2010年02月07日

ラフカディオ・ハーン その36

 1900年3月、外山正一が53歳で死去した。中耳炎をこじらせて脳症になったといわれる。外山はハーンを高く評価し、帝国大学文学部長であった1896年にハーンを招聘した。その後、帝大総長となり、1898年には文部大臣を務めた。ハーンは葬儀に参列したが、大きなバックポーンを失った。

 外山は、幕末にイギリスに留学し、明治になってアメリカに渡りミシガン大学に学んだ。スペンサーの社会学を日本に紹介し、『新体詩抄』を発表して新時代の詩の形式を模索し、演劇改良にも取り組み、教育や文化に幅広い業績を残した。

 4月、ハーンは大谷正信に「九州で撞木(しゅもく)鮫のことを念仏坊と呼ぶ理由」を調べるよう依頼した。この話は「動・植物の仏教的名称(Buddhist Names of Plants and Animals)」のラストに収録されている。ハーンはフランス語で鮫のことを『鎮魂歌 requiem』が訛って『requin』といわれるのは、鮫に出会ったらもう救からないという意味だから、念仏坊も同様ではないかと思ったのである。しかし、そうではなかった。撞木は鐘をたたく槌のことで、鮫の頭の形から『撞木坊』すなわち念仏を称える坊主である『念仏坊』となったのだという。

 5月には、雨月物語の「夢応の鯉魚」を「興義和尚のはなし(The Story of Kogi the Priest)」として書いた。6月には同じく雨月物語の「菊花の約」を「守られた約束(Of a Promise Kept)」とした他、「閻魔の庁で(Before the Supreme Court)」、「梅津忠兵衛(The Story of Umetsu Chubei)」、「破られた約束(Of a Promise Broken)」を書いた。

 「閻魔の庁で」の原作は「通俗仏教百科全書」にある「邪神の事」である。この原話は時間を追って展開している。邪神に祈願して他人を身代わりにして疫病が回復し、女は元気になるのだが、身代わりになって死んだ女が閻魔大王に追い返されて、回復した女と入れ替わることになる。この間3日の時間が経っている。入れ替わった時に女は蘇って「ここは自分の家と違う」と言って駆け出す。
 つまり、疫病で死ぬ運命の女は、回復して3日間元気に生きていたが、邪神の仕業が発覚して3日目に運命通り突然死んだ。その遺体に死ぬべきでなかった女の魂が入り蘇ったのであるが、そういう説明がない。

 ハーンは時間の進行を変えて構成し直し、3日間はまだ病気から回復せず重態のままとしている。回復した時にはもう魂が入れ替わっているので、邪神による一時の「恵み」は無かったことになる。これでは、冒頭の「(邪神の)恵みを受けると、受けた恵みが不幸のもとになる」という言葉が意味をもたない。原話にも「損ありて益なし」とあるが、そもそもこの話はそれにあてはまるのだろうか。損したのは「邪神にお願いなどしなかった」女とその家族ではないか。

 「破られた約束」はいかにも怪談らしい怪談である。これには原話にあたる著作がない。セツが語った出雲の怪談ということである。ハーンはセツに「なんとも無法な話だね」と言い、「恨みを晴らしたかったら男にすればよかったのに」と述べる。セツは「女の一念はまた別ですから」と答える。

 この話には悪人は登場しない。亡くなった先妻と夫は相思相愛であり、だからこそ再婚しないと約束した。その約束を破ったとはいうものの、夫は周りに責めたてられてやむなく再婚したのである。死者との約束を守って家が断絶してもよいなどとは世間が認めない。新しい妻は17歳と若く新たな愛を育みつつあって、それこそ何の落度もない。それが先妻の幽霊に首を引きちぎられて惨殺される。約束が破られたことへの恨みや復讐ではない。そこにあるのは抑えがたい激しい欲望である。その不条理な熱情を誰も否定できないからこそ語り伝えられたに違いない。

 7月、「明暗(Shadowings)」が出版された。ハーンは大谷から日本のわらべ歌に関する報告を受け取っている。大谷は、5月には「トンボ」の報告をしたが、ハーンはこれを賞賛して、集められた俳句のほとんどをそのまま作品に使用したという。「日本のわらべ歌(Songs of Japanese Children)」より幾つかを紹介する。

 雪や! こんこや! あられや! こんこや!
 おまえの背戸で、だんごも煮える、あずきも煮える、
 山人はもどる、赤子はほえる、杓子は見えず、
 やれ、いそがしやなあ! 

 スズメは、ちゅうちゅう忠三郎!
 カラスは、かあかあ勘三郎!
 トンビは、外山の鐘たたき!
 いちにち、たたいて -- 米一升! 粟一升!

 うさぎ、うさぎ、なにを見てはねる?
 一五夜お月さま、見てはねる!
 ひょい! ひょい! (みんなで跳ぶ)

 ちょうちょ! ちょうちょ!
 菜の葉にとまれ! 菜の葉がいやなら、
 手にとまれ! 

 どこかで聞いた文句が多くある。かつての文部省唱歌というのは、こうした古くから歌われていたわらべ歌をまとめたんだなということが推測される。
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2010年02月06日

ラフカディオ・ハーン その35

 1899年9月、ハーンは見知らぬ女性から2通の手紙を受け取り憤慨している。マクドナルドが横浜グランドホテルに滞在する客にハーンのことを紹介したのだった。ハーンはその手紙をマクドナルドに送り返し、「二度とホテルを訪れまい」とまで書いている。

 「外界と接触すると、発酵しだした思考が止まってしまう」というハーンの内向性は相変わらずで、しばしば癇癪を起こす。しかし、マクドナルドはそうしたところをむしろ愛嬌とでも思っているようであり、気にしてる様子がない。

 12月に、次男・巌が乳母車から落ちて手術を受けた。ハーンはこれに付き添ったらしく、「日本の病院で(In a Japanese Hospital)」では、麻酔で眠らされる子供に生命のはかなさを見ている。同月、三男・清が生まれた。

 1900年1月、マクドナルドはフィリピンに向かった。ハーンはささやかな送別会をしたようだ。

 いわゆる米西戦争は現代にも続く熱烈な「アメリカ主義(自由と民主主義を世界に広げるのは神から与えられたアメリカ人の使命と考える暴力的覇権主義)」を燃え上がらせた。サンチャゴ攻撃には、セオドア・ローズベルトが海軍を辞職して義勇兵部隊を率い、激しい陸戦を戦って英雄となった。この戦争は1898年にアメリカの勝利で終わった。

 しかし、アメリカは、キューバとフィリピンの独立運動を圧殺して自らがスペインに替ってこれらの島を占領した。1899年、アメリカはフィリピンに5万近くの占領軍を送り、独立勢力をジャングルに追い込んだ。マクドナルドが向かった1900年にはアメリカ軍は7万に膨れ上がっていた。1902年、独立軍は2万を超える犠牲を払った上で降伏し、フィリピンはアメリカの植民地になった。マクドナルドはこの米比戦争に加わり、その後ワシントンの海軍省に勤務している。

 1月末に「橋の上(On a Bridge)」を書いた。これはチャンバラ劇画である。西南戦争で3人の薩摩武士が農民に変装して政府軍騎馬兵を待ち伏せ、次々と暗殺する。声をあげる時間も与えず一瞬で首を切り落とす。ハーンを乗せた車夫はその場に居合わせ目撃したというので、ハーンがしつこく質問するという設定。車夫がこのことを長いこと誰にも言わなかった理由を尋ね、「恩知らずになるから」という答えにハーンは納得する。しかし、この話が事実であったとしたら、車夫が沈黙を守ったのは、高度な殺人技術をもった集団がその後も存在し続けていることに身の危険を感じ続けたからだと思われる。「恩知らずになる」というのはうまい言い訳だと思って、ハーンは「一本やられた」と思ったのかもしれない。

 2月には「乙吉のだるま(Otokichi’s Daruma)」を完成させた。大雪の日に書生たちが雪だるまを作ったことから、達磨大師から起き上がりこぼし(小法師)などの説明をする。ハーンが宿泊していた焼津の乙吉の家に祭られているだるまが片目であったのを、片目のハーンは気にした。良いことがあると眼を書き入れるので最初のだるまは盲目なのだと聞く。ハーンは2ヶ月の滞在費があまりに安かったので倍額を支払った。すると、翌日、乙吉のだるまは二つの目でハーンを睨んだ。しかし、どこまでが事実なのだろう。

 2月には、他にも「果心居士(The Story of Kwashin Koji)」、「海のほとり(Beside the Sea)」が書かれた。「果心居士」は石川鴻斎著「夜窓鬼談」の中の「 果心居士 黄昏草」の再話である。

 「海のほとり」は、焼津の浜で行われた法要を詳細に描写したものである。祭壇や祭もの、小道具なども丁寧に説明し、称えられた呪文(諷頌=ふうしょうというらしい)の翻訳までしている。内容からすると民俗学の研究用資料のようなものなのだが、これを通して読むと、ストーリーがないにもかかわらず一遍の物語と思えるのである。重々しい儀式が始まると、途中から海が荒れはじめ怒涛の波音が読経の声をかき消すまで高まる。ハーンは死者たちの魂の行方を想う。儀式が終わると餅投げになごやかな歓声があがり、またたく間に後始末がされて、浜にはハーンだけが波の凄惨な呻きの中にポツンと残される。

 ハーンはマクドナルドに「小説を書いたら」と勧められて、自分にはそういう才能がないと答えつつも、ドラマ性のある構成や設定、場面転換に努力しているように思われる。
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2010年01月21日

ラフカディオ・ハーン その34

 1899年9月、「霊の日本(In Ghostly Japan)」が出版された。ここで改めてハーンの作品を振り返ってみると次のようになる。

○明治27(1894)年 9.29.『日本瞥見記』(『知られぬ日本の面影』)
 Glimpses of Unfamiliar Japan (ホウトン・ミフリン 社)
「極東第一日」(My First Day in the Orient)
「弘法大師の書」(The Writing of Kobodaishi)
「地蔵」(Jizo)
「江ノ島行脚」(A Pilgrimage to Enoshima)
「盆市で」(At the Market of the Dead)
「盆おどり」(Bon-Odori)
「神々の国の首都」(The Chief City of the Province of the Gods)
「杵築―日本最古の神社」(Kitsuki: The Most Ancient Shrine of Japan)
「潜戸(くけど)―子供の亡霊岩屋」(In the Cave of the Children’s Ghosts)
「美保の関」(At Mionoseki)
「杵築雑記」(Notes on Kitsuki)
「日ノ御碕(みさき)」(At Hinomisaki)
「心中」(Shinju)
「八重垣神社」(Yaegaki-Jinja)
「キツネ」(Kitsune)
「日本の庭」(In a Japanese Garden)
「家庭の祭壇」(The Household Shrine)
「女の髪」(Of Women’s Hair)
「英語教師の日記から」(From the Diary of an English Teacher)
「二つの珍しい祭日」(Two Strange Festivals)
「日本海に沿うて」(By the Japanese Sea)
「舞妓」(Of a Dancing-Girl)
「伯耆から隠岐へ」(From Hoki to Oki)
「魂について」(Of Souls)
「幽霊と化けもの」(Of Ghosts and Goblins)
「日本人の微笑」(The Japanese Smile)
「さようなら」(Sayonara!)

