ただし、日本という名称は、倭国がその名前が気に入らないので改称したものを継続して使用したというのである。

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2011年02月19日

斉明天皇記 その8

 斎明天皇4年(658)、出雲国より報告があり、「北海の浜に、魚死にて積めり。厚さ三尺許。其の大きさ鮐(フグ)の如くにして、雀の啄(クチ)・針の鱗あり。鱗の長さ数寸」。人々が言うには「雀が海に入って魚になったもので、雀魚という名だ」。

 通常は暖流に乗ってくる針千本が、日本海側にまぎれこみ大量死したのを百済の滅亡の前兆だとしている。

 さらに、百済から帰ってきた使者は、金堂を周回し続ける馬に例えて、百済が新羅を攻撃したが勝利を得られず、一時的な休戦を挟んで緊迫した状況が続いていると報告した。

 斎明天皇5年、1月に天皇は紀の湯から帰ってきた。そして、3月1日、吉野の宮で大宴会をした。その年の農耕を始めるに当たって、山に籠って払いをしたと思われる。当時、吉野山に桜が咲いていたかどうか不明だが、花見遊山の習俗として今日にも残っている行事だ。

 旧暦3月は桃の節句とも重なる。起原は中国のようであるが、同じような農耕行事であった。川原や山中などで禊ぎや払いをして、払った邪気を人形にこめて流した。また、桃の花を浮かべた酒を飲んだ。曲水の宴も起原は同じである。3月に入って最初の巳の日であったので上巳の節句ともいう。酒舟石遺跡を連想させる。

 斎明天皇は、その3月3日には近江の平浦に行幸した。琵琶湖の西岸、近江舞子付近と考えられている。10日に例のペルシャ人夫妻に合い、17日には、甘橿岡の東の川原に須弥山を造って、陸奥と越の蝦夷を饗応している。年の初めであるかのようにあわただしい。

 (私の考えでは)能代で越冬した、阿倍比羅夫も行動を起こした。周辺の蝦夷を集めて土地の神を祀り、再び北海道に渡った。比羅夫の遠征軍は、軍というより探検隊に近いように思われる。180艘の船というが、その大半は食糧や資材を運んだと考えられ、兵士はせいぜい200人程度ではなかろうか。

 比羅夫は、秋田・能代・津軽それと北海道の蝦夷を率いてシシリコに到り、二人の蝦夷イカシマ・ウホナの提言に従い、シリヘシ(後方羊蹄)に政庁を設けて帰ったという。蝦夷富士として知られる羊蹄山は、旧名を後方羊蹄山(しりべしやま)というが、これは書紀の比羅夫の記事から名づけられたようであり、シシリコやシリヘシが本当は何処なのかという問題には何の参考にもならない。

 私が思うには、シリヘシは木古内か函館ではないか。つまり、これまでに渡島半島に郡家が設けられていないし、半島の大部分は粛真という異民族が居住していたとみられることから、そこを飛び越えて胆振方面に拠点を置いたとは思えない。その胆振支庁も明治初めに書紀を根拠に「胆振」と名づけられたもので、古くからの地名ではない。

 先に述べた「ヒグマの毛皮70枚」というのは、いくつかの粛真の集落を襲って殺すか、あるいは追い払って、そこに残されていたものを集めたと考えられる。毛皮の枚数は破滅させられた粛真の家族数を示しているのではなかろうか。
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2011年02月07日

斉明天皇記 その7

 斉明4年11月3日、蘇我赤兄は有間皇子を訪ねた。皇子の家は生駒市一分にあったというからちょっと立ち寄ったというものではない。赤兄は、天皇が紀の湯に行っている間、都の留守をまかされていた。有力者の家々を巡ってその動向を把握しようと努めていたと思われる。さりげなく政権批判の話をして相手の反応をみたりもしただろう。

 それを承知で、有間皇子が「兵を用いるべき時がきた」と述べたとすれば、皇子はこれを機会に赤兄を味方にとりこもうとしたと考えられる。有間皇子は、先ずは、彼を味方にするか、あるいは殺さなければ何もできなかった。赤兄は中大兄皇子の信頼が厚いとはいうものの、蘇我入鹿の従兄弟であり、石川麻呂亡き後、蘇我一族を率いる実力者であった。

