2014年06月24日

淡路島 その9 カネボウ 「続近世淡路史考」より

洲本市街

 我が国に綿花が伝わったのは、延暦18年(799)といわれる。「日本後紀」などによれば、三河国に漂着した崑崙人が、綿の種と栽培法を伝えたという。彼は紀伊、淡路、四国、筑前にも綿の栽培を伝え、近江国分寺で僧侶となったとされる。

 西尾市天竹町には、新波陀神(にいはたがみ)を祀る天竹神社がある。全国で唯一の綿神さまの神社である。10月には棉祖祭が行われる。

 こうした伝説は、事実かどうかわからない。また、「万葉集」や「続日本記」にも綿と思われる記述があり、それ以前から栽培されていたとも考えられる。いずれにしても、需要が拡がらず、商業的に流通することが無かったようだ。

 「野語述語」という本に、永録天正の頃(1550年代頃〜)に琉球から渡ってきたと記されているらしい。戦国時代に火縄や衣類に使用されるようになって、広く普及するようになったようだ。

 「続近世淡路史考」で武田清市氏は、正徳2年(1712)に発刊された「和漢三才図会」の記述が、淡路木綿についての最初のものだろうと言う。すでに大阪市場で木綿が取引されていた。淡路木綿は「毛緬」と記され、太糸物(アツシや暖簾に使われた)であった。

 農家が麦畑の裏作として栽培し、糸を紡ぎ、機を織っていた。出入りの商人が直接農家を訪ねて集荷するようになると、生産高も上がっていったに違いない。

 安永7年(1778)、大阪商人に莫大な借金をしていた徳島藩は、この毛緬の積み出しに「反掛り」という税をかけて、借金返済の一部に充てた。翌年には、毛緬を取り扱う商人に冥加銀を出させた。銀1貫500目を藩に納めると「(毛緬の)商売御免仰せつけらるる」のだ。さらに、取引の利権を分散させて価格を吊り上げようとした。藩によって収奪された商人らは生産者である農民を買いたたいた。

 文政2年(1819)の入田村庄屋・小野家文書には、同村木綿商・五兵衛が綛糸(かせいと)および雑糸を大阪の問屋に販売したことが書かれていて、すでに淡路毛緬の織布は姿を消し、実綿を輸入して糸を紡ぎ、その糸を淡路カセとして売っている。機織りから紡績業に変わっている。産業の発展拡大により分業化せざるをえなかったのだろう。

 文久3年(1863)、洲本の市中総年寄・岡忠右エ門は、大阪長堀西浜町に淡路綛糸見競問屋を開店した。徳島藩蔵屋敷を通じて加島屋作五郎に金融を頼み、大阪商人に独占されていた綛糸取引を淡路の商人らで行おうとした。だが、幕末騒乱のなかで経営不振に陥り、明治2年に店をたたむことになった。

 明治16年頃には、機械による紡績によって淡路綛糸は消えようとしていた。淡路物産商社・奥野義郎は、「一大転換」を発議し、住友財閥の広瀬満正、大阪の検事正・伊藤重義らを発起人として、明治27年に淡路紡績株式会社を設立した。日清戦争が始まった直後のことだった。

 淡路紡績株式会社が実際に操業を始めたのは明治29年であった。幕末淡路の綛糸生産量の7倍を上回る生産能力を持っていた。しかし、日清戦争後に訪れた不況によってたちまち赤字転落し、明治32年に鐘ヶ淵紡績に30万円で売却された。

 始まったばかりの近代紡績業は、景気の変動と海外競争のなかで、日紡、東洋紡、鐘紡の3社に統合されつつあった。

 この頃、洲本では大規模な河川・港湾改修の計画がまとまろうとしていた。洲本の港は洲本川の河口にあった。川によって運ばれてくる土砂が港に堆積した。小さな港なので絶えず浚渫をしなければ小船の出入りもままならなかった。浚渫費用が町の総予算を超えても不十分であった。川床も上昇して、大雨が降れば町や田畑が浸水した。

 そこで、川の流れを変えて、港を分離して整備しようという計画ができた。洲本のすぐ北、潮村のど真ん中に真直ぐに川を通して海に流しこもうというのだから、潮村では当然強い反対運動が起こった。漁業関係者の反対もあった。それでも明治34年には話がまとまった。土地の買収にはさらに時間がかかり、翌年に最後の反対者8名の土地を強制収用して終わった。

 工事は明治35年から始まり、紆余曲折はあったが、37年5月には前期工事が完了した。つまり、新川掘削と港の改修ができたのであり、7月には祝賀行事が行われ、約60発の花火が打ち上げられた。後は旧川の埋立造成であり、前期工事で生じた土砂によってかなり進んだ。しかし、日露戦争が始まり、工事は全て中止となった。戦後再開されたがペストが発生したりして遅延する。