○明治28(1895)年 3.9 『東の国から』Out of the East (ホウトン・ミフリン社)
「夏の日の夢」(The Dream of a Summer Day)
「九州の学生とともに」(With Kyushu Students)
「博多で」(At Hakata)
「永遠の女性」(Of the Eternal Feminine)
「生と死の断片」(Bits of Life and Death)
「石仏」(The Stone Buddha)
「柔術」(Jiujutsu)
「赤い婚礼」(The Red Bridal)
「願望成就」(A Wish Fulfilled)
「横浜で」(In Yokohama)
「勇子―ひとつの追憶」(Yuko: A Reminiscence)

○明治29(1896)年 3.14. 『心』(Kokoro) (ホウトン・ミフリン 社)
「停車場で」(At a Railway Station)
「日本文化の真髄」(The Genius of Japanese Civilization)
「門つけ」(A Street Singer)
「旅日記から」(From a Traveling Diary)
「あみだ寺の比丘尼(びくに)」(The Nun of the Temple of Amida)
「戦後」(After the War)
「ハル」(Haru)
「趨勢一瞥」(A Glimpse of Tendencies)
「因果応報の力」(By Force of Karma)
「ある保守主義者」(A Conservative)
「神々の終焉」 (In the Twilight of the Gods)
「前世の観念」(The Idea of Preexistence)
「コレラ流行期に」(In Cholera-Time)
「祖先崇拝の思想」(Some Thoughts about Ancestor-Worship)
「きみ子」(Kimiko)
「三つの俗謡」俊徳丸、小栗判官、八百屋お七、の英訳(Three Popular Ballads)

○明治30(1897)年 9.25. 『仏の畑の落穂』(『仏陀の国の落穂』)
Gleanings in Buddha-Fields (ホウトン・ミフリン社)
「生神」(A Living God)
「街上から」(Out of the Street)
「京都紀行」(Notes of a Trip to Kyoto)
「塵」(Dust)
「日本美術の顔について」(About Faces in Japanese Art)
「人形の墓」(Ningyo-no-Haka)
「大阪」(In Osaka)
「日本の俗謡における仏教引喩」(Buddhist Allusions in Japanese Folk-Song)
「涅槃」(Nirvana)
「勝五郎再生記」(The Rebirth of Katsugoro)
「環中記」(Within the Circle)

○明治31(1898)年12. 8.『異国風物と回想』
Exotics and Retrospectives(リトル・ブラウン 社)
《異国風物》(Exotics)
「富士の山」(Fuji-no-Yama)
「虫の音楽家」(Insect-Musicians)
「禅の公案」(A Question in the Zen Texts)
「死者の文学」(The Literature of the Dead)
「カエル」(Frogs)
「月がほしい」(Of Moon-Desire)
《回想》(Retrospectives)
「第一印象」(First Impressions)
「美は記憶なり」(Beauty is Memory)
「美のなかの悲哀」(Sadness in Beauty)
「青春のかおり」(Parfum de Jeunesse)
「青の心理学」(Azure Psychology)
「小夜曲」(A Serenade)
「赤い夕日」(A Red Sunset)
「身震い」(Frisson)
「薄明の認識」(Vespertina Cognitio)
「永遠の憑きもの」(The Eternal Haunter)

○明治32(1899)年 9.26.『霊の日本』 In Ghostly Japan(リトル・ブラウン社)
「断片」(Fragment)
「振袖」(Furisode)
「香」(Incense)
「占いの話」(A Story of Divination)
「蚕」(Silkworms)
「恋の因果」(A Passional Karma)
「仏陀の足跡」(Footprints of the Buddha)
「犬の遠ぼえ」(Ululation)
「小さな詩」(Bits of Poetry)
「日本の仏教俚諺」(Japanese Buddhist Proverbs)
「暗示」(Suggestion)
「因果ばなし」(Ingwa-banashi)
「天狗譚」(Story of a Tengu)
「焼津」(At Yaidzu)

 リストは「ネットミュージアム兵庫」のもので、日本語タイトルは「主として恒文社刊『全訳 小泉八雲作品集・全12巻。1964年〜1967年出版』による」そうだ。

 「夏休みに焼津へ避暑に出かけるほかは、ほとんど外出も旅行もしなかった。著作は毎年一冊ずつ『仏の畑の落穂』『異国情緒と回顧』『霊の日本』『影』『日本雑録』『骨董』と不気味なほど規則正しく出版された」「これらが帝国大学での連日の授業と並行して書きつづられたのだから、その単調な生活の背後に鬼気迫るような努力が潜んでいたことは、容易に推察される」「閉じ籠もりがちの生活だったから、著作にも当然、紀行文の類は影をひそめ、代わって回想や随想、それに古い物語の再話などが多くなった」と、遠田勝氏は書いている。

 私はこれらの作品群を解析できるほどには理解していないし、全部読んだわけでもない。そして、最も理解できないのが仏教哲学の入り混じったハーンの「妄想(私の考えでは根拠のない個人的イメージ)」である。ハーンは文化や精神を過去からの遺伝的積み重ねと考えているようであり、それは単に伝承とか伝統とかで説明できる以上の目に見えない仕組みのようなものらしい。そのことを繰り返し力説し、様々な形で証明しようとしているようだ。最新の科学的知識も、ハーンにとっては自らの「妄想」を膨らませる材料の一片にすぎない。

 ハーンのこの観念的「妄想」はよく理解できず、当惑させられるのだが、彼の作品群の変遷の原動力になっているのではないかという気がする。次の著作『明暗 Shadowings』(『影』) では、物語と研究と夢想が分けられている。そして、その夢想はどうも自分の夢の分析のようである。
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2010年01月07日

ラフカディオ・ハーン その33

 1898年1月、ハーンは「ものが書けない失意の状態に陥っている」と書いている。稲垣万右衛門が松江で死去した。80歳であった。

 2月、M.マクドナルドは、ハーンに横浜グランドホテルへの投資を勧めている。そのマクドナルドへの手紙に、ハーンは日本の物語を脚色したものを書いてみようと思っていると書く。しかし、日本の書物から題材を得た物語は西洋の読者の興味をひくことはないとも述べている。

 3月には、二度も横浜にマクドナルドを訪ねている。4月には富士見町のフェノロサを訪問し、末にはフェノロサ夫妻が来訪した。ハーンは隣の円融寺(こぶ寺)を案内した。米西戦争が勃発した。

 フェノロサ夫妻は5月にも来訪したが、ハーンは居留守を使って会わなかった。「断片(Fragment)」の執筆に熱中していたためだった。この作品は「輪廻転生」のイメージを描いたもので、原話は岡倉覚三から聞いたという。髑髏の山を登る描写は明らかに富士登山である。

 この頃、日本お伽噺集に「猫を描いた少年」を書いている。ハーンはその後もこのシリーズ本を出版している。

 7月初めに、セツと同伴で歯の治療のため横浜を訪れ、その都度マクドナルドに会う。間違った歯を抜かれたり、汽車が人身事故を起こしたり、スリに出会ったりした。「振袖(Furisode)」を書く。この作品は「振袖火事」の伝説であるが、ハーンが店先で振袖を見つけてそこから伝説を思い出すという形になっている。ハーンは日本の物語を単独で書くことには慎重で、先ずは自分を主人公にして書いた。

 8月の「恋の因果(A Passional Karma)」も同様である。これは怪談「牡丹灯篭」なのだが、ハーンが菊五郎一座の芝居を見に行って、雨森信成と思われる友人に勧められて円朝の人情話を英訳するという設定になっている。友人とともに新幡隋院へお露と新三郎の墓を確かめに行くことでしめくくられる。田村豊久の誘いで鵜沼へ海水浴に行く。マクドナルドと雨森も誘っている。

 以降しばらくの間、7冊目の著作「霊の日本(In Ghostly Japan)」の仕上げに集中しているようだ。11月にかけて「暗示(Suggestion)」、「仏陀の足跡(Footprints of the Buddha)」を書き、ほぼ完成にこぎつけた。日本の和歌や俳句を英訳した「小さな詩(Bits of Poetry)」はその後に書きあげて追加したようだ。

 12月の「焼津にて(At Yaidzu)」も追加した。日本お伽噺集の「団子をなくしたお婆さん」の出版は3年半後であるが、校正や挿絵などのやりとりをしている。

 年が明けて1899年1月、マクドナルドの横浜グランドホテルにしばらく滞在した。すでに、次回著作「明暗(影 Shadowings)」の執筆を始めていた。大谷正信から畳句の入った歌謡などの翻訳が届いた。前年「鐘巻踊歌」に興味をもち、引き続き物語歌を集めるよう指示していた。さらに、神楽歌や催馬楽なども集めるよう求めている。

 3月に「天狗譚(Story of a Tengu)」を完成させ、「霊の日本」に追加している。「十訓抄」の「可定心操振舞事」の第七話から採られた。前段に解説文が入っているものの、ハーンは登場しない。

 4月、「因果ばなし(Ingwa-banashi)」を書きあげ、これも 「霊の日本」に収録された。「百物語」第14席を原典とする再話である。もはや解説もなく、完全に日本の物語になっている。同月、日本お伽噺集「お化け蜘蛛」が出版された。
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2009年12月28日

ラフカディオ・ハーン その32

 1897年9月、「仏の畑の落穂(Gleanings in Buddha-Fields)」が出版された。11月にM.マクドナルドが雨森信成とともに訪ねてくる。以後、交友が深まり横浜にしばしば行くようになった。

 ハーンは大谷正信に「香」や虫や蛙についての詩歌を収集するよう指示している。なかでも俳句に強い興味を示した。「待てよ、この中からうまく選別してみたら、あるいは日本人の持っている、あまり世間に知られていない芸術表現の理論を説明するのに役立ちはしないだろうか、そして、同時にそれはまた、日本人のある感情の特質を解明する役に立ちはしないだろうかと、そんな考えがふっと胸に浮かんだ」(小さな詩 Bits of Poetry 平井呈一訳)

 ハーンは日本の和歌や俳句の特徴を次のように述べている。「文学的な技術というよりも、たぶんに道徳的なつとめとして、長く行われてきた」、「厳選した二三の言葉でもって、画家が意図したものと同じものを表現しようと苦心する」。つまり、上手か下手かを問わず、大衆が日常的な生活態度として詠み、読者の想像力を刺激するという「暗示力」だけで成り立っているという。

 そのため、英語に直訳するとまったく意味の分からないものになる。「日本人の生活をくわしく知らなければならない」し、作者の気持ちや状況を推し量らなければならない。

 「身にしみる風や障子に指のあと」の句を示し、ハーンは「死んだ子に対する母の嘆き」「日本の子供は障子に指をつっこんで破くのを喜ぶ」と解説し、西洋人が理解できるように英訳するには、元の句の「倍以上の語数を要する」という。

 千代女の句「蚊帳の手を一つはづして月見かな」を、ハーンは「Detaching one corner of the mosquito-net, lo! I behold the moon! 」と訳す。そして、この句が「四角と三角と丸を詠みこんでみよと言われて即吟したもの」と説明する。あまりに美しい月への作者の驚嘆は「読めば分かるはず」として省略されている。

 ハーンは俳句や和歌にとどまらず、古い歌謡や童謡にも興味をもって英訳を試みる。「日本の古い歌謡」(Old Japanese Songs) では、その技法についてのべている。言葉の繰り返しや囃し言葉の不思議な効果、不規則だが奇妙なバランスをもっていることに注目しているようだ。

 それから姫が追いかけて
 道成寺でらまでおいかけて
 御門のけあげにしばらくたちて
 庭なる鐘を不思議とおもて
 一巻まこよ、二巻まこよ
 三巻とまいたら湯になりたさ

 (合唱)湯になりたさ

 鐘巻寺の縁起をきけば
 日本の浦にゃ姫お(多)いけれど
 長者が姫が蛇になりたてさ

 (合唱)蛇になりたてさ

 鐘巻踊りはこれまでさ

 (合唱)これまでさ

 Then the dragon-maid, pursuing, followed him to the temple Dojoji.
 For a moment she stood in the gate of the temple:
 She saw that bell, and viewed it with suspicion.
 She thought: "I must wrap myself about it once"
 She thought: "I must wrap myself about it twice!"
 At the third wrapping, the bell was melted,
 and began to flow like boiling water,

 Like boiling water.