 有間皇子が、赤兄の家を訪ねたのはその2日後の11月5日であった。もし、赤兄が直ちに報告していたとしても、天皇からの指示はまだ得られていないはずである。皇子は赤兄に決断を迫ったと考えられる。彼の出方によってはその場で殺すつもりであったかもしれない。塩屋連小才、守君大石、坂合部連薬を伴い、家臣の新田部米麻呂が皇子の護衛に付いていた。

 「ある本には」として、皇子は「大宮を焼いて、500人で1日2夜牟婁の津に迎え討ち、舟軍で淡路をさえぎれば…」と具体的な計画を説明したという。

 しかし、議論は「その後どうするか」というところで行き詰ったようである。占いをしたり、大王の人徳を論じたり、床几が壊れたことを不吉としたりで、とにかく直ちに行動を起こすことにならなかった。互いに秘密を守ることを誓約して別れた。

 だが、蘇我赤兄は見過ごすことはできないと判断した。その夜に造営工事の人夫を動員して有間皇子の屋敷を囲み、事態を天皇に報せた。他のメンバーについても自宅に軟禁したものと思われる。天皇の命令を待ち、9日になって関係者全員を逮捕して紀の湯に送っている。

 知らせを受け取った中大兄皇子は手勢を率いて直ちに北上したに違いない。謀反のグループに塩屋連がいた。彼は、今の御坊市付近の豪族であった。日高川河口の南に広がる丘陵地帯が海に落ちこみ、複雑な入江になっていた。古代海人が住みつき、製塩と漁業が盛んであった。そんな場所で反乱が起きれば、牟婁の湯(白浜温泉)にいる天皇一行は帰れないばかりか、少数の護衛兵しかいないのではどうなるか分からない。

 幸いにも、日高郡は何も知らされず平穏であった。しかし、地元の豪族を罪人として郡内に入れるのはまずかった。中大兄皇子はさらに北上し、藤白峠(海南市)で待つことにした。謀反人らは海路か陸路か不明だが、10日には藤白に到着したと思われる。さっそく取り調べが行われた。

 有馬皇子は「天と赤兄だけが知っている」と言って、冤罪であることを主張した。しかし、他の仲間たちはそうではなかったようだ。翌11日、有馬皇子は絞首された。塩屋連と家臣の米麻呂は斬刑に処された。

 塩屋連は「どうか右手で国の宝器を作らせてほしい」と言ったという。これはどうも中国の故事であるようだ。出典が思いだせないのだが、宝器造りの名人が罪に問われて利き腕を切られたが、残った片腕で立派な宝器を作ったという話だったように思う。つまり、「殺さないでくれたら、必ず国の役に立つものを」と残念がっているのである。学識のある野心家であったようだ。そもそも、有馬皇子謀反の計画を立案したのはこの人物ではなかったろうか。

 守君大石は、上毛野国に流されたが、直ぐに許されたようで、新羅征伐の将軍になり、その後、送使として唐に渡った。坂合部連薬は、尾張国に流されたが、これも間もなく許されたようで、壬申の乱で近江朝廷の将軍として戦い、戦死している。

 「磐代の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば また還り見む」という和歌が、有馬皇子の作として万葉集にある。磐代は南部町付近とされている。しかし、有馬皇子はそこまで行ったことがないと思われる。
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2011年01月24日

斉明天皇記 その6

 斉明4年(658)冒頭に、左大臣・巨勢徳太が亡くなった。巨勢氏は現在の御所市付近の豪族で、東漢氏とともに蘇我氏の権力を支えていた。巨勢徳太は蘇我入鹿の命で斑鳩を襲い、宮を焼き、山背大兄王を自殺させている(643)。

 ところが、その2年後、中大兄皇子らが蘇我入鹿を殺し、入鹿の遺体を蝦夷の屋敷に届け、法興寺(飛鳥寺)に籠った時、巨勢徳太はいち早く中大兄に付き、一族を挙げて蝦夷とともに戦おうとした漢直(東漢氏)らを説得して武装を解かせた。このため、蝦夷は諦めて屋敷に火を放って自殺した。