碑文 町は、鐘ヶ淵紡績に新工場建設を要請した。埋立てで新たに6万坪の土地ができる。これを無償で譲渡するとした。鐘紡は大阪に新工場を建設しようとしていたところであった。明治41年に契約が成立すると、直ちに工事が始められ、建設中の大阪新工場の機材が運び込まれた。翌年には操業が始められた。旧淡路紡績を第1工場とし、新工場を第2工場とした。その間には軽便鉄道が敷かれ、資材の運搬が行われた。未完の造成工事は鐘紡によって完了されたと思われる。

 その後、設備が増設されていき、大正5年には第2工場の隣に第3工場が着工された。第一次大戦のため操業は大正9年となった。工業用の水道も完成した。大正13年の従業員は3925名であった。大正15年の売上高は1987万余円であり、この時の洲本町の財政は26万余円であった。

 第4工場は、第2工場にあった織布部門が分離独立したもので、昭和の始めには1600台の織機を有する綿布生産工場になった。昭和9年には第3工場の横にやはり織布専門の第5工場ができた。

 しかし、昭和12年に日中戦争が始まり、日本は国際的に孤立を深めた。原料の輸入途絶、日本製品の不買などで生産を縮小しなければならなかった。昭和14年に第1工場が休業に入り、16年には閉鎖された。さらに第2工場、第4工場も休止した。第3工場は手に入る原料でなんとか操業を続け、軍服の生産などで存続した。稼働しなくなった設備は供出されて、その多くがスクラップとなった。

 敗戦を迎えたが、洲本工場は爆撃による破壊をまぬがれた。2基の火力発電設備が生き残っていて、戦後の復興を容易にしただけでなく、余剰電力を洲本の町に供給した。

 昭和23年には、鐘紡洲本工場は復活した。精紡機66956錘、職機1910台であった。第1工場が無くなったので、第3工場が第1工場になった。第4以下はひとつ繰り上がった。

 昭和25年、昭和天皇が立ち寄られ、従業員を激励した。朝鮮戦争の影響で生産が増大していて、従業員も2800余に及んだ(碑文その他では4200人となっているが、ここでは著者に従う)。

 鐘紡洲本工場は、その後も順調に発展し、合理化や新技術の導入を図るとともに、定時制高校、保育専門学校を開校するなど、地域と一体になった企業活動を展開した。昭和45年には、創業70周年式典を行っている。

 しかし、すでに繊維事業は斜陽を迎えていた。カネボウは化粧品事業で業績を伸ばしていたが、他部門はかんばしくなかった。とりわけ、繊維は毎期損失を重ねていた。昭和48年に始まったオイルショックは事態を明らかにした。あわてて経営改革に取り組み、事業の整理を始めた。同時にエレクトロニクスなどの新規事業に参入した。

 そうしたなかで昭和61年、鐘紡洲本工場は87年の歴史を閉じた。

 カネボウは、その後も分社化、子会社の合併などを繰り返したが、平成13年に債務超過に陥り、それを隠して粉飾決算を続けた。そのため平成15年に上場廃止となり、経営陣は逮捕された。化粧品部門をカネボウの商号とともに花王に売却し、残った子会社は営業権の譲渡を受けてクラシエグループとなり、さらにホーユーに買収された。平成19年、旧カネボウは解散を決議し、清算会社となり、翌年にはトリニティ・インベストメントに吸収合併されて消滅した。

工場跡



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2014年05月29日

淡路島 その8 近世淡路史考

近世淡路史考 淡路島は現在、兵庫県に属す。しかし、江戸時代を通じて徳島藩領であった。ならば、淡路島の史料は徳島にあるのではないかと思って、県立図書館を訪ねた。ところが、郷土史の書架には、淡路島を主題にした書籍は1冊しかなかった。それが「近世淡路史考」であった。

 著者は武田清市氏で、大正12年に洲本に生まれ、昭和19年に広島高等師範学校を卒業したという。学徒動員令が出された年で、9月に繰り上げ卒業になったと思われる。一旦は津和野中学の教職についたようだが、徴兵されて終戦まで軍隊にいたそうだ。戦後は教職と教育委員会にあって、昭和58年に西宮高校の校長として定年を迎えている。その間、昭和29年から古文書の解読・整理を学び、昭和35年には淡路史の研究会を発足させている。退職後は淡路文化資料館の委託を受けて、館に寄せられた古文書の整理を続けているそうだ。

 「近世淡路史考」は、それぞれ独立した九つの話からなり、多くの古文書の中からトピックスとでもいったものを取り上げ、検証を行いながら、その古文書を書き遺した村役人や町役人の活躍を描こうとしている。主役は武士ではなく、有力者ではあっても支配者ではない農民や町人なのだ。