 So is told the story of the Wrapping of the Bell.
 Many damsels dwell by the seashore of Japan:
 -- but who among them, like the daughter of the Choja, will become a dragon? --

 Become a dragon?

 This is all the Song of Wrapping of the Bell!
 -- this is all the Song --

 All the Song!

 しかし、「湯」は「boiling water」ではない。鋳物でいう「溶けた鉄」のことだから、「the bell was melted」で終わってしまって良いと思うのだが、まあ、よけいなことだ。

 ハーンは、この歌謡の後に、門付けの三味線ひきが歌う俗謡を1例紹介している。それも全曲である。歯切れのよい「ヤンレイ」という掛け声が気に入ったので、ラスト2節を書く。

 と言うて清三が姿は消える
 これさ待たしゃれ これ待たさんせ
 そなたばかりは一人はやらぬ
 わしも一緒に行かねばならぬ
 
 ヤンレイ

 寺の大門四五丁離れ
 小石拾うて袂へ入れて
 前のお濠へ身を捨てまする

 ヤンレイ

 And with these wards the form of Seiza vanished.
 "O wait, wait for me!" cried O-kichi,
 --"wait one little moment! I cannot let you return alone!
 -- I shall go with you in a little time!"

 Yanrei!

 Then quickly she went beyond the temple-gate
 to a moat some four or five cho distant;
 and having filled her-sleeves with smoll stones,
 into the deep water she cast her forlorn body.

 Yanrei!
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2009年12月15日

ラフカディオ・ハーン その31

 ハーンは、1897年の8月、夜店で虫売りからいろいろな虫を買った。9月には、大谷正信に「籠で飼われる虫に関する研究」を指示している。そして、11月には「虫の音楽家(Insect-Musicians)」を書きあげた。「この虫たちが西洋文明でつぐみや孔雀やナイチンゲール、そしてカナリヤが占める地位にひけをとらない地位を占めている、と語り聞かせてわかってもらうのには骨がおれる」(牛村圭訳)。

 鳴く虫を飼う習慣は古くは「源氏物語」に出てくると「野分」の1節を引用し、「古今著聞集」の虫とりを紹介する。「其角日記」から17世紀には虫屋という商売がすでにあったという。日本中で11か所が虫の名所として知られていた。そして、寛政年間(1789〜1801)に桐山という者が鈴虫の養殖に成功し、虫屋の忠蔵が商売を拡大した。忠蔵は江戸における虫屋の元祖といわれる。邯鄲、松虫、くつわ虫も養殖された。小奇麗な虫籠とともに虫を売る「虫売り」という行商も行われるようになり、36人衆からなる同業者組合(虫講)もできた。

 ハーンは、東京で売られている12種の虫の値段を記し、そのうち9種は人工孵化ができ、暖かい部屋で養殖すると5月には販売できると書く。そして、それぞれの虫について、鳴き声や特徴、そしてその虫にかかわる古歌などを紹介する。

 「虫よ虫ないて因果が尽くるなら」の俳句を賞賛し、「西洋人の読者ならば、虫の境遇、虫の命、とでもいったものが詠まれている、とおそらく思うだろう。だが多分女性であろうこの詩人のまことの気持ちは、自分の悲しみは前世で犯した過ちの結果に他ならず、それゆえやわらげることは出来ない、ということなのである」と解説する。ハーンは和歌や俳句を英語で表現しようと試みている。

 その後、ハーンは虫に関する作品を多く書いている。「蚕(Silkworms)」「蝉(Semi)」「夜光虫(Noctiluca)」「トンボ(Dragon-flies)」「蠅のはなし(Story of a Fly)」「蛍(Fireflies)」「草ひばり(Kusa-Hibari)」。そして、「虫の研究(Insect-Studies)」ということで、「蝶(Butterflies)」「蚊(Mosquitoes)」「蟻(Ants)」がある。

 ハーンは日本人の生活や文学のなかの「虫」に興味をもった。「昆虫学の話ではない。…科学的な方面に興味を持たれるのであったら、…生物学教授から知識を得られたらよい」(蛍)と前置きしている。「蝉」や「蛍」、「トンボ」では雑学的な記事とともに多くの俳句を列挙している。そこではもはやひとつひとつの句に解説はない。片っぱしから英訳したという感じである。

 「古池や蛙飛びこむ水の音」を、ハーンは「Old pond - frogs jumped in - sound of water.」と訳している。冠詞がないばかりか英文になっていない。片言の分節を1行に並べただけである。ハーンは、それでもこれを芸術的な「詩」と受け止めることができた。

 現在の「英語俳句」は3行詩が多いようである。俳句の意味や精神を英文で表現するには、それがふさわしいと思われる。しかし、ハーンはおそらく異議を主張するにちがいない。

 「この種蚕は、美しい羽がはえても、その羽を使うことができない。また、口はあっても、ものを食べることができない。ただ交尾して、卵を産み、そして死んでいくだけである。この種族は、何千年という間、だいじにだいじに世話をされつけてきたので、もはや自分で自分の身の始末をすることができなくなってしまっているのである」(蚕 平井呈一訳)。

 ハーンは、蚕の境遇は「食物、家、暖かさ、安全、快適など」すべての欲望が労せずして与えられているので、西洋人の夢想する天国を実現していると考える。「神がもし我々の望むとおりに我々を遇してくれたら」人間は退化して「生命はしだいにしなび、まず原形質みたいなものになり、ついには塵に帰してしまうだろう」。

 「夜光虫」は、夜の波間に妖しい光を放って漂う夜光虫に、生命の幻想をみる短編である。「蠅のはなし」は怪談である。親孝行の娘がなんらの幸せも得ることなく若くして亡くなる。そして、大寒の寒空に大きな蠅となって飛び回り、ほんのささやかな願いをかなえるという物語である。汚らしくもうっとおしい蠅に、清らかな娘の魂の訴えを見てとった周囲の人々の感性を書いたのだろうか。

 ハーンは、「寄鳴虫を題に詠じた、日本の詩歌に匹敵するものを見つけるには、どうしてもギリシャ文学まで溯らなければならない」(蝉 平井呈一訳)とのべる。ハーンは自分がギリシャ系だからという理由からでなく、日本の文化に似た感性は西洋の歴史の中では古代ギリシャにしか見出すことができなかったのだった。

 「机の前に座っていたとき私は奇妙な感じがした。部屋の中がなんとなく空虚である。それから草ひばりが鳴かないのに気がついた」(草ひばり 森亮訳)。

 寒がりのハーンの書斎は75゜Fを下回らないように暖房されていた。そこでは9月末には死に絶えているはずの草ひばりが11月末まで生き残っていた。つがいになる雌を見つけてやることもできず、「夜ごと夜ごとに嘆くような、美しい、応答のこない震え声」は、ハーンの「胸の痛み、良心の呵責」にまでなっていた。

 それが死んだ。ハーンは餌をやらず放置した気の利かない女中を叱り、事態を悟ることなく夢想にふけっていた自らを責める。神に許しを乞う。「大麦の粒の半分の大きさしかない」虫は「最後の最後まで歌い」、自分の脚を食べて凄惨な餓死を遂げていた。副題に「一寸の虫にも五分の魂」とある。
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2009年12月05日

ラフカディオ・ハーン その30

 1897年8月、ハーンは家族5人とともに静岡県舞阪村に向かう。浜松中学教師の田村豊久が海水浴にくるよう薦めたものだった。田村は新橋駅からハーン一家を案内したのかもしれない。

 田村豊久は、東京出身で1895年に島根中学に赴任した。その時は浅井姓であった。西田千太郎からの書簡で「ハーンに関心をもっていて、貸した著書を全て読んでいる」と紹介された。それで、熊本のハーンも「心」を贈呈したりした。1896年6月、ハーンが松江を再訪した折に会い、中学校長の送別会ではハーンの挨拶を通訳した。1897年5月に浜松に転任してきた。その間、結婚して田村姓に変わっていた。子供も生まれたが、まもなく病気で亡くなった。その後、妻とうまくいかなくなり、ハーンは、彼の無神経なところを指摘し、仲介を申し出た。結局は離婚し、再婚したのだが、工藤美代子氏は、「神々の国」で、10年前までは放浪の外国人であったハーンが日本人の家庭の問題に世話をやいているのを「なんとも不思議な感覚にとらわれる」と書いている。

 ハーンは舞阪に来たものの、海が遠浅であったことから気に入らなかった。さらに浜松の海水浴場に行くが同様だった。海水浴場はたいてい遠浅で穏やかなものであり、泳ぎが達者で荒々しい自然の海を好むハーンが普通でないのだった。結局、焼津村の海が気に入り滞在することにする。しかし、最初に宿泊した旅館が不誠実であったことから、田村の宿泊先の紹介で、鮮魚商・山口乙吉宅に移った。セツは風邪をひき、続いて義父・金十郎も風邪ぎみとなった。子供たちは元気いっぱいだった。

 焼津の海岸は「…砂浜というものがない。そこは、ただ一面に丸いゴロタ石がゴロゴロしていて、灰色のゆるい傾斜をなしているにすぎない」(At Yaidzu 平井呈一訳)

 また、ここでは精霊船はなく、灯篭だけを流したらしい。ハーンはそのことを珍しがり、しかし、流す時間まで異なっているとは思わず、夕食後うたた寝をしている間に灯篭流しが終わってしまった。ハーンは沖にかすかな蛍火のように漂う灯篭目指して海に飛び込んだ。奇妙な情熱である。夜光虫が光る海を泳いで、灯篭の一つに寄り添って詳細に観察している。そして、例によって「(人間だって)おたがいに、いつとはなし、遠く散り散りに離れ去りながら、最後は骨がバラバラになるまで、こうしてふわりふわり流れ漂っていく灯篭みたいなものではないか」と妄想にふける。乙吉はハーンを探しにきて、「カッパも時には溺れやすでな」と、お盆の夜の海に入ったハーンを叱った。

 その夜は「打ち上げては砕ける怒涛の雷鳴」に聞き入る。「雨あられの一斉射撃の音、間断なくくりだす突貫のひびき、いや、なにもそういう激戦の矢たけびの音ばかりではない。猛獣の吼えたける声、猛火の炎々と鳴りうなる音、地震のごうごうと鳴動する響、物の倒壊する轟然たる音、その中を縫う阿鼻叫喚の声」。焼津の海はハーンの心を躍らせたのだ。

 焼津に藤崎(小豆沢)八三郎が訪ねてきた。富士登山に付き添うためだったと思われる。2日後、富士山に挑戦する。この時の写真を見るとハーンはよく太っている。まさに「Old Fat Man」だった。霧雨のなか3人引きの人力車に乗り太郎坊、そこから馬に乗り二合五尺。そこから先は二人の強力によって引っ張り上げられたというに近い。「彼らにこんなに面倒をかけるとは、我ながら恥ずかしい。ああ、六合目だ!」。「10億ドルもらっても、今日はこれ以上一歩も進むものか」と八合目で宿泊した。

 「藍色の空には無数の星が震えるようにきらめいている」。下は「白い洪水である。もう綿の海ではない。『乳の海』、…まるでその内部に霊が生きているかのように、自ら光を発し続けている」。火のそばにうずくまって、野中至夫妻を冬の富士山頂から命がけで救出した話を、その時夫人を背負って下山した強力本人から聞いた。