 その後、徳太は政権の中枢に加わり、大化5年、阿倍左大臣が亡くなり、直後に右大臣・蘇我倉山田麻呂も冤罪で死ぬと、左大臣になった。白雉2年には新羅討伐を提案するなど積極的な武人であったようだ。

 夏4月、阿倍臣(比羅夫)は180艘の軍船を率いて蝦夷討伐に向かった。秋田湾に入った。秋田のオガという者が服属したので、位を授けて能代と津軽2郡の郡領とした。領地でもない場所の領主にしたということは、従軍を求めたものと考えられる。比羅夫は、オガを案内にたてて能代から津軽に進軍した。船で海岸沿いに北上して津軽の海岸に達したと思われる。

 「有馬の浜に渡島の蝦夷らを集めて饗応して帰らせた」という。津軽の入江に松前付近の蝦夷を呼んで話をしたのだ。この後、比羅夫は北海道に渡ったと思われる。「この年、粛慎を討って、ヒグマ2匹・ヒグマの皮70枚を奉った」とあるからだ。粛慎は北海道の渡島の蝦夷よりさらに北に住む異民族で、アイヌではないかといわれる。粛慎と言っているのはおそらく北海道を大陸の一部と考えたからではなかろうか。

 7月、蝦夷200人余が朝廷を訪ね、斉明天皇は「常にもまして」饗応した。これには能代の族長サニグナ、津軽の族長メムが含まれていて、冠位や諸物を与えた。また、「判官には位一階、能代柵造大伴君稲積に冠位を授けた」とある。判官とは越後国守・阿倍比羅夫のことと思われ、能代には柵(城)が築かれていた。比羅夫の軍は、この年、能代で越冬したのではなかろうか。翌年春の蝦夷討伐の記事の前半がまったく同じ内容で、同一の遠征と考えられるからである。

 しかし、斉明天皇は5月に孫の建王を亡くし、悲しみに沈んでいた。建王は中大兄皇子の子で「言葉が不自由であった」と書かれているので障害があったのかもしれない。8歳であった。天皇はこの孫への愛情を抑えることなく、「わが死後は必ず合葬するよう」との詔を出した。

 7月、学僧・智達と智通は新羅の船で唐に向かった。新羅も僧だけなら船に乗せたようだ。二人は玄奘三蔵について学んだ。

 10月、斉明天皇は紀の湯に行く。有間皇子の薦めでその気になったらしい。「みなとの うしおのくだり うなくだり うしろもくれに おきてかゆかむ」と、建王を置いて行く想いを詠んでいる。建王の遺体は今木の殯宮にあって腐敗していたが、天皇にとっては未だ肉体を伴って生きていた。
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2011年01月16日

斉明天皇記 その5

 斉明3年(657)、トカラ国の男2人と女4人が筑紫に漂着した。駅馬を使って都に送った。7月15日の盂蘭盆会の日にトカラ人を招待しているので、12日以内で到着している。陸路で約600キロあるから1日平均50キロとなる。しかし、トカラ人は白雉5年にも漂着し滞在していたはずなので、招待されたのがどちらのトカラ人か分からない。あるいは同一事件であるかもしれない。つまり、男2人と女2人と舎衞女の5人が奄美に着き、九州滞在中に女の子が誕生して、4年後に6人で、筑紫から岡本宮に呼ばれたということかもしれない。天武4年(667)の記事に舎衞女・墮羅女の親娘が登場する。

 私の本では、トカラ国とはタイにあったドバラバティ王国と注釈がある。しかし、「大唐西域記」のトカラ国は中央アジアにある。後に出てくる人名からするとペルシャの人のようだ。

 さて、この時の盂蘭盆会であるが、「須弥山を象ったものを、飛鳥寺の西に作った」とある。須弥山は仏教における宇宙の構造を示したものである。現実の宇宙よりも大きいと思われる一つの小世界の中央に須弥山があり七重の山に囲まれている。人間はその外に浮かぶ小さな洲にいて生死を繰り返しているという。その小世界が27000000000個集まって仏教のいう三千世界を構成している。根拠は無いにしても、考えようによっては現代科学の描く宇宙と似ていなくもない。