 第1話では、年貢や人の運搬から始まり、船主自体が商売をする買積船が現れて活躍する様を描く。一宮町江井浦の住田家は文化年間から明治初頭まで、最盛期には7艘の中型廻船を運行して中屋金作船と呼ばれ、熊野から阪神さらに長崎に至る営業を展開して栄えた。明治に入ると廻船をやめて、豊富な資金を土地の購入にあてて大地主となったという。

 第2話は、由良の港の入り口付け替えである。由良は紀淡海峡にあって、大きな潟湖に風待ち潮待ちの船を多数停泊させることができたため、古くから海上交通の拠点であった。ただ、潟湖への入り口が難所であったらしい。明和元年(1764)、徳島藩は幕府に改修を願い出て、翌年から1年10ヶ月かけて工事を行った。有力な庄屋と町役人が請負人となって、菱垣廻船の問屋らに帆別銭の先納という形で出資させて工事費用としている。

 第3話は、淡路往還町送り(ちょうおくり)という制度の破綻である。藩士が公用で淡路を通過する場合、経路の各村が運送を申し送り、負担するものであった。藩士は無賃で旅行でき、村々には賦役の減免などの代償措置があった。しかし、時代とともにバランスが崩れ、村々の負担が大きくなり、天保3年(1832)に「町送り一揆」が起こった。一揆は洲本入り口の物部村に至り、町送り上裁判の庄屋・佐野助作、藩役人らと談判した。

 第4話では洲本の町人の社会が語られる。脇坂安治が洲本に城を築き、その麓に一応の城下町ができた。蜂須賀氏が当初は由良を本拠としたため、有力商人は由良に拠点を置いた。「由良引け」で洲本に城を移し、計画的に城下町を建設すると、商人らは洲本に集中した。そして地方の特色ある町人世界が生まれた。市中総年寄、紙座肝煎、5人組といった町役人組織、町人による一定の自治が示される。

 第5話は、その洲本で起きた大商戦を描く。宝暦10年(1761)、庄屋・佐野助作が城下への入り口である物部村に「よろず取り揃え所(百貨店)」を開店した。農民と商人は厳しく区別されていたが、助作は酒の販売を願い出て許可され、さらに、商人の株を親族の長兵衛に相続させて営業を可能にした。洲本18町の商人らは、連名してこの新たな商売敵の出店差し止めを藩に願い出た。団結して、手段を尽くして妨害したものと思われる。
 12年以上に渡って商戦が展開されたが、明和元年に助作が由良湊改修の筆頭請負人となり、長兵衛らも安永2年には商売から離れ、百貨店は解体した。徳島藩が重喜の改革の時期を過ぎて、商人保護に傾いていくのを不利とみて撤退したのだろうと推理している。

 第6話は、桑間村の庄屋であった河合家の記録である。初代は、播磨から淡路に来た武士であったが、2代目の時、主家が滅亡し、その後仕えた池田氏も転封となった。3代目は由良で医者を開業した。「由良引け」で洲本に移転した。4代目は武士を捨て去り紺屋職となり、以降は紺屋町5人組に名を連ねる町人として生きた。
 ところが、9代目・丁字屋市左衛門は、明和4年(1767)、4年間の臨時同心を経て、安永2年(1773)には上内膳村の庄屋に任じられた。町人に、「御上様をも恐れ入り奉らぬ」農村の庄屋をやれというのだから、異常である。しかも市左衛門は、村をよく治め、10年後の淡路最大の一揆「縄騒動」においても、村人の暴走を押しとどめたようだ。次代は、養子が上内膳村庄屋、実子が桑間村庄屋として栄えたという。

 第7話は、「天保8年(1837)、大凶作病気流行にて福良で1300人死去」との「福良古事記」の記事を検証したもの。過去帳によると病気は「痢病」とあり、おそらくコレラと思われる。また、飢餓も加わっているようだ。
 三原郡代・佐藤平次は自ら福良に出向いて対応した。王子村庄屋・砂川又左エ門は突然、郡代に呼び出され、一行に加わることを命じられ、調査や救援活動を行った。その詳細な日記が全文掲載されている。又左エ門らは各家を訪問調査し、金品や食料などを配布した。寺に多数のトイレを建てたということは、患者を隔離収容したのだろう。不眠不休であったのか、体調を崩し1日寝込んでいる。又左エ門の記録には身の危険など一切書かれておらず、「是ほどの大役」と、必死に奮闘している。翌年4月頃には沈静したようだが、事件は秘匿され公的な記録にもない。