 翌朝、「残念!---御来光を富士山で見たと自慢できる幸せな人々の中に、私は加わることができないようだ。地平線の、朝日の出るあたりに厚い雲が吹き寄せられている。…もう太陽が昇ったことがわかる。あの紫色のちぎれ雲の上端が、炭火のように燃え立っているのだから。ともかくも、私は実にがっかりした」(Fuji-no-Yama 河島弘美訳)

 その日の午前8時過ぎにハーンは山頂に達した。「この瞬間の、限りない詩情が、戦慄とともに私の内部に入ってくる。私の目の前の、壮大な光景は、既に消すことのできぬ記憶になったのだ」
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2009年11月03日

ラフカディオ・ハーン その29

 1896年9月、ハーンは富久町の借家に移った。ハーン一家と稲垣金十郎夫妻(セツの養父母)、女中と書生が同居した。「ここは庭はせまかつたたのですが、高台で見晴らしのよい家でございました。それに瘤寺と云ふ山寺の御隣であつたのが気に入りました。… お寺は荒れていましたが、大きい杉が沢山ありまして、淋しい静かなお寺でした」(思い出の記 小泉節子)

 大谷正信への最初の課題は、外山正一の「新体詩抄」の英訳であったようだ。以降、ハーンは様々な課題を与え、その報告に対して手当てを支払う。1月は「巡査の生活」、2月は「僧と尼僧の生涯」というふうであった。

 1897年2月に、次男が生まれた。陸軍大将・大山巌からとり、「巌」と名付けた。

 その頃、松江の西田千太郎は重体に陥っていた。生涯書き続けていた「西田千太郎日記」は1月27日で途絶えている。3月15日に死去した。数え年36歳であった。

 西田千太郎は文久2年(1862)、松江藩の下級藩士の家に生まれた。1873年に小学校が開校され入学。井関盛艮県令が旧宇和島藩主・伊達宗徳から三男・隆丸の養育を頼まれ、西田はその学友に選ばれ、県令邸で9ヶ月を過ごした。しかし、これは元大名の息子に家来として仕えたのであり、たいへんな苦労があったと思われる。この間に結核に罹ったのではないかといわれる。

 1876年9月に教員伝習校・中学部に入学。翌年、これが松江中学となった。東京から赴任した清水彦五郎の教えを受けた。ほとんど成績第1位をゆずらず「大盤石」とあだ名された。

 1879年10月と11月に病気のため欠席している。いずれも2日ほど休んだだけであるが、翌年1月12日には「…二日間押して出校せしが十一日より遂に病床に就く、本日に至り悪寒益々甚し」と記され、2月9日まで4週間学校を休んだ。

 自由民権運動のさなか、国会開設などをめぐって多くの会ができ、演説会などが行われた。西田も共研会の設立に加わり、共成会、両州会などに参加し、時には自らも演説を行った。

 この年の9月、中学を退学して、中学の授業手伝いとなった。当時、学制が整備される過程にあって、授業内容も不十分で、各地で異なり、毎年のように変転した。そのため、卒業も中退も現在のような意味をもたなかった。西田は上京して進学する資力がなかったので、逆に19歳で教壇に立ちながら勉学を続けることにしたのだと思われる。その後も学制の変更などで、教諭試補、授業補助、中学校雇、助教諭試補と職名が変わり給与も上がっている。

 1884年5月に安食クラと結婚。翌年には長女が生まれた。1882年8月から1885年8月の間の日記は欠けていて分からないが、西田はその境遇に満足していなかった。
 
 1885年8月、職を辞して上京。立教大学に仮入学。東京大学病院で診察を受け、気管支カタルと診断された。翌1886年、第2回中学検定試験を受け、心理、倫理、経済、教育の教員免許を受けた。すべて第1位の成績であったが、英語は不合格であった。

 兵庫県立姫路中学の教師となるが、翌年廃校となり失職した。西田の体重は100ポンド(約45Kg)でひどく痩せていた。医者に朝食はパンと牛乳と卵およびチーズにするよう指示された。当時の医師は、結核を「気管支カタル」と診断し、動物性蛋白を摂るよう勧めていたようである。当時としては栄養を摂るしか治療法のない「死病」を単なる「炎症」として宣告を避けていたようである。結核が伝染病であることも、その予防も想定されていない。

 再び上京したが、まもなく坂出私立済々学館で教長を勤めることになった。屋敷を借り(家主の厚意で家賃は不要)、帰省し妻子を連れてくる。体調は依然として良くなく、時に喘息の症状があり、血痰をみることもあった。鶏がらスープを飲み始めたりしている。

 翌年、済々学館を辞職する。後任が赴任してくるまで勤務している。送別会の後上京する。妻は身重で出産が近かったため、坂出に残り、母マツが付き添った。8月に長男が誕生した。事情は分からないが、経過からみるとどうも松江から要請があって、自ら転職を願い出たものと考えられる。転職の度、いちいち上京しているのは文部省での調整が必要だったからだろう。

 1888年8月31日、松江中学教師に任じられた。翌年、大日本帝国憲法が発布された。西田は島根県私立教育会の常議員に選任された。籠手田知事は国粋主義的人物であったが、開明的でもあり、外国人教師を招きたいと考え、カナダ人タットルを雇用した。タットルは9月にやってきたが、在留許可がおりていなかったため、いったん居留地に戻すなどのトラブルを生じた。12月、西田は教頭心得となった。

 西田の病状は悪くなったり良くなったりを繰り返した。1889年4月、新たに教頭が赴任したので、西田は教頭心得を解職された。しかし、京都での校長会議には校長代理として出張を命じられた。翌年7月にタットルが解雇され、8月にハーンが赴任してきた。冨田旅館にハーンを訪ねた。日記には「(ハーンが)割合によく日本の生活法に慣る」と記されている。この時、西田は教頭ではなかったのだった。

 その後の西田とハーンの交際はよく知られているとおりであるが、西田の履歴書をみると、松江におけるハーンとの交際は「英文学及語学研究」となっている。なるほど、そういう見方もあるのだ。西田はハーンを教師としてスキルアップを図っていたともいえる。

 1891年、校長が依願免官したため、西田は校長心得となった。事実上の校長ということで職員人事にも関わる。

 2月に親類を集めて父の還暦祝いを行い、家督を相続した。西田は国政選挙権を得るまで(当時は地租を15円以上納めないと選挙権がない)相続をしないつもりであったが、病気のこともあって「戸主とならずして死するも遺憾」として相続に応じた。西田はその後も土地を買い増していったが、ついに選挙権を得るに至らなかった。

 4月3日、ハーンとともに大橋開通式を見、さらに相撲見物をしている。「本日開場せる谷の音連の相撲を観る。場中貴善倶楽部諸氏に会し、相携えて臨水亭に至り晩餐し煙火を見る」

 ともあれ、恵まれない環境のなかで、しかも生涯病苦に苦しみながら、西田千太郎の日記は別に嘆いてはいない。むしろ時代を越えた「頭脳」の確かさを感じさせる。

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2009年10月25日

ラフカディオ・ハーン (番外)

 「ラフカディオ・ハーン」について書き始めたのは、本屋で「文学アルバム・小泉八雲 小泉時・小泉凡共編 2008/11/10 恒文社」を見つけて買ったことによる。その本で、ハーンが日本に来るまでの経歴を初めて知った。それで、その経歴をもう少し詳しく見てみようと思ったのである。

 ところが、それからもう1年がすぎようとしているのに、私の知っているハーン -- 「雪女」「耳なし芳一」など -- に、いまだに到着しない。ひとつには、これだけ大量の文章を書く人だとは思いもしなかったことだ。

 しかも、その大量の文章が、作品として発表したものはもちろん、私信であれ、新聞記事であれ、内容として繋がっていて、全てがハーンの日記であるかのように思えてくる。ほとんど虚構が感じられず(すべてが事実という訳ではなく、ハーンの実生活を描いているという意味)、しかも、どれもテーマ的にまとまりがなく、様々な要素を含めて感覚的に書いているため(ハーンとしてはそうではないらしいが)、かたっばしから読んでいくしかなかった。

 日本に来てからのことは、概ね知っていると思っていた。テレビドラマでもやっていたではないか。だから、日本に来て、セツと結婚し、すぐに「怪談」を書いた作家だと思っていた。

 ハーンの「怪談」は、怪談としてはあまり怖くない。なにか「なつかしい」というような感じさえする。「怖がらせる」ことを目的にしているのではないということは理解できたのだが、日本趣味の変わった外国人ということ以上のものではなかった。その「怪談」=「再話」だけが、ハーンのおびただしい文章のなかで唯一かけはなれた虚構であり、ハーンの実像と異なる。読者の評価が「怪談」をハーンの代表作としただけのことだ。まあ、代表作とはそういうものだが。

 もうひとつの問題は、ハーンは英語で、英語圏の読者に向かって書いている。内容的にも、英語圏のキリスト教徒の人々の興味をひくことを意識している。本が売れなければ話にならない作家としては当然のことだ。しかし、私は辞書を片手にたどたどと翻訳するのがやっとのことで、英文学を味わうどころではない。このことは、おそらく、ハーンの努力の半分以上が理解できていないのではないかと思われる。それでも、ハーンを研究する英文学の専門家の人々が多くいて、様々な観点で多くの論文を書き、翻訳してくれているので、ところどころつまみ食いするのには不自由しない。

 このブログは、下書きのつもりで書いて、別のページにまとめているのだが、じつのところたいして違いはない。しかし、ハーンについては、9章のつもりが12章に増やさざるを得なくなった。

  
 「ラフカディオ・ハーン」



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2009年10月17日

ラフカディオ・ハーン その28

 1896年2月、家族で伊勢に旅行する。帰りに大阪に滞在する。なぜかその大阪に興味をもったようで「大阪にて In Osaka」を書いている。休日もなく無給で働く丁稚について「主人と使用人との間がお互いへの完全な信頼関係によって成り立ち、きわめて素朴な道徳規範が絶対の忠順を保証している」という。

 3月14日に、「心 Kokoro」が出版された。その頃、ハーンは第4作「仏陀の国の落穂 Gleanings in Buddha-Fields」をまとめようとしていたようで、6月にかけて「塵 Dust」、「日本美術に描かれた顔について About Faces in Japanese Art」、「京都への旅 Notes of a Trip to Kyoto」などを書いている。

 「日本の俗謡における仏教引喩 Buddhist Allusions in Japanese Folk-Song」は、都々逸などに使われている言葉、というか歌の発想が仏教的であることを並べ立てている。日本人からすれば、明治時代といえども断じて「そんなつもりはない」と思う。しかし、日本人の日常に仏教用語が浸みわたっていることは事実と認めざるを得ない。

 「袖すりあうも他生の縁よ」と、ハーンに指摘されて真面目に考えれば、これは完全な仏教世界のセリフである。「月に叢雲花には嵐とかく浮世はままならぬ」と、これだけでも仏教信仰を前提にしている。それから100年以上過ぎた現在でも、「因縁」「縁」「前世」「浮世」「因果」「果報」といった言葉は常用されている。もし、これらの言葉を英語でクリスチャンの欧米人に説明するとすれば、かなり大変なことになるのではなかろうか。

 6月9日に外山正一からの手紙がきて、帝国大学教師の職を受けることとした。6月26日、ハーンはセツと一雄を伴い松江に向かう。神戸港から和歌浦丸で境港まで船旅であった。松江に到着したのは30日であった。8月22日まで約2ケ月出雲に滞在した。