 斉明天皇は、その後も須弥山を造り、宇宙に見立てた庭園に建てて、蝦夷や他国の使者らを饗応した。明治期にその須弥山石の一つが発掘されている。下部は噴水になっている。不思議な石像や、流水設備もあったようだ。

 当時にあっては最新の知識であっただろう。江戸時代に地球儀を見せるようなものであり、世界がどういう仕組みになっているかを教えることは、人間の存在を考えさせる。人々の中には衝撃を受ける者もいたかもしれない。理解できなくとも、言い表せない高度な思考を感じたことだろう。

 有間皇子は孝徳天皇の嫡子であった。しかし、実質的な王者・中大兄皇子に対抗できるはずがなく、いつ殺されるかもしれない身であった。書紀は「性さとく、狂者をよそおったところがあった」と書く。怯えて生きる18歳の青年であった。彼は行ってもいない紀国の牟婁の湯(白浜温泉)のすばらしさを誉め、「景色を見ただけで病気が治る」と言った。それを聞いて、天皇は行ってみたいと思った。

 この年、学僧・智達ら3人を唐に送った。百済への船に乗り、陸路で新羅に入り、新羅の船に乗せてもらおうとしたようだ。しかし、断られたらしい。

 実は、斉明元年(655)に、高句麗・靺鞨・百済の連合軍(麗済同盟)が新羅に攻め入って、北部33城を奪い、新羅の唐への連絡路である党項城を攻撃した。武烈王は唐に援軍を求め、唐は営州都督程名振、右衛中太将蘇定方らを遣わして高句麗を攻撃した。657年の情勢がどうなっていたかはよく分からないが、新羅は高句麗を押し返し、さらに北部に侵攻していたと思われる。学生とはいえ、敵国・百済と親交を深めている日本の使者を送るわけにはいかなかった。

 武烈王は律令制度の基盤を整備し、官位の低い貴族を能力本位で取りたて、王権を強化しつつあった。皇子や、妻の兄である金庾信らを信頼し、北と西の両面戦争を戦っていた。

 斉明天皇のもとへ、百済への使者がラクダとロバをみやげに帰ってきた。学生らも唐への留学をあきらめて帰ってきた。石見から白狐が発見されたと伝えてきたという。
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2011年01月10日

斉明天皇記 その4

 斉明天皇は治世2年、岡本に新宮を造営して移った。おそらく望んだとおり瓦葺きだったのではなかろうか。後飛鳥岡本宮という。

 また、多武峯に垣を築いたとある。「垣」は城を意味する。城といっても中世の城とは全く違う。高い山を中心にして尾根に土塁を築き、かなり広い範囲を囲うもので、地域の住民まるごと避難する場所である。内部には食料などの倉庫が建てられ、頂上には宮殿まで用意され、両槻宮(ふたつきのみや)と呼んだという。5キロほど山に入った現在の談山神社周辺と思われる。

 さらに、石上から香久山まで水路を掘り、200艘の船で石を運び、宮の東に垣を造ったという。これが酒船石遺跡ではないかといわれる。しかし、これも「垣」と書かれていて、城として認識されていたようだ。酒船石のある小山は3段に削られ、それぞれの段に2m以上の石の城壁が築かれたと考えられている。だとすれば、これは外観上は石の城砦である。

 その上、吉野の宮を造営したという。これも含めて考えてみれば、首都防衛構想ではなかろうか。そうすると、中大兄皇子が難波宮を捨てたのも、斉明天皇が小墾田に宮を移そうとしたのに反対されたのも、そういう全体の構想があったからだと思えてくる。そして、この構想は遠方の敵に備えたものでなく、北や西から来る近隣の脅威に対応するものと考えられる。東や南は想定されていない。

 私の本では、岡本宮は雷丘周辺とされているが、これでは小墾田宮と同様に北の平野に飛び出してしまい、防衛圏の外になってしまう。甘樫丘を防波堤としたその内側でなければならない。

 日本書紀には、「たわむれ心の溝工事」「垣造りのむだ7万余」などの謗りが記されている。これらは豪族らの反感ではなかろうか。大王は豪族らが担ぎあげた代表にすぎなかったが、今や軍事的にも個々の豪族では歯がたたない強力な権力になりつつあった。