 第8話は、幕府の摂海巡見である。摂海というのは大阪近海を意味する。ロシア軍艦ディアナ号が大阪湾に来航したことから、京都の朝廷が驚愕し、幕府は大阪湾の防備を調える必要に迫られた。安政2年(1855)、海防掛・石河政平、同目付・大久保忠寛ら150人が巡見することになった。最後尾には、31歳の勝麟太郎の名もあった。
 幕府重役の大挙巡見は前代未聞のことであり、その受入れのために、郡代は先ず砂川又左エ門を呼んだ。又左エ門は翌日には大阪に向かい、岸和田、加太を行ったり来たりして情報を集め、報告した。「調査する」のが役目であるが、その結果は日程、道案内、宿割り、人足や駄馬、船の手配まですべて取り仕切ることになる。質問に対する回答の要領まで書き送っている。丸投げと言っても良い。
 その後、由良、岩屋、洲本に台場が築かれ、洲本には大砲鋳造場が建設された。もちろん守備隊も増強された。由良には陣屋が設けられた。

 第9話だけ、内容が異なっている。古文書からのトピックスではない。西宮傀儡師から淡路人形が誕生し、時勢に対応して人形浄瑠璃として盛んになっていった。しかし、西宮傀儡師は、古い体制から脱皮することができずに消え去ったという話である。
 淡路人形発祥の地とされる三条の地名は、「産所」あるいは「散所」の転嫁であろうという。だとすれば、たんに人形の技術が伝えられたのではなく、一定の集団が移り住んだか、元々共通の社会基盤があったものと考えられる。

 著者は、この本を平成元年に出版している。60歳で定年退職してから6年経っている。「日暮れて尚道遠し」と感慨を記している。しかし、平成5年には「続編」を出版している。70歳であった。さらに平成15年、「村落の歴史」を出版した。80歳で「新しい淡路史を著作しよう」と決意している。「途上でいつ瞑目するかわからない」と断りながら、「家と人の歴史」「在地文化の研究」と次の作品を構想している。平成25年には新作出版はなかったようだが、現在91歳を迎えられている。

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2014年05月04日

淡路島 その7 洲本散策

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 その日は、洲本・イオンの駐車場に車を停めた。昼が近かったので、イオンで弁当を買った。淡路フェアのコーナーもあったので、たこ煎餅などの土産も買った。

 このイオンを含めて、量販店やレストラン、図書館などの公共施設が立ち並ぶ広い領域は、元はカネボウの紡績工場であった。明治42年、洲本川を埋め立てて建設されたという。塩屋という地名からしてそれ以前はtanu-4.jpg製塩が行われていたのではなかろうか。

 中央部は公園になっていて石碑やモニュメントがあり、周囲には赤レンガの建物が並ぶ。旧紡績工場の残骸を活用して、その面影を伝えるために復刻されたようである。赤レンガの前に、ゆるキャラ風のお松狸が座っていた。芝右衛門狸の娘でたいそう美人であったそうだ。

 三熊山の天守閣を目指して、市街を歩いていった。私が歩いたコースは城内であったらしく、道が折れ曲がっていた。100メートルも歩くと突き当たる。突き当たって少し横にそれると次の通りが現れる。これは椿泊と同様に敵の攻撃をやりにくくするためのものであり、軍事の町であったことを物語っている。

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 厳島神社に着いた。淡路島弁天さんを祀り、秋祭りは島内最大のものだという。荒神さんと句碑の前に武左衛門狸が座っていた。稲基神社の碑とともにお登勢の碑もある。

 稲基神社は稲田家の先祖を祀る神社と思われる。稲田家は蜂須賀氏に与力して軍功があり、徳島藩の筆頭家老となった。そして事実上、淡路の領主となった。明治維新では煮え切らない徳島藩と異なり、勤王の姿勢を明確にして功績をあげた。しかし、明治2年の版籍奉還に際して、稲田家家臣らは陪臣であることから士分としての待遇を受けることができなかった。そのため淡路の分藩独立を願い出たことから、徳島藩士らが稲田家中を一方的に襲撃した。庚午事変という。稲田家臣20名が死傷し、襲撃した藩士90名は断罪されたのであるが、稲田家はその家臣団とともに北海道開拓を命じられた。この時、稲基神社を移住先の静内に遷したという。お登勢はこの事件をモデルにした小説のヒロインである。

 さらに少し歩くと、八幡神社がある。淳仁天皇の創祀とされ、永祚2年(990)に国司・藤原成家が淡路州神として創建したという。また、明治12年に稲田家臣団が中心になって、徳島の国瑞彦神社(蜂須賀家政を祀る)を分霊して国瑞彦護国神社を創始し、2社を総称して洲本八幡宮と呼ぶそうだ。

tanu-2.jpg ここには芝右衛門狸がいた。日本3大狸として有名だそうだ。芝居が好きだから芝右衛門と名付けられたともいう。様々な伝説があってそれぞれ微妙に異なるのだが、大筋を紹介する。三熊山に棲んでいた芝右衛門狸は人々に親しまれていたが、人間に化けて大阪に芝居見物に行き、木の葉を銭に変えて入場していて怪しまれ、放たれた犬に正体を見破られて殺されたというのである。その後、祟りを恐れてか、道頓堀の中座に祀られ、芸人らに信仰された。中座は1999年に取り壊されたが、解体工事中にガス爆発を起こして全焼した。「セラヴィスクエア中座」ビルができ、「柴右衛門狸大明神」はその4階に祀られていたが、2000年に里帰りし洲本八幡宮に祀られたそうだ。