 「出雲再訪 Notes of a Trip to Izumo」は、ハーンの出版著作の中には組み入れられなかった。なぜなのか不思議な気がする。「自分の精神が変わることで同じものが異なったものに変わる」というのは、観念論者のハーンにとってこの頃の重要なテーマではなかったのだろうか。「環中記 Within the Circle」や「赤い夕日 A Red Sunset」に繋がっているようにも思えるのだが。

 かつて住んでいた根岸邸を訪ね、そこに住んでいた根岸氏に了解をもらって邸内を見て回った。修復された松江城の天守にも登っている。中学校では、第一期の卒業生で軍艦「浪速」の乗組員であった海軍少尉の演説会が行われた。臨水亭の小宴に招かれ、見覚えのある舞妓に浦島の踊りを頼んだ。使われた翁の面は「…嘲るかのようにかすかに私に似ていた」

 「出雲とは離るべからざる因縁あり、遂に小泉家の養子となり、夫の八雲たつの古歌に因みて扨は小泉八雲と称せるなりとぞ、然れば其良縁を結び得て帝国臣民となるに至りしも、全く出雲大社神霊の導かせ玉ふ所なりとなし、其御礼参りとして此程松江市に扺りしといふ」と朝日新聞に掲載された。

 出雲滞在中を通じて、ずっと西田千太郎と交友している。西田は必ずしも体調が良くなかったようだが、ともに出雲大社に参拝し、水泳を楽しみ、歓談し、8月20日にハーン一家を見送った。そして二度と会うことはなかった。

 1896年9月2日、東京帝国大学文科大学講師の辞令が発布された。ハーンはセツと共に上京、8日に大学に赴き、辞令を受け取った。島根中学の教え子である大谷、石原、熊本5高の教え子の安河内らと再会した。大谷正信に対しては、著作のための資料収集をしてもらうかわりに、学費の面倒をみることとした。

 本郷の「龍岡楼」に宿泊していたが、まもなく富久町21の「大きくはあるが風情のない」借家に移った。「龍岡楼」から女中・おろくを引き抜いている。書生として静岡出身の新見資雄を雇った。大学へは人力車で通った。授業は週12時間で、ミルトンの「失楽園」とテニスンの「皇女」を当面の教科書として使用した。
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2009年10月10日

ラフカディオ・ハーン その27

 1895年4月17日、日清戦争の講和条約が調印された。しかし、23日に独仏露三国が遼東半島を清国に返還するよう勧告する(三国干渉)。「政府としては、万遺漏なき知恵をしぼって対処したのであった。… しかし、国民の自尊心は、そのために深く傷つけられ、いまでも、国を挙げて為政者を怨む念は骨髄に徹している(戦後 After the War 平井呈一訳)」

 6月9日、ハーンは帰還する兵士らを湊川神社の近くで見物する。「…濃紺の冬用の軍服は擦り切れて破け、靴などもう原型をとどめないまでに穿き減らされている。しかしその力強い、ゆすって歩くような歩調は、艱難辛苦に耐えた兵士の歩調だった。もうただの若者ではない。屈強な男だ。世界中のどんな軍隊とでも互角に戦える男たちだ(戦後 平川佑弘訳)」

 ハーンは熊本で毎日聞いた「忘れようにも忘れられない甘美さを帯びる」消灯喇叭を思い出し、セツに言う。「あの消灯喇叭を聞いて、今は帰らぬ戦友をしのぶことだろうね」。だが、セツは「素朴で真剣な顔をして」答える。「誰でも死ねば帰ってきます。帰る道を知らないような日本人はいません」

 7月から再び、神戸クロニクルに論説記事を書き始めている。10月末までの記事が残っているので、クロニクル社と再契約があったようだ。

 この頃、神戸ではコレラが流行した。日本に初めてコレラが発生したのは文政5年(1822)のことで、以来何年かおきに流行を繰り返していた。この年は軍隊内で流行し、死者4万人といわれる。

 「子どもを焼く費用は、たった40銭である。2、3日前に、やはり、近所の子どもが一人焼かれた。その子が、いつもそこへ転がして遊んでいた小さな石が、いまでもそのままになって、日向にころがっている(コレラ流行期に In Cholera-Time 平井呈一訳)」

 9月、チェンバレンがその論文の中で、日本人が宗教上の問題に無関心だという見解を表明していることに対して、ハーンは強く反論している。チェンバレンは「日本事物誌」で「日本人は、気質として宗教心をもたない」と断言している。そのことは「ハーンを憤激させた」と注釈で述べている。

 この議論は、ハーンの日本観というより、ラフカディオ・ハーンという人の存在にかかわるものではないかと思われる。チェンバレンは軽い印象をのべているのではない。日本人が信心深く、そのために多くの犠牲を払うこともよく知っている。しかし、子供が生まれると神社にお参りし、家族が死ぬと葬式をお寺の坊さんに頼むということに矛盾を感じていない。宗教の教義に関心がないということは「宗教心をもたない」と考える。

 ハーンは「(日本人が)西欧人とは全く似ても似つかない信仰をもち、全くちがった社会的経験で作りあげられている通念をもっている」とし、西洋人にはその本質を理解することができないと考える。

 10月、京都遷都1100年祭を見るために京都へ行く。畠山勇子の墓を訪ねている。彼女は、巡査がロシア皇太子に切りつけた大津事件に際して自刃した。ハーンは前年に忠君愛国の気高い自己犠牲として「勇子 Yuko」を書いていた。「日々日々に清めて鏡うつし見よ貞操邪正その容貌にあり」と彼女が鏡の裏に書いた歌をハーンは「心を汚れなく保っていれば、徳も善も悪も、鏡に映るようにはっきりと見えるものだ(河島弘美訳)」と訳している。

 12月、チェンバレンを通じて、外山正一(東京帝国大学文科大学学長)から英文学教授の打診があった。外山は以前からハーンに注目していたようであり、現在その職にあるウッドが来年に帰国することから、ハーンの招請を強く進めた。ハーンは官立校への奉職には懸念をもっていたし、中央都市に住むことを好まず、帰化した後は外国人教師ではなくなるので待遇がどうなるのかなど、躊躇していた。

 東京に行くのを決めたのは翌年6月である。月給400円、講義は一日3時間を越えないなど破格の条件であった。

 「東京には3年より我慢むつかしいと私に申しました。ヘルンはもともと東京は好みませんで、地獄のような処だと申して居ました。東京を見たいと云うのが、私の兼ての望みでした。… 私に東京見物をさせるのが、東京に参ることになりました原因の一つだと云って居ました(思い出の記 小泉節子)」

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2009年10月01日

ラフカディオ・ハーン その26

 1894年10月、ハーンは神戸・下山手通りに和洋折衷の家を借りた。女中2人を含めて家族8人であった。

 ハーンは、月給100円で「神戸クロニクル」に毎日1篇の論説を書いた。10月11日の「車屋の問題 The Kurumaya Question.」に始まり、12月21日の「最近の和平交渉 The Recent Negotiations for Peace 」まで65編が、現在記録されている。「毎日1篇の論説を書く」というのはかなりたいへんなことだと思われる。さすがにハーンはプロの記者であった。

 11月、荒川重之輔を神戸の骨董店デ・アス商会に紹介する。荒川は松江時代に知り合った彫刻家で、ハーンの勧めで、稲田姫像をシカゴ博覧会に出品し、賞をとった。しかし、売れなかった。

 ハーンは、デ・アス商会の蔵の中に集められた仏像群を見る。安く仕入れて高く売るためだけの仏像たち。商人にすれば鎌倉の大仏でさえ目方いくらの金属にすぎない。それらを前にして「われわれは、ことごとくみな、死んではまた生き返る無限無窮の蛆虫である。その蛆虫には、どれにもそのなかに仏陀を宿している。百千万億、すべての衆生はみなおなじである」とハーンは夢想する。(神々の終焉 In the Twilight of the Gods)

 目が悪くなり、12月中旬には執筆ができなくなった。3週間ほど暗い部屋で湿布をして寝込んだ。このため、翌年1月末に神戸クロニクル社を辞めなければならなかった。

 チェンバレンは、ハーンが教育者として高い評価を受けているとして、教師に復帰するよう勧める。3月には仙台・二高と鹿児島の中学の教職を紹介した。しかし、ハーンはこれを断った。ハーンは日本の官立校が外国人教師を酷使し、その一方で将来は排除しようとしていていると考え、熊本と同じことになるのを恐れた。

 ハーンは単身、国外に出て旅行記を書くような仕事をしようと考えていたようだ。この頃、神戸の外国人社会を嫌悪し、また、日本そのものも嫌になっていたようである。かつての教え子らにも、外国の文学を学ぶより、実学を学ぶよう勧めている。「日清戦争に勝利した日本はさらに近代化し、外国人に対する反感を強める」「文化は外から伝えられるものではなく、内発的なものだ。何世代にもわたる無数の先祖の埋もれていた機能の反応なのだ」「日本で英文学を教えるのは無駄」といったような幾つかの結論が、もはや日本国内に留まれないという予感を生じさせていた。

 3月9日、「東の国から」がホートン・ミフリン社から出版された。この本は西田千太郎に献呈されている。

 4月には家族で京都に旅行した。汽車のなかで3人の女性が左の袂で顔を覆って居眠りしているのを「まるで流れのゆるい小川に咲いている蓮の花」と微笑ましく眺める。翌朝、朝日の射す障子に映った桃の木の時の間の影絵を惜しむ。神社への参道を「まことに美しい」と称え、辿り着く先の空虚さに無量の想いを抱く。勧業博覧会を見て、日本は低コストを売り物にするだけではなく、技術と趣味の良さで高度な製品を生み出すことができると述べる。その一方で黒田清輝の裸婦を「取るに足らぬ駄作」とこきおろす。東本願寺の落慶に新たな発展の時代を支える古来からの宗教心をみる。しかし、「和楽園」に遊ぶ日本の子供に極楽を語るのは、どうだろうか。(旅日記より From a Traveling Diary)

 7月、ハーンは下山手通り4丁目から6丁目に移転した。そして、日本に帰化する手続きを始めた。先ず、セツが分家する必要があったらしい。一雄はセツの弟の戸籍に入っていたことからその移籍が複雑であったようだ。帰化申請は11月に行った。しかしこの頃、外国人の帰化申請が急増し、社会問題になっていた。セツが市役所に呼び出されたり、あるいは役人が来ていろいろ尋問されたりした。入夫・結婚が認められたのは翌1896年1月であった。2月に一雄の入籍が認められ、さらにセツが小泉家を隠居して、その後をハーンが相続することで手続きが完了した。ハーンは半年かかってやっとのこと小泉八雲になった。
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2009年09月25日

ラフカディオ・ハーン その25

 雨森信成は、安政5年(1858)、福井藩士・松原十郎の次男に生まれた。明治4年(1871)、藩校・明新館に入学した。この年3月、藩主・春嶽の招きでグリフィス(William Elliot Griffis)が化学と物理の教師として赴任してきた。翌年7月、廃藩置県が行われ福井藩はなくなった。多くの武士の子弟は東京に向かった。信成は横浜に出て、米人宣教師ブラウン(Samuel Brown)に学んだ。

 藩校・明新館は「第28番中学」となり、グリフィスの後輩ワイコフ(M.N.Wyckof)がグリフィスの後任となったため、信成は通訳として呼び戻されたようだ。

 明治6年(1873)、信成は元家老・雨森家の婿養子となった。しかし、ワイコフが新潟英語学校に移動したため、これに同行し、その後、エジンバラ医療宣教会のパーム(T.A.Palm)の通訳兼助手になった。そして、再び横浜に出てブラウンの塾に入った。この間に洗礼を受けてキリスト教徒になったようである。