 「たわむれ心の溝」は、それらしきものがすでに飛鳥坐神社の近くで発掘されている。幅10mくらいの運河であるらしい。私が意外に思ったことの一つだが、この盆地では運搬手段として古くから船が使われているようだ。3世紀の巻向遺跡でも大規模な運河が発掘されている。奈良盆地は内陸の水運によって一段高い経済的発展を遂げたのではなかろうか。

 酒船石は依然として謎であるが、この丘の下で新たに発見された亀型石遺構は、それまでに発掘されていた巻向や南郷の流水施設と同じものと思われ、一般に古くから行われていた水の恵みを祈る年中行事の施設と考えられる。酒船石の丘は戦時には砦だが、通常は様々な行事に使われていたのではなかろうか。

 酒船石もおそらくは水を流す施設に違いないのだろうが、そうだとすると水を運び上げなければならない山上にあるのはおかしい。また、ナスカの地上絵のようなあの図柄は、これに似たものが他に見つかっておらず、何らかの必然的な理由がなければあり得ないものだ。

 もう一つ不思議に思うのは洪水の記録が少ないことだ。書紀を通じてそうなのかは確認していないが、斉明天皇の生涯でいえば、舒明8年に長雨があって洪水被害があったという以外に記録がない。大雨、長雨、大風というのはよくあったようだが、洪水になったとは書かれていない。

 日本の地形から考えて水害は多かったはずなのだが問題にしていない。農業国家であったはずにも拘らず、この政権は、雨乞いはしているが、治水はやっていない。さほど広い地域を掌握している訳ではなく、支配といっても、税金を納めさせる代わりに冠位や権利を与えるという関係があるだけで、直接、政治をしているわけではないのだろう。
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2011年01月06日

斉明天皇記 その3

 斉明元年(655)、「夏5月1日、大空に竜に乗った者が現れ、顔かたちは唐の人に似ていた。油を塗った青い絹で作られた笠をつけ、葛城山の方から、生駒山の方角に空を馳せて隠れた」という。これはUFOだ。

 日本書紀は、過去の記録を編集したもので、その編集には大きな作為があるものの、個々の記事を新たに創作したとは思えない。そうすると、このUFOは多くの人が目撃して騒ぎ、役人が目撃者の談話を記録したのであり、書紀の編集者はその事件が斉明天皇紀の冒頭にふさわしいと考えて挿入したに違いない。

 このUFOは、北に飛ぶ途中でふっと消えて、改めて「正午頃に住吉の松嶺の上から、西に向かって馳せ去った」と追記されている。これはおそらく難波における目撃談であろう。UFOと言うしかない現象は実際にある。しかし、説明できないものを見た人はしばしば自分の中の妄想を語る。

 7月、難波の宮で、北の蝦夷99人、東の蝦夷95人、同時に百済の使者150人にも饗応した。柵養の蝦夷、津軽の蝦夷に冠位を与えたという。

 8月、遣唐使が帰ってきた。前年2月に出発したもので、洛陽に達し高宗に拝謁した。押使の高向玄理はそこで客死し、大使の河辺臣麻呂らが帰国した。2艘の船に使節団を別けて乗せ、大使は2人いる。上位の大使を押使と言っているようだ。1艘が沈んでも別の1艘が到着すれば役目を果たせるようにしていた。

 冬10月、斉明天皇は小墾田に瓦葺きの宮殿を造りたいと思ったができなかった。おそらく強い反対にあったのだと思われる。しかし、まもなく板蓋宮は火災に遭い、川原宮に移ることになった。

 高麗、百済、新羅がそろって使いを送り調(みつぎ)を奉った。百済の使節団は100人を越えた。新羅はこれとは別に人質と12人の才伎者(技芸者)を送ってきた。朝鮮との関係を少し遡ってみる。

 もともと、朝鮮半島南部は文化も民族も共通していて外国という認識はなかったと思われる。「倭」というのは南朝鮮と西日本を含む地域と住人を意味しているかもしれない。

 そして、応神・仁徳天皇は、朝鮮の有力な王族で、半島南部に支配権を持っていたと思われる。しかし、その血脈は武烈天皇で途絶え、継体天皇は応神5世の孫と主張したが任那の宗主権を失ったと考えられる。任那4郡を百済に割譲することでなんとか任那の存続をはかった(512)。だが、その子の欽明天皇の時に任那は新羅によって滅される(562)。任那というのが地域なのか国なのか諸国なのかよくわからないが、百済も新羅も過去の姻戚関係によって継承権を主張できる立場にあったのではなかろうか。