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 大浜海岸の登山口から城山に登った。洲本城は永正年間(1500代)に安宅氏が築いたと言われる。しかし、現在残っている城跡は、天正13年(1575)に脇坂安治が入城して以降に改築されたものだ。総石垣の立派な城である。現在は石垣しか残っておらず、それもかなり傷んでいる。この戦国期の山城はその後はほとんど使用されず、蜂須賀氏は城山の麓に行政のための平城を築いて淡路島を統治した。

 本丸の中に、芝右衛門狸の祠があった。青い幕が張られていて、藤山寛美の名前がある。昭和62年に寛美ら芸人一同の寄進で建てられたという。奥に3体の狸の像が見える。

 休憩所でラムネを買って飲みながら、売店の女性に「ここに住んでるのか」と尋ねた。そもそも牛乳が飲みたくて店に入ったのだが、「毎日持って上がらなければならないものは置いていない」と言うので、こんな所に居住しているのかと思ったのだ。「ここは夜は真っ暗で、イノシシやシカが来るような場所だ。怖くてとても住めない」とのことだった。

 大手門跡を出ると、すぐ下に駐車場があった。なんだここまで車で来れるのかと、登山をしたのが損をしたような気になった。しかし、街と反対側の山中に大手門があるのはおかしいと思って、城の図面を改めて見直してみた。やはり、山側が大手であり、そこへ敵が攻めてくることを想定しているようだ。

 そのまま、車道をたどってイオンに引き返した。途中で映画の看板の前を通り過ぎようとして、「えっ」と立ち止まってしまった。高峰秀子とネギを咥えた佐田啓二だ。彼方に灯台らしき建物も描かれている。「ねぎ男とぶり子」って何のことだ。ラーメン店の看板であった。ぶりの出汁と薬味に白ねぎを使用しているのだろうか。

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2014年02月24日

淡路島 その6 阿万の神々

一宮神社跡

 前回、「浜の宮」という言葉だけで勝手な考えを書いてしまった。気になったので、再び淡路島に渡った。

 先ず、一宮神社跡を探した。車で走っていたのでは見つからず、通り過ぎて満勝寺まで行ってしまった。道路を挟んだ反対側に亀岡八幡社がある。

 引き返して、この辺りというところで車を路上に駐めて歩きまわってやっと見つけた。「一宮旧趾地主大神」との石碑と、茉莉支天の祠があった。碑文を素直に読めば、一宮神社の祭神は地主神(とこぬしのかみ)ということで、亀岡八幡の境内にある大地主神社がそれだと思われる。だが、そういうことなら、一宮神社という名称が使われていないのはなぜかという疑問が生じる。

 次に二柱神社を探した。これまた簡単には見つからなかった。町並みのすぐ裏に小高い岩山があって、この岩山には小道がいくつもあって反対側に抜けられるようになっている。分断された岩山のひとつに二柱神社が隠れていた。登り口には「若宮神社古跡」の碑が建っていた。ここには若宮神社もあったのだ。若宮神社は普通、仁徳天皇を祀っている。八幡神である応神天皇の子であるから若宮なのであり、八幡神社と繋がっている。

 二柱神社の鳥居の横に大きな石碑があって、「一之宮二柱神社」とあった。意外にも一宮の名称はここにあった。これは間違いなく「イザナギ・イザナミ神社」に違いない。では、先の一宮神社はここに引っ越したのだろうか。二柱神社本殿の横に並んで、若宮神社、御鍬神社ほか一社の祠があった。御鍬神社の祭神は豊受神である。

 実際にはどのような経過があったのかは分からない。しかし、元々は、一宮…二柱宮…浜の宮であったものが、若宮…八幡宮が重なり、その八幡宮が海没して、亀岡森…若宮…浜の宮となったのではないかと思われる。亀岡八幡のお祭りの時に、神輿が途中で二柱神社に立ち寄るのかどうか知りたいものだが、だんじりの話ばかりで情報が見当たらない。

 明治末年頃から神社の統廃合が進められ、全国で8万ほどの神社が減少したと言われる。これには住民の抵抗などもあって、地域によって大きな差がある。阿万地域では、兵庫県の神社庁に登録されているのが亀岡八幡社だけというところをみれば、ここでは積極的に神社整理が推進され、いったんは亀岡八幡一社に統合されたのではなかろうか。

 帰りに、三原の人形浄瑠璃資料館に立ち寄った。三原図書館の中にあって、入場は無料であった。市村六之丞座の所蔵品を継承していて、かなり質の高い展示のようである。「三国伝来玉藻前旭袂」の3段目「道春館の段」が展示されていて、5体の人形はいずれも優れた出来栄えのものだった。天狗久の初花姫を撮影した。脇にかわいらしい九尾の狐もいた。

初花姫

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2014年02月09日

淡路島 その5 浜の宮

濱之宮遥拝所

 阿万海岸を訪ねた。夏は4万人の客でにぎわう海水浴場として知られる。岬には風力発電の風車が1基回っていた。

 その浜の堤防の一角に、小さな鳥居と石碑がある。碑には「濱之宮遥拝所」と刻まれている。ということは濱之宮は海の中か、あるいは海の彼方にあるということだ。石碑の前にはいぶし瓦で作られたウミガメと賽銭箱があった。この付近は淡路瓦の生産地でもある。
ウミガメと賽銭箱
 「浜の宮」という言い方は、この地域に祀られている氏神さまが上陸した場所というイメージであり、祭礼の時の「お旅殿」となっていることが想像される。地図を見ると、1キロほど北に一宮神社があって、そこまで一直線に阿万西町の家並みが続いている。途中には二柱神社がある。

 淡路の一宮は、イザナギ神宮とされていて、淡路島北部の西海岸にある。式内大社として知られている。ここの春祭りは、やはり海岸に近い「浜の宮」に巡行し、途中にある櫛笥(くしげ)神社に立ち寄る。この「浜の宮」は、イザナギ・イザナミ2神を祀り、櫛笥神社もその2神に関わる神社である。

 とてもよく似ていることから、阿万の一宮神社はイザナギ・イザナミ2神を祀る神社と考えられないだろうか。二柱神社も同様で、「濱之宮」もそうだったと思われる。一宮神社は無くなっていて、境内にあったと思われる茉莉支天の祠や地主神社(とこぬしじんじゃ)の石碑などが残っているだけなので、あくまで推測なのだが。

 一方、現在の阿万の氏神さまは亀岡八幡神社である。明治政府は神道を国の宗教と定め、仏教と分離し、国家に寄る管理を行った。この時、亀岡八幡が阿万地域の郷社とされた。その亀岡八幡の由緒によると、「貞観2年(860)、社殿を浜の宮の地に築いて、石清水八幡宮を分祀。阿万郷の氏神とする。元暦元年(1184)8月、大風波のため、社殿海没。岡の上に移して神の森となす。貞永元年(1232)、阿万兼友が亀岡山に社殿を造営した。大正7年(1918)、改築」となっている。

 そんな訳で現在、亀岡八幡の祭列は、阿万および北阿万のふとんだんじりを従えて、「濱之宮遥拝所」に巡行し、だんじり歌を奉納している。

 古くからあった先祖崇拝が、時の支配者によって八幡信仰に置き換えられたのではないかと思われる。

 浜の宮の海没は、大風波のためとされているが、これはおそらく台風ではない。沖にある中央構造線で起きた地殻変動、もしくは潮流の変化で浜が流されたのではなかろうか。

 吹上げの浜にも行った。広大で美しい浜だ。阿万の海水浴場もこの浜の東の端と言える。遠い昔、この浜に、イザナギ・イザナミ神を先祖とする部族がウミガメとともに上陸して住みついたのだろう。それは淡路北部や三原の入り江、沼島でも同様だったと思われる。イザナギ・イザナミ神は海からやってきた異国の神さまであり、おのころ島というのは海の彼方にある遠い火山島なのではなかろうか。

吹上の浜


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2014年02月02日

淡路島 その4 淡路人形座

えびす舞い

 その日は、休暇をとって鳴門の雑草園に向かった。しかし、途中で雨が降り始めた。これでは鳴門に行っても作業ができない。そう思ったとたん、コースを変更して、淡路島に渡った。

 とりあえず、福良の港へ行く。ここには観潮船乗場があり、咸臨丸と日本丸が停泊していた。「福良港なないろ館」では土産物店に入り、玉ねぎと線香を買った。その向かいに通称「くじら」と呼ばれる異様な建物がある。淡路人形座である。津波の際には、1000人を収容できる避難場所でもあるそうだ。

 淡路人形座は、淡路人形協会が、1964年に吉田傳次郎座の道具類を引き継ぎ、設立された。「うずの丘大鳴門橋記念館」内にあった浄瑠璃館で毎日公演する一方、出張公演や出張講座など、伝統人形芝居の普及、発展のための活動を行ってきた。2012年に福良港に新館を建設して移ってきた。

 午前10時開演で、演目は「戎舞い」であった。始めに解説があった。人形遣い、太夫、太棹三味線のポイントを教えてくれた。

 西宮の戎神社に属したエビスカキと呼ばれた人形遣いが全国を門付けして回ったことが、人形浄瑠璃の起原となった。その意味で「戎舞い」は重要な演目である。

 釣竿をもった戎さまがやってきて、庄屋さんが捧げるお酒を飲み、自らの由来を語りながら舞い踊る。お酒を飲み干して酔っ払った戎さまがみごとに鯛を釣ってめでたしめでたしというものだが、その中で、戎さまは淡路の自慢をしたり、ご機嫌伺いをしたりして、観客に話しかける。公演終了後には観客と記念撮影までする。

 「襖からくり」も披露された。襖を開けると次々と違った絵柄が現れ、次第に座敷が広くなっていく。最後には千畳敷の大広間になる。阿波においては、多くの場合が野掛け舞台であったことから、派手でケレン味の強い演出が好まれ、淡路人形独特の工夫がされた。これもそのひとつで、各地の農村舞台にその仕掛けや襖絵が今も残っている。

ふすまカラクリ

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2013年09月15日

淡路島 その3 淡路人形(発祥)

作本峰雲制作の人形首

 三原平野の中心部付近に行くと、不思議な地名に出くわす。ちよっと読めない。例えば「倭文」と書いて「しとおり」と読む。古代の織物を意味するらしいが、三原郡倭文郷の古地名がそのまま残ったものと思われる。他にも「掃守」「流」「山所」などあって、その由来はいったい何だったのかと首を傾げる。

 府中八幡神社に立ち寄った。ここの地名は「榎列」と書いて「えなみ」という。平安時代頃の田楽のなごりをとどめるといわれる「ささら踊り」が市の無形民俗文化財に指定されている。参道を南に行くと、一葉塚を経て野辺の宮跡に着くのだが、そこは「十一ヵ所」という地名だ。

三條八幡神社 さらに南下すると、地名は「三條」となり、八幡神社があって、ここに「淡路人形発祥地」の碑がある。祭殿は、理由が分からないがほぼ全周がガラス張りになっていて、何か飛んでくればガラスが割れるのではと不安になる建物であった。境内に蛭子神社があって、この神社が淡路人形集団の守り神さまであったらしい。蛭子さまと百太夫、道薫坊、秋葉神が祀られている。

 「百太夫」とは傀儡師や遊女の神様であり、さらに古くは全国を渡り歩く非定住民の結びつきの拠り所であったと思われる。道薫坊は木偶人形の精霊である。秋葉神は防火の神様であるが、ここでは百太夫の妻きくという説があるらしい。

淡路人形発祥地の碑 鎌倉時代、西宮神社の傀儡師・百太夫が淡路・三條に来て、菊太夫の娘と結婚して生まれた子供に傀儡の技を伝えた。その子供が源之丞で、淡路人形座の祖となったといった言い伝えがある。

 西宮神社の傀儡師に淡路出身者が多かったのは、西宮神社の本社格とされていた廣田神社の荘園があったからだといわれる。しかし、西宮神社の由緒には、漁村の長者・百太夫が海の中に蛭子神を見出したという創建説話があって、神社の成り立ち、穢れを持って生まれ流された蛭子、海から来たった異邦の神への信仰それ自体に淡路島が深く関係していたのではないかと思える。

 一方、浄瑠璃は三味線の伴奏で物語を語る大衆芸能として都市部で人気を得ていったのだが、慶長年間には西宮の人形使いと結びついて人形浄瑠璃が演じられるようになった。元禄時代には竹本義太夫、近松門左衛門らの活躍で高度な演劇性をもつようになり、これに伴い、人形の技術も進化し、三人使いとなり、人形の構造や動きも工夫され、ほぼ今日の人形浄瑠璃が完成された。

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2013年08月10日

淡路島 その2 淳仁天皇

淳仁天皇陵

 国道を走っていると、それは古墳ではないか、それもかなり大きな前方後円墳ではないかと思える岡がある。それが淳仁天皇陵である。

 広い玉ねぎ畑の中に孤立していることから人為的に造られたもののように見える。しかし、これは地図でみると、細長い丘陵で、東側は直線的に削りとられて半円形のため池になっている。これが古墳だとすれば、全長350メートルくらいの全国有数の巨大古墳ということになるが、どうもそうではなさそうだ。

 淳仁天皇という諡号は、明治3年に日本政府によって贈られたもので、それまでは淡路公(あわじのきみ)であった。あるいは淡路廃帝と呼ばれた。舎人親王の第7子として生まれ、藤原仲麻呂の庇護を受けていた。その仲麻呂の台頭によって天平宝字元年(757)、25歳で皇太子となり、翌年、第47代天皇として即位した。

当麻氏陵 しかし、孝謙上皇は、道鏡を信頼するようになり、主要な政務を直接行うようになって、天皇・仲麻呂らと対立した。宝字8年(764)、上皇は謀反を企てたとして仲麻呂(恵美押勝)を滅ぼした。淳仁天皇も仲麻呂に組していたとみなし、皇位を奪い、淡路島に幽閉した。上皇は再祚して称徳天皇となり、道鏡を大臣禅師に任じた。

 「天平神護元年十月庚辰、淡路公、幽慎ニタエズ垣ヲコエテ逃グ。守佐伯宿禰助、接高屋連 並木等、兵ヲ率イテコレヲサエギル。公、還リテ明日院中に於テ甍ズ」とある。淳仁天皇は翌年(765)、淡路から逃亡しようとしたが、失敗して殺されたものと思われる。

 ここ淡路島南部の三原平野には、淳仁天皇にまつわる伝承や遺跡が多い。淳仁天皇陵から少し南に行くと、一緒に流された母の当麻氏の陵墓がある。丸い小丘でこれもいかにも古墳という感じなのだが、直径60メートル以上あって、ちょっと規模が大きすぎる。

満福寺 少し離れた集落(賀集鍛冶屋)にある万福寺は、「淳仁天皇御陵奉仕の僧侶の宿院として千二百年前に開かれた」という。「本堂正面の金剛界大日如来は、天皇の御冥福を祈り奉る本尊、台蔵界大日如来は当麻夫人の御菩提を回向し奉る本尊」だと説明されている。

 北へ行くと、国分寺跡などがあって古代淡路の中心部に入る。そこに淳仁天皇が幽閉されたという野辺の宮跡がある。小さな社が祀られていて、その隣に「琵琶の辻」と書いた石碑があった。この付近も天皇の陵墓といわれている。

 西淡三原インターに向かう途中、志知城跡に立ち寄った。ひまわり畑の向こうに大鳥居と城跡が見えるのだが、道は数十センチの雑草に覆われていて、行くのはやめた。この城は文禄年間に廃城になり、今は石垣もなく荒れているが、地図で見るとよく原形を保っている。内堀はほぼ全周が残っていて、南に大手門広場が突き出し、北には船溜まりがあって大日川に繋がっている。水軍の基地でもあったのだ。

 淳仁天皇は、慶野松原に上陸し、この大日川を遡り、高島宮に入った。志知城からさらに南の志知中島にある大炊神社付近が高島宮といわれる。ここには天皇塚があって、淳仁天皇の墓所としても有力候補である。天皇は親王時は大炊王と称した。

志知城跡

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2013年05月27日

淡路島 その1 由良要塞

友が島と紀州加太を望む

 淡路島の南東端にある由良は、大きなラグーン(潟湖)に抱きかかえられた港町だ。そして、沖には友ヶ島を挟んで、紀伊半島が間近に迫っている。

 大阪湾に至る狭い海峡を防衛するために、明治22年(1889)に砲台の建設が始まった。生石山第3砲台が最も早く起工したそうだ。明治29年には由良要塞司令部が開設され、要塞重砲兵連隊が駐屯した。

第3砲台の観測所 昭和20年、近畿・中国・四国地方の防衛を担う第15方面軍が編成されると、その直轄となって、戦う機会もなく終戦を迎えた。

 戦後、要塞は米軍により破壊されて瓦礫となった。その後、海上自衛隊が駐屯して紀淡海峡を監視していた。今は軍事施設はなく、防衛庁の土地は売りに出されているようだ。

 平成20年から生石公園として、展望台や遊歩道などが整備された。木製の遊歩道を歩いていくとフェンス越しに砲台遺跡を見ることができる。所々に解説板がある。

 最上部の駐車場付近は、要塞守備隊の陣地(保塁)があったらしい。カノン砲の砲身がポツンと置かれている。そこから第1、第2の瑠弾砲陣地が続いていた。瑠弾砲の陣地は深く掘り下げられた穴の底に丸い基台がある。旅順攻撃で有名な28センチ砲が置かれていたという。

第5砲台 この間に、出石神社がある。この神社は但馬の出石(いずし)神社と関係が深いようだが、元は海岸の崖上にあって、海上から拝むようになっていたらしく、その性格が少し違うようにも思われる。

 第3砲台は24センチカノン砲で、1門づつ四角い胸壁で囲まれていた。これを見ると、海部城の山頂陣地は、カノン砲陣地であったことはほとんど間違いないと思える。それも本土決戦に備えて緊急に設置されたのではなく、あるいは戦前から備えられていたのではなかろうか。

 ところで、ここの遊歩道を歩いていると、見慣れたなじみのある黄色い花がいっぱい咲いている。ナルトサワギクだ。「外来生物とその対策」と題した掲示があって、その代表としてこの花を取り上げ、特定外来生物の防除に言及していた。だが、その掲示の周囲にナルトサワギクが咲き誇っていた。

 第5砲台は、12センチ速射砲で、半地下の建物の上に並べられていたようだ。他の陣地がレンガでできているのに対して、ここはコンクリート製であった。ウバメガシに葉っぱが無いと思ったら、各枝に薄黄色い毛虫がくっついていて一生懸命に葉を食べていた。

由良のラグーン


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