 明治8年(1875)、キリスト教徒になったことが原因で雨森家から離縁された。妻・芳は、信成の弟と再婚することになった。信成はそのまま雨森姓を名乗り、メアリー・ギダーの学校(現フェリス女学院)の教師となる。明治10年(1877)、築地の東京一致神学校(明治学院に合流)の神学生になり、キリスト教の伝道につくした。明治14年(1881)、ワイコフの先志学校(明治学院に合流)の教師となる。

 ところが、雨森信成は親族を捨ててまで信奉したキリスト教をまもなく捨てる。

 「青年はこの19世紀という時代の西洋の偉大な思想家たちの思想を研究し、自分の宗教上の師よりもはるかに深くその思想を理解した。宣教師たちは彼が提出する質問にもはや答えることができず、自分たちが読むように勧めた書物はその部分部分は結構だけれども全体としては信仰にとり危険なものだ、と繰り返し断言するのみだった。‥青年がキリスト教の教義に改宗したのは不完全な論法によってであった。より幅広く、より深く掘り下げて考えるうちに彼は教義を越える自分自身の道を見出した。そしてキリスト教教会の教義の主張内容は真の事実や理屈に基づいていない。自分は自分の師がキリスト教の敵と呼んだ人々の見解に従うべきだと感じる、という宣言を公にした後、教会から離れたのであった。この彼の『転向』は当時の非常なスキャンダルとなった。(ある保守主義者 A Conservative 平川祐弘訳)」

 信成は米国、フランス、英国、そして、中国、朝鮮を歴訪する。ハーンの「ある保守主義者」では、国政を批判したため国内にいられなくなり、朝鮮に出国し、清国で教師をして暮らし、機会を得てマルセーユ行きの船に乗り、ヨーロッパをめぐり、さらにアメリカに渡ったとなっている。

 「西洋文明が彼に示したものは測り知れないほど深い堕落であった。彼が若かったころ日本で習った理想に匹敵するような理想はどこにも見当たらなかった。それはすべてが人と人とがたがいに狼であるような大きな争いであった」「西洋の優越性は数え切れないほどの苦難を経て発達した知性の力に存するのであり、その知性の力は強者が弱者を破壊するために用いられてきたのである」、ハーンは雨森信成を口実に、自らの西洋文明批判を思い切り展開しているのでどこまでが信成の心情なのか分からない。

 信成は明治20年(1887)に帰国する。帰国後、「微力社」を組織して、3000人の無産士族と児島湾の開拓事業を始めたという。クリーニング店を経営したとか、日本初の喫茶店を始めた(文久2年=1862 信成は4歳)とか、明治37年(1904)には越後の鉱山を開発し、日露戦争の軍費のために寄付したとか、いろいろな業績が伝えられているが、それらの時期を含めて正確な記事が見当たらず、実態がつかめない。

 明治21年(1888)、欧化主義に対抗する佐々木高行らが設立した「明治会」の機関誌『明治会叢誌』の編集者になった。この頃、米国海軍主計官のマクドナルドが来日し、信成は彼の通訳を努めたらしい。熊本時代のハーンと出会ったのは、当時横浜グランドホテルの社長になっていたマクドナルドを通じてのことだったと思われる。

 「…皆に訊かれた高級船員が微笑して答えた。『皆さんは下の方ばかり見すぎますよ。もっとずっと上をご覧なさい』そこで皆は上を、ずっと、ずっと上の、天の中心の方を見あげた。すると力強い山頂がいま明けなんとする日の光の赤らみの中で、まるで不可思議な夢幻の蓮の花の蕾のように紅に染まっているのが見えた。その光景を見た時、皆は心打たれてひとしく押し黙った」。ハーンは、西洋遍歴から強靭な国粋主義者として帰国した雨森信成を迎えた富士山を描く。

 私が初めて実物の富士山を見たのは、新幹線の中だった。乗客らが「富士が見える」というので窓を眺めたが、やはり直ぐに見つけることができなかった。あたりの風景から想定した位置よりずっと高いところに山頂があったからであり、一瞬厳粛な気持ちにさせられた。

 ハーンは第3作の「心」を信成に献呈している。信成との交流がただならぬものであったに違いない。その後の「生き神 A Living God」でも、友人の哲学者として登場する。自らの財産を焼いて津波から村人を救った濱口五兵衛が神として祀られたが、その時点で本人は生きていて普通に暮らしていた。ハーンは「魂が2か所に別れて存在することを信じられるのか」と質問する。愚問であるが、それがなぜ愚問であるのかと考えると、ハーンの抱えていた悩みの一端が分かるような気がする。

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2009年09月14日

ラフカディオ・ハーン その24

 岩波文庫の「心(平井呈一訳)」を取り寄せたところ、これには付録の「三つの俗謡」が収録されていなかった。「ページの関係もあり…」「人口に膾炙しておるものばかりで、…」と著者のおことわりがあった。

 仕方なく、図書館に行ったところ、「ラフカディオ・ハーンの耳(西成彦著)」に断片が紹介されていた。「イャーあきほうより若大黒、若恵比須が御家御繁昌と舞い込んだ。ア、イャー申しましよかや祝いましよう何を申してよかろやら、小栗判官物語りいちぶ始終を申すなら…」という「小栗判官」の冒頭部であった。これには、即興的な囃しが付くらしい。「イヤあなたの御家はますます御はんじよう御かねはどんどん御米もどんどん、御船ではしりこんだ、マダ…」

 1891年4月19日、ハーンは西田千太郎の案内で松江南部の未開放部落・宇賀山を訪問し、大黒舞を見た。「これまで日本でわたくしが聞いた歌とはまるで趣の違ったものであった」「老婆を除いて、誰ひとり歌いながら地面から足を上げるものはいなかった。ただ歌の節に合わせて体を揺り動かすだけだった」。そして、曲は「八百屋お七」であったという。(ハーンの耳)

 21日の山陰新聞にハーンの「宇賀山探検」の記事が掲載された。22日には饅頭400個をみやげに再度部落を訪問した。「国辱を外国人にさらす」と脅す者がいると24日の西田日記に書かれている。

 大黒舞とは、新春を祝う門付芸で、「守貞漫稿(もりさだまんこう)」には、「新しい広桟木綿島の綿入れに博多の帯を締め緋縮緬の頭巾をかぶり、三弦を弾いて町内の各戸を唄い歩く。その唱える歌を半切紙に印刷してあってこれを投げ入れる。各戸の町人はこれに銭12文あるいは米1盆を渡す。昔は大黒天に扮しておこなったので、その名残で赤いずきんをかぶるらしい」とあるそうだ。演じていたのは被差別民の芸能集団であった。

 ハーンは翌年秋に、大黒舞の歌詞の採集を西田に依頼した。1893年3月に「小栗判官」の歌詞が送られてきた。これは奇妙な物語である。小栗判官は部下の10勇士とともに殺されるが、物いえぬ餓鬼阿弥(がきあみ)という醜い姿で生き返り、熊野権現の加護を受けて復活する。恋人の照手姫は売り飛ばされて転々とするが、観音に守られて、判官と巡り合いめでたしめでたしとなるのだが、「社会的な抹殺」「身障者もしくはらい病(ハンセン病)」を連想させ、通常の勧善懲悪の話ではない。

 ついでながら、「俊徳丸」も継母によって失明し、らい病にかかり、家から追われて、四天王寺で物乞いをする。恋人が見つけ出し、観音に祈って復活するという話で、本質は同じである。室町期の箋民による芸能の題材であったと思われ、歌舞伎や能にもつながっている。そして、非差別民の来歴をも暗示しているのではなかろうか。

 7月には、「俊徳丸」と「八百屋お七」が送られてきた。ハーンはチェンバレンに「小栗判官」の英訳を依頼し、チェンバレンは岡倉由三郎に任せた。年末に翻訳が完成したが、ハーンは気に入らなかった。英文としては見事だが、原詩から離脱していて使えないと書き送り、岡倉は呆然自失した。後に、西田千太郎も英訳をハーンに送っている。

 1894年7月に、ハーンは「三つの俗謡」として、翻訳を完了した。しかし、ハーンは「これまで従事したうちで最も退屈なもの」「著書に採用できるほどの文学的価値を何ら見出すことができなかった」と書く。

 1895年3月、「三味線を小脇に抱えて、七つか八つの小さな男の子をつれた女が、私の家へ唄を歌いにやってきた(門つけ A Street Singer 牧野陽子訳)」

 「女が歌うにつれ、聞いている人々はそっとすすり泣きはじめた。私には詞はわからない。でも、日本の暮らしの中の悲しみや優しさや辛抱強さが彼女の声とともに心に伝わってくるのが感じられた。それは、目に見えぬ何かを追い求めるようなせつなさである。そこはかとない優しさが寄せてきてまわりで微かに波打っているようだった。そして忘れ去られた時と場所の感覚が、この世ならぬ感情と入り混じりつつ、ひそやかに蘇ってきた--今生の記憶の中には決してない時と場所の感覚が。この時、私は歌い手が盲目であることに気づいた。」

 ハーンは、この歌詞をチェンバレンに送り、チェンバレン自身が英訳した。しかし、「この話はとりたててめずらしいものでもないし、歌詞が特に優れているわけでもない」。ハーンは問題は女の声だと考える。「歌い手の声の中には、一民族の経験の総和よりもさらに何か大きなもの--人間生活そのものほどに広大で、善悪の知識のごとくに千古不易の何ものかに訴えるような資質があったにちがいない」

 この門つけの女は、鳥おいとか女太夫、あるいは「ごぜ」と呼ばれ、「大黒舞」と同じ起源をもつものである。ハーンが「三つの俗謡」を付録として付けたのは、単なるおまけとは思えない。

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2009年09月08日

ラフカディオ・ハーン その23

 1894年4月、ハーン一家は金比羅参りをする。カジ(一雄)と義母トミを伴っている。子供ができたことで、ハーンは家族の将来を考えるようになっていた。

 6月9日、ハーンは授業を途中で放棄し、帰宅して辞表を書いた。辞表は提出せず、雇用契約は継続されたが、ハーンは「同僚教師らに排斥されようとしている」と考える。「不愉快な3年間」はそろそろ限界にきていた。

 7月、ハーンは上京する。横浜でメイスン一家を訪ねる。メイスン夫人は日本人であるが、正式に結婚し英国籍となっていた。ハーンは自分が帰化するしかないと考えていた。鎌倉見物をしたりして、楽しく過ごした。「私は5ヶ年の懲役刑ののち、監獄から釈放された囚人でした」と、久しぶりに触れた西洋文明に歓喜している。

 日本橋の長谷川書店に、「日本お伽噺叢書」のための「団子をなくしたお婆さん」と「お化け蜘蛛」の原稿を渡し、20円の原稿料を受け取った。

 チェンバレンの留守宅(赤坂の居宅。チェンバレンは箱根に逗留していた)にしばらく滞在し、その膨大な蔵書を読む。ハーンは「西洋文明に接し、これまでの認識が偏見に満ちたものだったと自覚した」とチェンバレンに書き、チェンバレンは「『迷いと開眼』と題する本でも著したらどうか」と応えている。ハーンは箱根にチェンバレンを訪ねた。

 8月1日、日清戦争が始まった。ハーンは「外国人も日本軍の勝利を確信すること敢て日本の愛国者に譲らず候へども支邦の如き大国と兵を構ふは非常の軍資を要すべく、此点のみ懸念に候(西田千太郎訳)」と書く。

 9月には、ハーンは多くの知人に転職先を依頼している。もう我慢ができなかった。「すぐに熊本を去りたい」のだった。直後に「神戸クロニクル」の記者になることを決め、10月はじめに病気を理由に辞職し、一家9人で神戸に向かった。10日に神戸のホテルに入り、11日には神戸クロニクル紙にハーンの論説が掲載されている。