 任那を併合した新羅は、日本の抗議に対して任那の調を肩代わりして納める約束をしたようである。ただ、その約束は守られなかったらしく、推古天皇は治世8年に新羅征伐を行った。実際に戦闘が行われたとは思えない。要は任那の調が納められることが問題であり、そのことによって、日本国内では任那が存続したのである。推古31年にも新羅征伐が行われるが、戦闘はまったく無いまま和睦している。その後はおおむね新羅によって任那の調が納入されたようで、百済が占領した年(642)は百済が肩代わりしている。

 孝徳2年(646)、高向玄理が新羅に派遣され、任那の調の肩代わりを廃止し、その代わりに人質を差し出すことを求めた。中大兄皇子は宿願であった任那復興をあきらめ、百済との同盟を中心にして朝鮮での影響力を維持しようとしたものと思われる。玄理はこの交渉をとりまとめ、金春秋を人質として連れ帰った。

 日本書紀は「春秋美姿顔善談咲」と書いている。こういう表現は珍しい。45歳の金春秋は、立派な体格でありながら女性のようにやさしく美しい顔立ちをしていて、よく話し、語れば周りを華やかにした。よほど魅力的な人物だったのだろう。

 彼は翌年には唐の人質になり、太宗から支援出兵の約束をとりつける。自らの子らを人質として唐に留め、国の制度を唐風に改めていく。白雉2年の新羅の使者は唐服を着用していたため、中大兄は使者を追い返したという(651)。そして、斉明天皇即位の前年(654)、大きな人望を背景に新羅・武烈王として即位した。52歳と思われる。
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2010年12月26日

斉明天皇記 その2

 日本書紀の斉明天皇紀の冒頭には、「…初め用明天皇の孫高向王に嫁して、漢皇子を生まれた。後に舒明天皇に嫁して、二男一女を生まれた」とある。私が読んでいる日本書紀は、「全現代語訳・日本書記 宇治谷孟著」である。

 「高向王」をネット検索すると、謎の人物であることが分かる。用明天皇の孫とあるが、親の名がないので系図として繋がらない。その正体は蘇我蝦夷とか高向玄理とか諸説がある。漢皇子も同様で、天智天皇、あるいは天武天皇ではないかと様々な推理がされている。

 しかし、素直に読めば次のようになるのではないか。寶女王は高向王と結婚し漢皇子を産んだが、まもなく高向王が亡くなり、田村皇子と再婚した。その田村皇子が舒明天皇になり、その皇后となった(舒明2年 630年)。それだけなら、帝紀にわざわざ書く必要が無い。しかし、日本書紀編纂の時点で、漢皇子あるいはその子孫が生存していたとすれば、その身分にかかわる重大事であるので書き漏らすことはできなかったはずだ。

 641年に舒明天皇が亡くなったが、この時には後継者争いが記されていない。舒明天皇の第一子には古人皇子がいて、大兄皇子と呼ばれていたので後継者とみなされていたと思われる。しかも、その母は時の実力者・蘇我馬子の娘であった。また、舒明天皇と皇位を争った山背大兄皇子(聖徳太子の長子)がいた。普通に考えると大きな争いになると思われるのだが、いつの間にか東宮(後継者)には16歳の開別皇子(中大兄皇子)がなっていて、皇后であった寶女王が皇極天皇として即位することになった。書紀には何も書かれていないが、舒明天皇の明確な遺志があったのではないかと考えられる。

 しかし、蘇我氏と上宮家(聖徳太子一族)の確執は次第にエスカレートして、皇極2年11月、蘇我入鹿は斑鳩を襲い、山背大兄皇子を自殺させた。次は自分だと身の危険を感じた中大兄皇子はその翌年1月から中臣氏と謀議を重ね、6月には逆に蘇我氏を滅ぼしてしまう。皇極天皇はその翌日、直ちに異母弟の軽皇子(孝徳天皇)に位を譲り、息子の中大兄皇子を皇太子とした。軽皇子は中大兄と中臣連の間を取り持ち、年齢からすればこの謀議の盟主であったとも言える。

 蘇我氏は、自家の血をひく古人皇子を皇位につけようとしていたのであり、そうである限り自らが皇位を簒奪する理由などない。とりわけ蘇我蝦夷は権力争いの絶えない宮廷を粘り強くとりまとめてきた慎重な大臣であったと思われる。それだけに、皇太子である中大兄は、何もしなければいずれ追い落とされるのが確実と考えていたのだろう。

 孝徳天皇は、難波宮に遷都し、改新の詔を発して、天皇の権力を強め中央集権体制を確立させる政策を次々と打ち出していった。しかし、中大兄皇子は大化元年(645)、吉野山に出家していた古人皇子を謀反の罪で殺し、5年には右大臣・蘇我倉山田麻呂を冤罪で滅ぼし、蘇我の血脈を絶った。白雉4年(653)には、難波宮に役割が終わった孝徳天皇を置き去りにして飛鳥に帰還する。実権はこの恐ろしい皇太子・中大兄にあったようであり、孝徳天皇は翌年、難波で病死した。

 斉明天皇が、飛鳥・板蓋宮で即位したのは655年春1月で、数え62歳であった。
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2010年12月21日

斉明天皇記 その1

 今月9日、明日香村の牽牛子塚古墳のすぐ側で石室が見つかったと発表された。越塚御門(こしつかごもん)古墳と名付けられた。

 牽牛子塚古墳は昨年から発掘調査が行われ、八角形をしていて、石室は80トンの巨岩をくりぬいたものであることが分かった。しかも石室は二つ並んで作られていた。その側にもうひとつの墓が見つかったのである。

 天智天皇は、その治世6年(667)に近江に遷都し、翌年に即位して天皇になる。その近江遷都直前に、母の斉明天皇と妹の間人皇女(孝徳天皇后)を小市岡上陵に合葬し、同じ日に娘の大田皇女(大海人皇子妃)をその陵の前の墓に葬ったとされる。牽牛子塚古墳はまさに日本書記のこの記事の通りであった。

 斉明天皇は661年に九州・朝倉宮で亡くなり、遺体は3ヶ月かけて難波に運ばれ、さらに飛鳥川原宮に帰って殯したとされる。殯とは、そのための宮に棺を安置し祀ることで、かなり長い期間に及び、その後に埋葬された。腐敗し白骨化するまで見送る古くからの習俗と考えられるが、その死者にふさわしい墓を築く期間が必要でもあった。いったん墓所に埋葬されてから別の墓に改葬されることもあるが、斉明天皇は667年まで埋葬されたという記録がない。

 間人皇女は665年に亡くなっている。天智天皇は、皇女のために330人を出家させたという。ということは、天智天皇は仏教の儀礼で、母と妹の「殯」を行ったものと思われる。

 大田皇女の没年は分からないが、間人皇女の死から1年も経たない頃だったのではなかろうか。大海人皇子との間に幼い大伯皇女(661生)と大津皇子(663生)が残された。

 さて、斉明天皇は、敏達天皇の孫・茅渟王の娘として、推古2年(594)に生まれた。母は吉備姫王という。諱は寶女王(たからのひめみこ、たからのおおきみ)である。祖父は押坂彦人大兄皇子で、水派宮に居て、用明天皇の崩御(587)に際して王位継承者として候補に挙がったらしい。しかし、この時は後継を巡って戦争になり、穴穂部皇子らが殺され、厩戸皇子(聖徳太子)の祈りによって物部氏が滅亡している。とても出番は無かったし、それどころか殺されたのではないかという説もある。そして、即位した崇峻天皇も5年後には暗殺されている。

 当時の天皇は、部族連合の盟主のような地位であったと思われる。蘇我氏や物部氏といった有力者はその支配地域ではそれぞれが王者であった。誰が天皇になってもおかしくはなかったと考えられる。

 寶女王は、高向王(用明天皇の孫)と結婚して漢皇子を産んだが、630年に舒明天皇の皇后となった。そして、中大兄皇子(天智天皇)・間人皇女(孝徳天皇后)・大海人皇子(天武天皇)を産んだ。
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