 「横浜にて In Yokohama」には、地蔵堂の老僧との問答が描かれる。「生命はどこから来たのか」「どこへ行くのか」「なにゆえ生まれ、かく苦しむのか」とハーンは問う。老僧は「万物の遍き心すなわち真如より無尽無数の転化転生を経て生まれる」「真如より、我と非我の区別が生じ、あらゆる区別が現れ、愛欲や執着が生まれる。そしてそれが、無数の転生を経て、逃れがたい業となる」「私どもが修業努力するのは、つまるところ、この遥かなる本来の我、真如に帰らんがため」と即答する。

 ハーンはさらに問う。「絶対の安息が幸福だとは思えない。涅槃とは限りない静止ではないのか」。老僧は「涅槃とは、生動の止むことではなく、一切の障礙(がい)を脱した大自在の境地と考えている」と答える。

 5年後の横浜にきて、日本に来た時の、かつての感動をほんの一瞬取り戻し、「この世では夢こそ生であり、流転する万物そのものが夢なのだと思い至った」。そして、地蔵堂の老師に会いに行くが、すでに他界していた。ハーンは「無明」に漂う自分を笑う。
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2009年08月30日

ラフカディオ・ハーン その22

 1893年7月20日、ラフカディオ・ハーンは一人で長崎に旅行する。21日午前3時に長崎に着いた。日の出を待って、ホテルで朝食をとって、人力車で市内を見物した。港町の美しさには魅力を感じたが、その日はたいへん暑かった。あまりの暑さに直ちに帰途についた。

 8月16日には、「夏の日の夢 The Dream of a Summer Day」を書き上げた。長崎からの帰りに立ち寄った三角の「浦島屋」の女将は「死を思う」ほど美しい人だった。ハーンは浦島物語の幻想に浸り、時空を超えて母のもとに帰る。出会った赤子の声「あ、ぱぁ Aba」は前世の誰かに「さようなら」と言っているのだと言う。そして、「若返りの泉」の物語を思い起こして「悲しい」という。背後には雨乞いの太鼓が轟く。

 チェンバレンは「日本人に欠けていると思われるものは、西洋人の無知によってそう思えるのかもしれない。しかし、日本人も西洋人に対して奇妙に偏った印象をもっている。日本と西洋を比較するのはおもしろい(9/17)」と冷静に述べる。しかし、ハーンが「日本人の生活には、西洋人が持っているものはすべて存在する(9/9)」と提起したのは客観的なものではない。西洋人である自分が理解しようとすればするほど離れていく日本に対する実感であった。

 ハーンは、ピアソン(統計学者)を紹介し、「白人種はその知識を東洋に遺贈して消滅する」「中国人は今後とも海外移住を拡大していく」などとチェンバレンに書く(9,10月)。こうした文明論は翌年1月の講演「東洋の将来」においてまとめられている。「東洋が眠っている間に、西洋は大きな発展を遂げた。その原動力は食糧の確保であり、それによってさらに人口が増えた。さらなる発展を求めて東洋に侵攻したが、その結果、東洋は西洋の知識を学び、同じ力を持ちつつある。そうすると生存コストの小さい東洋が勝つ。現に中国人は世界各地に移住し、白人社会を脅かしている。日本人はそれよりも高度な能力を手に入れるだろうが、もし、九州魂によって低コストを維持するなら無敵だ」というような内容である。

 ハーンは、もう一つチェンバレンに意見を求めている。「西洋の影響に対する反動とその将来について」であり、ハーンはその反動(保守)に期待を寄せていた(10/11)。しかし、チェンバレンは排外的な右翼の壮士らを連想したようで、「日本人の過激な好戦的愛国主義は、無知から生じ、偏見によって育まれる」もので嫌いだと答えている(10/22)。ハーンの趣旨はそういうことではなかったが、ハーン自身も解明できないでいる日本人の原点のようなものを意識していたのであり、うまく説明できなかった。

 1893年11月に、長男・一雄が誕生する。レオポウルド・カジオ(一雄)・ハーンと名付けた。

 「あなたが父親になり、人生で得るもっとも不思議で強烈な感動は、自分の赤ん坊のか細い泣き声を初めて聞く時のことだろうと思います。一瞬、自分の身が二つになったような、妙な気持ちになる。いや、それだけではなくて、もっと説明しがたい何かかがある――もしかするとそれは、心の中に潜む先祖の無数の父母が過去の同じ瞬間に経験してきた感動の余波(なごり)なのかもしれません。それは確かに穏やかな優しい気持ちだけれども、また霊体験にも似た怖ろしさがあります(平川祐弘訳)」とアメリカの友人エルウッドへの手紙に書いている。

 ハーンは、「日本の官立学校は官僚の養成所だ」という同僚の意見を聞いて、職場における自分の不快感がそれに起因していると考える。ハーンは学校では孤独であったようで、学校裏の小峰墓地をよく散策し、そこに座す古びた石仏が気に入った。10月に「石仏」を書いているが、同時期の「柔術」も含めて手元に作品が無く、残念ながら私は読んでいない。

 1894年3月、ハーンは、「日本お伽噺叢書」のジェームズ夫人訳「松山鏡」に感動し、15回も読みなおしたという。そして、「博多にて」を仕上げた。

 この頃、ハーンは、一方でこうした哲学的幻想を描くとともに、外国人であるために自分自身が理解できない事実や事件をことさら扱っているようだ。「九州の学生たちと」もほんとは学生たちの作文にある理解できない発想が主役であったようだ(掲載段階で削減された)。「悲願成就 A Wish Fulfilled」では、「子供がいるから安心して死ねる」という兵士と問答する。「赤い婚礼」は鉄道心中に至る経過を詳しく記述した。

 ハーンはこれまでと同じように自分の考えを物語の中で展開するのだが、「生と死の断片 Bits of Life and Death」では「日本の生活の中で、外国人には理解不可能な事柄について本を書けば、驚くべき著作ができるかもしれない」とのべ、「勇子 Yuko」では「なぜかは所詮、西洋の人間には分からない」と書く。「何か分からないが、そこには何かがある」と確信しているようでもある。

 日本での最初の本「知られぬ日本の面影」は、遅れに遅れてまだ出版されないうちに、第2作の「東の国から」が完成した。
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2009年08月19日

ラフカディオ・ハーン その21

 ラフカディオ・ハーンは、第5高等学校の教師として、1891年11月から1894年10月までちょうど3年間、熊本で過ごした。しかし、ハーンは最初から熊本を嫌い、その後も変わらなかった。セツとその家族に引きとめられたようであるが、ハーンにしてはよく我慢をした。

 熊本は、西南戦争(1877)の主戦場になり、2ヶ月近くの攻防戦により城下町は焦土となった。ハーンの住んだ熊本は、その後に建設された新しい街であり、九州第一の都市として発展しつつあった。日本の近代化を代表してもいた。ハーンはそれを「醜い」と思ったにちがいない。

 ハーンは、取材の対象を見出すことができず、彼の得意とする文学的「スケッチ」を試みる意欲を失った。そのかわり、出雲を中心に日本に来た当初からの「スケッチ」を作品として完成させ、日本での第一作「知られぬ日本の面影」として出版する(1894/9/27)。

 文通もにわかに多くなったと思われる。とくに、西田千太郎とチェンバレンとの文通が激しいようである。日課のように毎日手紙を書いていたと考えられる。西田には深い友情と信頼をよせているが、チェンバレンの場合は情報交換に始まって、日本探究の議論を展開している。

 チェンバレンはハーンを評して、人や物事を「理想化」し、現実を悟っては「裏切られる」、「彼のような精神は、絶えず切れ切れに裂かれるから、しばしば不幸にならざるをえなかった(高梨健吉訳)」とのべる。しかし、チェンバレンもタイプは違うかもしれないが、ハーンに劣らぬやっかいな人物だったと思われる。むしろ、ハーンが先輩に敬意を表し、一歩譲っている印象を受ける。

 ハーンは、たんに美しい日本の「スケッチ」から、日本人とその文化について西洋と比較する論文調の作品を書くようになる。「日本の庭 In a Japanese Garden」(1892/2)、「日本人の微笑 The Japanese Smile」(1893/1)、などである。

 「日本が物質面で遅れをとっていた分だけ、道徳面で進んでいた」「日本人の自制的特質」など。そうした観点が適切であったかどうかは別として、これらの作品はハーンの日本観を明瞭に示している。そして、それらは近代化によって早晩失われるにちがいないものとする。しかし、「日本人を教育すれば西洋から離反していく」という事例のなかに「健全な保守」の芽生えを見、つまり、西洋文明をよく学んだうえで古い日本に回帰する精神に期待をよせる。

 それとともに、日本に対する感情は「振り子のように揺れる」、「悲観的感情はたいがい新日本について何か経験したとき、楽観のほうは何か旧日本のものに触れたとき起こってくる」と、メイスンに書き送っている(1892/8)。ハーンは「日本人はどこへ行くのか」と考える。新しい日本と日本人を批判して「くそったれ日本」と叫ぶ(1893/5)。その時、ハーンの脳裏には同僚教師たちの顔が浮かんでいたに違いない。

 「永遠に女性的なるもの Of the Eternal Feminine」(1893/7)では、「西洋人は自然を男女で見るが、日本人は中性と見る」とハーンはのべる。西洋の文化は「自然美を女性とする」ことで発達してきた。「もしかしたら、われわれの審美能力は、ただ一つ主情的な概念の力によって異常と言ってもいいほど一方向にのみ発展させられたのではあるまいか」と疑問を提起する。そして「日本人は自然のなかに、幾千年もの間われわれにはついぞ見えなかった多くのものを見ている」という。

 ハーンは、この作品を書いている途中に、自分の観点に疑問をもったらしい。チェンバレンの「日本の古典詩歌」を読み返して「日本の物語には恋愛の要素は存在しない」という自分の議論がまったくの誤りではないかと思えてきた、そして、この着想が「暗礁にのりあげた」と、チェンバレンへの手紙に書いている(1893/6/25)。

 「永遠に女性的なるもの」は、東西の文化の根本的な相違という大きな構想で書き始めているが、そのわりに結論は曖昧で地味である。自然石の美しさを示して、そこには「いろいろ美しい点があるのだが、私は一つだけ挙げておこう---不規則の美」と実に控え目である。
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2009年08月01日

ラフカディオ・ハーン その20

 1892年7月10日、第5高等中学校の第1回卒業式が行われ、翌日から2ヶ月の夏休みに入った。ハーンはセツを伴って旅行に出た。汽車で博多に着き何日か滞在し、門司から船で神戸に向かった。

 久しぶりに神戸の開港地に戻ったハーンは、「イギリス人の口から発音される英語がこれほど感動的に自分の耳に響くとは、予想していなかった」。セツにとっては外国人居留地は初めてであり、なにもかも目新しかった。そのセツが「なぜ外国人は全然笑顔を見せないのでしょう」と尋ねた。

 「日本人の微笑 The Japanese Smile(平川祐弘訳)」は、セツのこの質問から始まっている。「日本人の微笑は当初、人の心を魅了する。ところが後になってその同じ微笑が異常な事態---苦痛とか恥辱とか落胆とかの時にも、同じように日本人の顔に浮かぶのを見る時、西洋人は不審の念にとらわれる」と、いくつかの事例を列挙し、解説する。そして、それが全ての日本人にゆきわたった礼儀正しさであり、「他人に対する細かな思いやりと、意志的な自己抑制である」と述べる。

 ハーンは、この日本人の特質を仏教の教えに根ざすと考え、日本人の微笑は「…菩薩の微笑の観念と同じである。それは自己を抑え、自己を殺すことによって生まれる幸福なのである」と賞賛する一方、「…全体のために個人を犠牲にすること---家や共同体や国家のために個人を犠牲にすること---の行き過ぎの結果として生じた」「文明的な利己的な特質が比較的欠けていたため」とし、「物質的に劣る」「限られた範囲内」の特異なものとみなし、「諸外国との産業上の巨大な競争場裡に無理矢理に引き出された」日本は、今後そうした特質を失っていかざるを得ないと言う。

 長州・奇兵隊出身の鳥尾小弥太の論文を引用し、弱肉強食の果てしなき西洋文明批判を展開する。しかし、美しい日本は消え去るに違いなく、将来、日本人は過去を思い返し、「驚きまた嘆くに相違ない」と結論する。だが、100年後の日本を見るならば、ハーンは当時の日本人の中では眠っていた素質について見逃していた重要なものがあるのではないかと思わざるを得ない。

 22日には京都に着いている。8月1日には奈良を訪ね、4日には神戸から船で門司に向かい、そこから境港への船に乗った。境に着いたのは9日早朝で、待ち合わせていた西田千太郎が出迎えた。久しぶりに積もる話をした後、西田は九州へと出発した。

 翌日、ハーンとセツは隠岐に向かった。夕刻に西郷町に着く。ハーンは西郷が立派な都市であることに驚き、しかし、イカの内臓の匂いに閉口している。地元の医師(セツは病院長と書いている)から招待され、歓待された。いろんな贈り物をもらったようであるが、馬蹄石はあまりに貴重なものだからと断っている。隠岐で馬蹄石というのは黒曜石のことである。特定の土地にしかなく、旧石器時代や縄文時代に武器や刃物として使用され、広く交易の対象となっていた。

 8月24日まで隠岐に滞在した。浦郷では外国人を珍しがって群衆にとりまかれ、3日もそれが続くと「いつまでも黙りこくって取り巻いている群衆のことはもう迷惑どころではなくなった。罪のないものであっても気味が悪かった(From Hoki to Oki 銭本健二訳)」と言う訳で、隠岐を逃げ出した。隠岐の旅館で働いていた少年を奉公人として連れてきた。

 25日から9月3日まで美保関に滞在し、西田千太郎と再び会っている。境港で船待ちをしたが、船が来ないので、陸路で倉敷に出て、尾道から船で帰った。境では漁師たちの勇壮な盆踊りに出くわし、呉の海軍兵学校の生徒たちに出会い、兵学校で教師をしたいなどと書いている。
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2009年07月27日

ラフカディオ・ハーン その19

 1891年11月、ハーンの一行(夫妻と女中とお抱え車夫の4人)は熊本に着いた。春日駅(熊本駅)には、第五高等中学の校長・嘉納治五郎ほかが出迎えた。24日に就任し授業を始めた。土曜日を除いて週27時間の授業を受け持った。

 25日に旅館から、藤崎中尉夫人の世話で赤星邸に移った。藤崎中尉夫人は松江の出身で、教え子・小豆沢の遠縁にあたり、小豆沢から紹介されていた。松江からセツの養家・稲垣家の人々も呼ばれ同居した。料理人も松江から呼んだ。赤星邸の建物は現在、八雲公園に移設され保存されている。

 ハーンにとって、熊本の印象はあまり良くなかったようで、「城も寺院も神社もなく、洋服を着た人であふれている」「面白みのない醜い都市」「思ったより寒い」など不満を書き送っている。地震も経験したらしく「永住に適していない」とその恐怖を述べている。また、帝国議会で五高ほかの廃止が決定された。政府が議会を解散し、廃校は免れている。

 1892年1月9日の九州日日新聞に「…桧扇の三つ紋ある黒羽二重の羽織に仙台平の袴を着し、扇子をチャンと腰に差したる有様と、目の色の青き赤髪茫々たる顔と、特に目立ちて見へたりければ、さてこそ衆目を一身に引受け、花嫁も及ばぬ程見つめられし次第にて、当日第一の愛嬌なりしと」と書かれている。第6師団長・野崎中将の年賀の席に招かれ、洋装・軍装の日本人のなかにあって純和装の外国人は注視を浴びた。

 春休み(4/1〜7)には、セツ同伴で博多、太宰府を訪ねた。妙行寺で巨大な仏頭と寄進された多くの古鏡を見た。これは博多大仏を造るためにもらいうけた兵庫大仏の雛型であったそうだ。

 ハーンはまもなく「博多にて At Hakata」という短編を書く。これは旅行記ではない。「人間の存在とはなにか」という哲学的瞑想である。「…この私たちの生命もまたなにかより高次の存在を支えているのだろうか」「生命は、別の生命の球体内にあるのだろうか」「その関係は果てしなく続くのだろうか」「宇宙というのは複数存在していて、たがいに別の宇宙とまじりあっているのだろうか」

 そして、まさに大仏に鋳直されようとする数千の古鏡に想いを致す。「こうした黴の生えた青銅の鏡の堆積の光景は、霊魂の残骸といおうか、少なくとも霊的なものの残骸についての奇妙な幻想を、心中に呼びおこさずにはおかない。こうした鏡はかつて人々の所作や人々の顔を映した。そうしたものがいまこの鏡に絶対にまとわりついていない、と自分自身に言ってきかせることはやはり難しいことである(平川祐弘訳)」

 さらに「松山鏡」の物語が紹介される。越後の国の松山、夫が江戸のみやげに鏡を買ってきて妻に贈った。鏡を知らない妻は、そこに写っている顔が自分自身だと教えられ、大切にしまいこむ。妻は死ぬ時に、娘にその鏡を渡して「私が死んだら、朝な夕なこの鏡を覗いてごらん。きっと私が見えるから…」と言う。娘は毎日毎日、その鏡を見て話しかけ、その鏡を何にもまして大切にした。

 ハーンは「私たちはみな実は一つなのである---しかも幾つでもある」「形あるいっさいのものはしまいに消え失せ、大いなる存在と融合する。その大いなる存在の微笑こそ変わることのない休息であり、その知識こそ無限の幻想なのである」と結んでいる。

 確かに、人間の意識があらゆるものを認識することで世界が存在するとするならば、それは鏡に似ている。死によってその意識が消滅しても、別の意識として世界を写すのではないかという考えは時に頭をよぎる。

 博多大仏は、膨大な古鏡を鋳つぶして、明治42年(1909)に完成した。そして、太平洋戦争に徴用されて大砲の材料になったという。
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2009年07月13日

ラフカディオ・ハーン その18

 1891年のとても暑い日、ハーンはセツを伴い加賀の潜戸(かかのくけど)を訪ねた。山道を御津浦に出てそこから船に乗った。「ヘルンは大層泳ぎ好きでしたから、船の後になり先になりして様々の方法で泳いで、私に見せて大喜びでございました(思い出の記)」

 「…突然、櫓をこいでいた女が、船底から石を拾って、舳先を重々しく叩き始めた。すると洞窟全体を通して反響が雷鳴のように鳴りわたった」「… 洞窟はなにか人々の声で満ち満ちているようで、まるで目に見えぬもの共が集まって騒々しい会合を開いているかのようである。眼下を見下ろすと、深い底に横たわっている岩が、まるでガラス越しに見たように、裸のまま目に映った。この洞窟の中をずっと泳いで、この涼しい陰の中を潮の流れのままに身をまかせたらさぞかし気持ちよいだろうと思い、飛びこもうとしたが、…」(In the Cave of the Children's Ghosts 平川祐弘訳)

 ここは出雲国風土記に「加賀の神崎」と記され、その窟で佐太大神が産まれたとされる。支佐加比比売(きさかいひめ; きさかいは赤貝で女性のシンボル)が祈願すると、最初に角でできた矢(男性のシンボル)が流れてきたがこれを捨てた。2番目に金の矢が流れてきたので、これを射ると岩壁を突き通して、窟は「カカ」と輝いた。それで、この地を加加と言う。佐太大神はすなわち大穴ムチ(国主)であり、その大神を祖とする佐太氏が代々支配したということになる。また風土記には、この岩窟を通りがかる時は必ず声をとどろかせて行く、こっそり行けば神の怒りによってその船は沈むとある。

 もちろん、もう一つの潜戸も訪ねている。「暗い洞穴、その暗闇の奥までずっと並ぶ灰色の石の塔、小さな裸足のかすかな足跡、不思議な微笑をたたえたお地蔵様の表情、それになにか言いたげだが砕けてきちんとした言葉にならなかったわだつみの声。その声は洞穴の奥まで運ばれて来、しゃがれた反響でもって幾重にも重なり、しまいに一つの大きな鬼気迫るざわめきと化した。まるで賽ノ河原のざわめきのようである(平川祐弘訳)」

 ラフカディオ・ハーンは、日本を理解する上で、「神道」こそその根源、日本の魂であると考えたようである。

 「それはたんなる伝承や拝礼や祭式の力ではない。これらすべてを失くしても、神道は実質的に無傷のまま生き延びるにちがいない。教育の普及や近代科学の影響は、たしかに人々の知見を広め、神道に古来からの考え方の一部を改め棄てさせるだろう。しかし神道の根本の倫理は、いささかも揺るがない。なぜなら神道は、今や一段と高い理念を意味しているからだ---たとえば勇気をもち、礼儀をわきまえ、栄辱を知ること---それに何よりも大切な忠誠心。神道の精神とは、子として親を思い、仕事は怠らず、大義のためには狐疑することなく、一命を捨てる覚悟をもつことなのである。それが日本の子供の聞き分けのよさになり、また日本女性の気立てのよさともなって現れる。また時には保守主義と化して、外国の現状に追いつくのを急ぐあまり、かけがえのない過去の遺産を根絶やしにしようとする国民の熱狂に、健全な歯止めをかける。神道は宗教である---ただしそれは一般にいう宗教とは違って、先祖代々伝わる道徳的衝動、倫理的本能にまで深められた宗教である。すなわち神道は『日本の魂』---この民族のすべての情動の源なのだ(The Household Shrine 遠田勝訳)」

 現在を生きる日本人として「そりゃぁないでしょう」と言わざるをえない。しかし、ハーンは明治の日本に生きていたのであり、その時代の日本社会の現実のなかにこうした精神性を見ていたに違いないのである。

 10月、チェンバレンから熊本での教師の職を紹介される。ハーンは直ちに引き受けている。月給200円と倍になること、まもなく厳しい冬の寒さがやってくることなどの理由を述べている。10月26日が松江における最後の授業となった。29日には師範学校と中学校の生徒主催の送別会が開かれた。中学校の会では日本刀一振りが贈呈された。

 11月13日、コレラ流行のため、中学校は臨時休業に入る。14日に熊本行きの旅行許可が認められ、15日に出発する。200人の生徒の見送りを受けて船に乗った。

 「帽子という帽子が打ち振られ、真鍮の帽章がきらきらと輝いた。私は甲板にある小さな船室の上によじ登って、帽子を振りながら英語で叫ぶ---『さようなら、さようなら』。岸からはそれに答えて『万歳、万歳』という声が返ってくる。でも、それも遠ざかってかすかに聞こえるだけになってしまった。定期船は滑るように河口を出て、青い湖に進み、松の生い茂る岬を廻った。そして、人々の顔も声も、あの船着場も、白い長い橋も、すべて思い出になってしまったのである(Sayonara 河島弘美訳)」
posted by kaiyo at 05:42| Comment(0) | TrackBack(0) | ラフカディオ・ハーン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする