2007年10月18日

徳島歴史講座5 「伊予の水軍 -豊臣期能島村上氏を中心に-」

 この歴史講座の最終回は「伊予の水軍」であった。愛媛県歴史文化博物館の学芸員・山内治朋氏が講師であった。

 中世の伊予には、忽那(くつな)氏、二神氏、村上氏、三崎氏、法華津氏など多くの水軍家があった。忽那氏、二神氏は松山付近の水軍で河野氏に従っていたとみられる。村上氏は瀬戸内海でしまなみ街道沿いの島々を本拠としていた。三崎氏は佐田岬の先端付近で豊後・大友氏と関係があった。法華津氏は宇和海で活躍、土佐にも領地をもっていた。

 能島村上氏は、北畠氏から出たとも、信濃・村上氏の流れとも言われている。史料に出てくるのは貞和5年(1349)からである。戦国期に入って、厳島合戦(1349)、豊前・蓑島合戦(1561)、木津川合戦(1576,1578)、来島騒動(1582)などにその活躍が散見される(この間、毛利についたり、大友に付いたり、来島村上氏が織田方について同族間で争ったりしている)。

 しかし、豊臣秀吉の四国平定の後、毛利氏は伊予を撤退することとなり、能島村上氏は天正13年(1585)、秀吉の配下になっていた来島村上氏に武志、中途の城を明け渡さざるをえなかった。この二つの島城は来島海峡を押さえる重要拠点で、海賊としての稼ぎ場(一種の通行税をとった)であった。

 天正14年には、九州出兵のため、海上関役停止(関銭をとる海賊行為禁止)の命令が出され、15年にはこれに違反したとして能島村上氏は秀吉の叱責を受けた。必死で弁明してなんとか切腹を逃れた。その年、周防屋代島に移住。翌天正16年、小早川隆景に従って筑前に移る。3500石を扶持されたが、海賊としての既得権は失われた。同年、秀吉は海賊停止令を発している。

 文禄の役では、小早川隆景の6番隊に村上元吉(武吉の嫡男)が属し、毛利勢7番隊には次男の景親が所属した。洛東江河口の渡口に在番し、水上交通を確保したと考えられるが詳細はわからない。洛東江沿いに星州、碧蹄館などで主軍とともに戦っている。

 慶長の役では、村上景親は小早川勢に編入され、西生浦在番の命を受けたが、講和のため出兵していない。これに先立つ文禄3年に、小早川家は秀秋を養子に迎えていた。そして、村上武吉、元吉は中国の毛利領に移住し、景親は筑前に移った。

 慶長2年、小早川隆景が死去。小早川秀秋は一時越前に移封された。家臣団は動揺して毛利氏に臣従を誓約している。能島村上氏は、結局、毛利家に仕えた。来島村上氏などは関が原の戦いの後、豊前細川氏に仕えた。

 今回の講座は、豊臣政権の下での変動のなかで、生き残りに揺れ動く村上水軍の微妙な状況を史料によって描こうとしたようで、たいへん分かりにくかった。
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2007年10月10日

徳島歴史講座4「浦戸湾と土佐水軍」

 今回は残念ながら最後まで講義を聞くことができなかった。土佐山内家宝物資料館の渡辺淳氏による講座であった。土佐は海の国でありながら、これまで水軍にせよ、水運にせよ話を聞くことがなかった。すべてが初耳の内容であった。

 土佐は、古くは交通としての海路が大きな役割を果たしてきたが、資料が少ない。文安2年(1445)の「兵庫北関入船納帳」では、もっぱら木材の運搬が目立っている。しかし、室戸の金剛頂寺が関銭を徴収していたことや、足摺の金剛福寺が伊勢参拝の立ち寄り寺になっていたことから、九州から近畿への航路ができていたようである。

 また、応仁の乱以降、大内氏と細川氏の抗争などで瀬戸内海航路が危険になったことから、土佐沿岸の「南海路」が積極的に使われるようになった。堺商人の勘合船もこの航路をとった。弘治元年(1555)、中国の提督・鄭舜功は、豊後蒲江から土佐沿岸を通り阿波椿泊、和泉淡輪、堺を12日間で航海したと記している。

 天正5年(1577)、近衛前久が、薩摩からの帰路、浦戸に立ち寄り長曽我部元親と対面した。元親は乗船と警護船を手配したが、その将は池隼人であった。浦戸の水軍を支配していたのは細川氏から出た池氏であり、池四郎左衛門頼和は元親の妹を妻としていた。

 池氏はもと日蓮宗であったが、浄土真宗に改宗している。本願寺との関係を進め、近畿の職人や商人と結ぼうとした元親の政策があったようだ。九州・博多にも勢力を広げ、阿波の日和佐氏、椿泊の四宮氏を配下として、淡路海賊や紀伊の雑賀氏とも関係をもった。

 船作奉行と大鋸引奉行は、久宗任が兼務した。久氏は和泉の三島から移ってきた者で、分散した多くの飛び地を所領とし、造船や補修の職人を率いていたようである。

 「長曽我部地検帳」によれば、浦については屋敷と人を個別に把握していて、水主の確保を重視していたことが分かる。

 豊臣政権になって、池氏の率いる土佐水軍は、小田原征伐、朝鮮の役で活躍する。元親も岡豊城から大高坂山(現高知城)、さらに浦戸に居城を移して、こうした遠征に対応した。

 慶長6年(1601)、山内一豊が浦戸に入城した。一豊は先に家臣を海路、浦戸に派遣し、自らは甲浦に上陸し、陸路で土佐に入った。

 一豊は、池水軍を解体し、久家、樋口家、真鍋家の三家に水軍を率いさせた。いずれも和泉の出身であった。和泉流軍法で山内家水軍をつくりあげようとしたものと思われる。久家だけが長曽我部時代からの水軍関係者であった。

 しかし、延宝元年(1673)、久吉左衛門は知行召し上げになり、延宝3年に樋口関太夫は江戸勤番になり水軍を離れた。真鍋貞斎も宝永5年(1708)、お役御免になっている。和泉流が能島流に取って代わられたという説もあるが、水軍の必要性が失われ、藩政改革の中で入れ替えが行われたものと考えられる。

 その後は、土佐藩水軍の編成、船数や人員の資料説明があり、幕末から近代への話がされたものと思われるが、私は別の所要で退席せざるをえなかった。
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2007年10月02日

徳島歴史講座3「統一政権と讃岐の水軍 〜塩飽・生駒・松平〜」


高松図屏風

 第3回は、香川県歴史博物館の胡光(えべすひかる)氏による講義であった。しかし、これもタイトルがおかしい。「統一政権」だって、注釈なしでこう言ったのでは意味不明だが、内容から判断して「織田・豊臣・徳川の政権」のことらしい。博物館の人たちはどうやら徳川幕府の支配下にあるらしい。

 讃岐には多くの水軍があるが、その中で二つの水軍、塩飽水軍と高松藩水軍について述べられた。塩飽水軍については以下のような内容であった。

 塩飽水軍は、鎌倉時代に香西氏の配下として登場する。室町時代に入って、大内氏を支援していた伊予能島の村上水軍の影響を受けるようになった。天正4年(1576)、石山本願寺を攻めていた織田信長の水軍は木津川海戦で毛利・村上水軍に敗れた。翌天正5年、信長は「天下布武」の朱印状を発して塩飽水軍を保護した。天正6年の第2次木津川海戦では、信長は九鬼水軍に造らせた鉄甲船7艘によって600艘の毛利水軍を打ち破った。

 信長亡き後も、塩飽水軍は豊臣政権の下で九州征討、小田原征伐、朝鮮出兵に参加。秀吉から朱印状を得た。これにより塩飽水軍は、藩に属さず、年貢を納めることなく、近海の漁船から網運上銀という年貢を徴収する権利を得た。住民650人の中から選ばれた4人の年寄たちによって1250石の自治領が統治された。「大名」に対して「人名」と言う。


塩飽勤番所 慶長5年、関が原の合戦で実質的に政権を確立した家康も朱印状を発して、塩飽の人名制度を追認した。塩飽勤番所は、入母屋造り本瓦葺きの重厚な長屋門を持つ塩飽水軍の政庁であった。家康らの朱印状はここに門外不出として保存されている。 

 幕末、咸臨丸が太平洋を横断したが、この時操船した水夫50人のうち、35人が塩飽の船乗りであった。アメリカから持ち帰ったみやげなども残されている。

 高松藩水軍については、天正15年、生駒親正が讃岐の領主として引田に入り、その後高松城を築いた。築城について黒田如水の意見をきいたというが、むしろ、同席した藤堂高虎の影響が強いのではないかと述べた。高虎の築いた今治城に似ているからだという。高松城は海に直結した水城であり、城の両翼に水軍基地がある。瀬戸内海の航路を扼する城である。

 生駒氏は4代高俊の時に、お家騒動があって出羽国矢島に移封された。その後寛永19年(1642)、御三家の水戸家から松平頼重が高松城に入った。生駒家の船団43艘を受け取り、紀州から軍船2艘が贈られた。入国後1年間に52回も舟遊びをしている。慶安元年には九州小倉まで巡見に出ている。「西国・中国の目付けたらんことを欲す」との幕命を受けて、瀬戸の見回りをしていたのだ。水軍の増強も行われている。

 高松城は寛文・延宝期に大改築され、天守閣新築、御殿新築、北の丸と東の丸が増設された。海から見ると櫓がいくつも立ち並ぶ豪壮な城となった。現在、天守閣の復元が計画され、石垣の積みなおしがおこなわれている。高松城の天守は石垣からはみ出た造りで、最上階もその下段より大きい。明治に残っていた天守の写真も紹介された。

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2007年09月28日

海部散策


明現神社 奥浦から鞆浦にかけてぶらぶらと歩いてみた。

 奥浦の明現山(みょうけんさん)に登る。明現神社がある。社歴は明らかでない。可可瀬男命(かかせおのみこと)という星の神、あるいは国常立命(くにとこたちのみこと)という地理の神を祀っているそうだ。ここからは、海部城北側全景が間近によく見える。「やっこ草」の北限としても知られている。

善称寺
 通りをどう歩いたのか定かでないのだが、「善称寺」に立ち寄る。奥浦のつもりであったが、この寺は鞆浦だという。元亀元年(1570)創建。明和3年(1766)に焼失、天明7年(1787)に再建された。真宗・本願寺末となっている。寺を覗いていると「怪しい奴」と思われたのか、「何か御用ですか」と声をかけられた。

鞆の大岩碑文
 小さな祠と石碑があった。教育委員会の立て札には、まるで英文を翻訳したような文が書かれていた。災害の町でもあったようだ。

 「宝永4年の冬10月4日(1707,10,28)午後2時ごろ大地震がおきた。たちまち海潮が湧き出ること3m余り。とうとうと流れて、高台を浸すこと3回くり返して止む。しかし、私たちの浦は、1人の死者もなく幸いといえる。後の世の人は、あらかじめ海潮の変化を考えて、津波を避けるべきであろう。そうすれば、被害から逃れることは可能である」
 「敬ってもうす。この意味するものは、百十代天皇の御時、慶長9年12月16日(1605,2,3)午後2時から10時の間において、常より月が白く、風も寒く、歩行もしづらい時分、大海が3度鳴って人々は、おおいに驚いたが、手を拱いていたところ、逆波がしきりと起こった。その高さ十丈(30m)で7度くる。名づけて大塩という。そればかりか百余人の男女が千尋の海底に沈んだ。後の世に言い伝えるために、之を奉じ建てる。このことを知った人々は、等しく利益を受けるにちがいない」

法華寺
 現在もいたるところに津波避難路の表示がある。海部町史によれば、鞆浦の人口は明暦3年(1557)に1546人居たのが、寛文、享保と減少し、寛政元年(1789)には1099人になっている。

 大きな寺に立ち寄る。たぶん「法華寺」だと思われる。本堂は多くの彫り物がほどこされた御殿のような造りの建物であった。「法華寺」であれば、海部騒動の益田豊後守がその妻のために八万(現徳島市内)から移築したといわれる寺である。

 鞆浦は古くからの漁村集落で、海上交通の要衝でもあった。奥浦は古地図で見ると城山と陸地にはさまれた狭い水路を入ったところに大きな入り江として描かれている。現在は町になっているので、鞆浦の奥の町というふうに考えていたので少し驚いて、文字通り奥の浦であることを確かめに来たのだ。

 文化10年(1813)当時、大坂廻船が29艘、漁船90艘、沖高瀬(海上運搬用の小船)20艘が在籍していたそうだ。その他に多数の川高瀬(川用の運搬船)があった。川高瀬は海部川筋の別の村に所属していたようだ。鞆浦と奥浦を合わせることで、これだけの船を収容し、運用できたのかもしれない。
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2007年09月23日

海部城見取り図 その2

 海部町史によると、戦時中、海部城の山頂には陸軍の監視所があったそうです。勤労奉仕隊がのべ1万人も動員されて監視員のための防空壕を作ったそうです。また、兵舎もあって、戦後、鞆奥中学校の教室として使われたと書かれています。
 つまり、様々な工事が行われ、いろいろな施設があったということであり、どこまで海部古城のなごりが残っているものか判断しかねますが、とにかく、現状を見たままスケッチしました(あくまで絵なので正確なものではありません)。

海部城見取り図

  クリックすると拡大されます。
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徳島歴史講座2「阿波水軍森家と徳島藩」


第2回歴史講座

 徳島城博物館主催による徳島歴史講座「四国の水軍」の第2回は、博物館の学芸員である根津寿夫氏による講座であった。タイトルは「徳島藩水軍と森家」とした方が内容に合っているのではないかと思う。

 森水軍は伝説化されて、その伝説が一人歩きしているようなところがある。事実を検証していきたいといった姿勢で根津氏は話を始めた。享保15年(1730)の「海上担任申渡書」を示し、これは参勤交代における海上方を森家に任す一方で、水軍は藩の官僚組織として運用されるべきであることを示唆したものとし、参勤交代では「感状」は持参したが、これは藩主への「感状」であり、いわゆる「阿波の七感状(臣下への感状)」ではないのではないかと疑問を投げた。

 森家は、土佐泊と段関という、関西と当時の阿波の首府である勝瑞を結ぶ海の交通路を押さえ、周辺の豪族と姻戚関係を結んで力を持った。海賊行為を行い経済力を蓄え、秀吉に呼びつけられて申し開きをしているとの「森氏古伝記」の記述が紹介された。しかし、「古伝記」の記録は信長の四国征伐が頓挫した後、秀吉が自らの四国征伐を計画している中でのもので、村春が直接秀吉と会ったかどうかは別として、長曽我部に対抗しようと孤立無援で軍備を整えている村春に、秀吉がバックアップを約束しているのである。重臣の紹介とはいえ、出自不明の微禄の武士がわずかの年月で鳴門の海賊大将になりあがっていることがそもそも謎なのである。

 根津氏は、寛永期以降、水軍は藩の官僚機構に組み込まれ、森家は「棚上げされた名誉的存在」となり、「水軍組織から外れる」と述べた。しかし、これは氏の歴史認識の誤りではないかと思われる。森家はもちろん、徳島藩水軍も含めて、戦国武将の軍事組織そのものが形骸化していっているのであり、氏が「ライン」とみなす藩の官僚組織も時代についていくことができず、経済的に破綻していっている。幕末には小さな軍事行動にも窮している。同じ言い方をするならば、徳島藩そのものが「棚上げされた名誉的存在」となり、「現実社会」から外れていったのだと言えるのではなかろうか。

 「森家3代・忠村の墓はどこにあるのか」と「14代・幸村の不始末は何か」との質問をした。「幸村の不始末は分からない」が、「忠村の墓は、椿泊の森家墓所でなく、近くの神社にあって、今年2月に確認した」とのことであった。

徳島城庭園
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2007年09月18日

願開船(がんびらきぶね)と龍蛇神


願開船 天明年間、「土佐国の志和九郎左衛門が出雲大社に祈願して病気平癒した。それに感謝して小さな木舟に寛永通宝15枚を初穂として入れ、「出雲大社様」と刻して自宅前の小川に流したところ、18カ月後、大社近くの稲佐の浜に漂着した」という。現在、出雲大社の宝物殿に願開船として展示されているようです。

龍蛇神
 龍蛇神について、以下に出雲の「神在祭」に関する記事を抜粋しました。

 "旧暦の10月を「神無月」と呼びますが、出雲では「神在月」と呼びます。この月、全国の神様が出雲に集まるという信仰からきています。「神在祭」は全国から集まる神様を御迎えするおまつりです。
 まず、旧暦10月10日の夜、稲佐の浜に斎燈を焚いて龍蛇神をまつり「神迎え神事」が行われます。このあと龍蛇神を先頭として、出雲大社まで神幸し、全国の神様が本殿東西にある「東西十九社」に鎮まります。
 翌11日からの一週間、この十九社と、稲佐の浜に近い「上宮」でおまつりが奉仕されます。そして17日夕方「神達去出祭(からさでさい)」を行い、神様を御送りしてこのおまつりは終わります。
 出雲地方の人々は、このおまつりを「お忌みさん」と呼び、神様の会議の邪魔にならないように物音を立てずひっそりと過ごす事を心得としています。
 また、この時期は出雲地方では風波の激しい日が続き、亀甲の班紋のある小さな海蛇が藻に乗って、出雲の海岸に寄ってくると言われ、これを見つけた人は曲物(まげもの)に収め、出雲大社に奉納する事が古例になっています。海蛇は「龍蛇神」と呼ばれ、大国主大神の御使いをされる神様として信仰され、神在祭の間、この龍蛇神を特に拝礼する事ができます。"

 また、龍蛇神は、農耕民の水神さまであるとも言われるが、元は海神ではないかという記事もありました。

 "対馬や壱岐、玄界灘沿岸にはワタツミ(和多都美・海神)神社、住吉神社、宗像大社など海神をまつる神社が点在しており、いずれも海神を龍蛇神とする伝承が見られるのだ。--中略-- 住吉神社の祭神・筒男命(つつのおのみこと)について、民俗学者の谷川健一さんは「蛇を意味する古語のツツに由来する」と指摘している。"

 龍蛇神の画像は、画家のみはし・まりさんが、出雲大社に奉納したものです。

 さて、徳島の四所神社に伝わる龍蛇神は、阿波からの願開船が3年かかって出雲に流れ着き、そのお返しに出雲大社から贈られたという。四所神社はそれを阿波藩から預かった。天明9年の参勤交代では、龍蛇神を御座船に乗せて祈祷をし、藩主を送って帰ってきた船から降ろし再び神社で預かったという。
 これは、阿波藩かあるいは森家が、土佐の九朗佐衛門の事跡にならって、願開船と相当な初穂を奉納し、龍蛇神をお守りとして請い受けたのではなかろうか。
 阿波藩は住吉大明神を祀っていて、それでは不十分として出雲の龍蛇神を求めたのだろうか。
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2007年09月17日

徳島歴史講座「徳島藩御座船祈祷の変遷」


四所神社 徳島城博物館主催による徳島歴史講座「四国の水軍」の第1回が開催された。福島にある四所神社19代宮司・辻保雄氏による講座であった。前半は、四所神社の歴史を述べ、後半が「徳島藩御座船祈祷の変遷」であった。

 神社の歴史はもうひとつ謎につつまれている。大昔は御亀磯という島にあって地震と津波で千軒の家とともに沈んだ。そのために現在の場所に移った。元は四社神社といった。蜂須賀氏が阿波に入って、辻五太夫を神主とした。五太夫は、朝鮮に攻め入った時、蜂須賀氏の家来として手柄をたてたという。その後、神社は焼失したが、曾孫の辻播磨が再建し、宝永4年、四所神社と名を改めたのだという。今年10月27、28日は四所神社の秋祭りで、船の形をした船だんじりが出る。

船だんじり
 蜂須賀氏は海上の安全のため住吉大明神を祀っていて、蓮華寺を別当職としていたが、祈祷を四所神社にまかせ、2石を給していたらしい。現在、蓮華寺は四所神社の近くにあって、境内に住吉社があるようだ。この辺りは藩政時代、水軍基地である安宅があった。森甚五兵衛をはじめ水軍関係の屋敷があり、多くの船乗りたちが住んでいた。造船や修理も行われ船大工が集められていた。安宅が無くなった後も船大工の技術を活かして最近まで木工業が盛んであった。

 後半は、願開船(がんびらきふね)という願いがかなったことのお礼を託した小さな船形が、阿波から出雲に伝わり、天明8年、出雲大社から竜蛇神がもたらされた。その頃から蜂須賀家の参勤交代が変貌したというものであった。

 その背景として、当時の船乗りの実情を遭難者の物語を通して、念仏と占いなど自然に身を預けた呪術的な世界として示し、参勤交代での水軍を、歌舞伎芝居のような豪華なパフォーマンスとして描いた。

 蜂須賀氏の参勤交代は奇数の年に行われ、主途(かどで)という予行演習が行われ、当日は「千山丸」に藩主が乗り、飾った多くの川舟を従え、新町川を舟歌を歌いながら航進した。海上で大型の「至徳丸」に乗り移り、200艘の大船団を組んで出発する。舳先には日和猿が立ち音頭をとったという。

千山丸
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2007年09月11日

宍喰について


宍喰街並.jpg

 国道から見た宍喰の街である。真ん中の小さい山が城山である愛宕山。右端に台地状に見える高い山が鈴ヶ峰である。天正3年(1575)、長曽我部元親が攻め寄せるやたちまちのうちに宍喰城は陥落した。海部勢は鈴ヶ峰山頂に陣を構えたが、土佐軍は一気に攻めのぼり海部勢を追い落とした。土佐軍はそのまま追撃を続けて、海部川沿いの吉田や野江に達したのではないかと思われる。

宍喰海岸

 宍喰の浜の中央に「ホテルリビエラ」、その隣に「道の駅」が建つ。浜は海水浴場である。土佐の主軍はこの浜沿いに那佐へと進軍し、海部城攻撃に向かった。ここからは見えないが、那佐から海部城までの間には那佐湾という深い入り江があって、その一番奥に二子島がある。そこは元亀2年(1571)に長曽我部元親の弟である島弥九朗が海部勢に襲われて戦死したところと言われている。元親はその復讐戦として海部侵攻の正当性を宣伝したようである。

 宍喰川に沿って、さらに奥へと入っていくと大山神社があり、脚咋別鷲住王(あしくいわけわしずみおお)が祀られている。氏子は土佐・甲浦から阿波・牟岐までの広い地域に及んでいたといわれる。また一説には、鷲住王は海部氏の先祖とも言われる。つまり、海部氏は宍喰に起こり後に海部に本拠を移したというのである。

宍喰漁港

 文化9年(1812)の棟附帳の調査によると、宍喰には廻船3艘、漁船56艘が在籍していて、加子(船乗りを意味する身居)が300軒前後、そのうち安宅御水主として召しだされて阿波水軍の担い手となっている者も少なくない。


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2007年09月02日

「木瓜(もっこう)の香り」を読んで


木瓜の旗印 「木瓜(もっこう)の香り」は森甚五兵衛家19代目の森甚一郎氏の著作集です。1982年に亡くなられてから出版された遺稿集です。阿波学会などに多くの論文を発表され、これまでも一部はネットに出ているので読んでいました。「木瓜」は森家の家紋です。

 私のブログ記事はかなり間違っているようです。また、疑問の幾つかが明らかになりました。

 まず、森家の出自ですが、鎌田筑後守は細川氏に仕えたが、「私曲があったとして所領を没収された」という。隠居したのではなかったのだ。その後、佐田九朗兵衛と改名して沖の原に住んだ。沖の原は段関(鳴門市大津)だとのこと。森飛騨守の縁で森氏を名乗ったのはてっきり元村の婚姻があったと考えたのだが、そうではないようである。嫡男・村春の母は撫養城主・小笠原摂津守の女となっている。

 次に、森家のお墓の調査で、14代と15代がほとんど同時に亡くなっていることについての疑問がありました。お家騒動ではなかったかと想像したのですが、そうではありませんでした。14代・幸村は「かれこれ不届の儀これあり、格録家屋敷召し上げられる」ことになった。何をしたのかは書かれていません。嘉永4年(1851)のことでした。しかし、弟・村誠に相続が認められています。「家臣成立書」や「阿南市史」では幸村が嘉永4年に亡くなったとしていますが、墓石には明確に文久3年(1863)と刻まれています。たまたま同じ年のそれもおなじ8月に村誠も亡くなったので二人の墓を建てたのは16代・村晟となっています。そして、幸村のお墓だけが五輪塔ではないのです。鎌田弥寿蔵と改名して当主ではなくなっていたことを示しています。ただ、お咎めの前に当主の死亡届けと相続願いを藩に提出したのではないかと想像する余地があります。


椿泊城絵図 もうひとつ判形人について、「判形者考」として、和田島の森本家、海部の木内家の調査を軸にレポートがまとめられていました。3代・忠村が後継者のないまま亡くなって、当然お家断絶が想定されるなか、「家来たちがお見捨てなきよう蜂須賀至鎮公にお願いしていた」ことから慶長15年(1610)のお墨付きが与えられた。私は忠村が願い出たものと思っていました。場所も海部ではなく椿泊でした。
 村春が土佐泊から椿泊に移住してきた時の家臣団はもともと48家であったという。お墨付きでは、そのうち、5人は碌が与えられ、残る43人に椿泊での生活権が与えられた。大阪の陣にも参陣したと考えられています。元和2年(1616)、村重によるお家再興がかないましたが、村重には自分の家来がいたので、3人だけが椿泊で村重の家来になり、残る40人は津田村に移住しました。村重はそれまで津田にいたので入れ替わったということです。この時の証文で150石と津田川口番人の役を与えられました。
 津田では1人増えて41人になり、寛永9年のお墨付きで正式に判形者という格が認められました。それまでも、判形人と呼ばれて、いわば藩主直属の非合法捜査官のようなものであったと思われますが、一応正式な機関になったということです。海部騒動が起こったのはその翌年のことです。
 寛永17年(1640)、判形者は海部に送られました。4人は津田川口番人として残され、37人が海部に移住し(由岐から宍喰にかけて配置)、海部代官の支配下に入りました。彼らの役目について「海部騒動の益田家の家老であった樋口某が海部に帰ってきていたのを討ち取った」という話が紹介されています。やはり、特別捜査官なのです。鉄砲隊から転入する者がいて維新の時には42人(阿南市史)いたそうです。
 現在、海部にある森志摩守の墓については、「この地(判形)に来た24軒の判形者が亡き村春夫妻を慕って建立した供養塔である」と述べています。そして、奥浦の薬師寺に志摩守の過去帳と位牌が残されているとも書かれています。

出陣前の森村晟 しかし、この点にはまだ異議があります。椿泊に忠村の墓が見当たらなかったことです。単に立て札がなかっただけなのか。椿泊の森家墓所をみると初代・元村、2代村春の墓は別の場所にあったのを移動してきたものと思われます。3代・忠村は椿泊の領地を失って、そこに墓を建てる人はいなかったはずです。妻であった寺沢氏か、旧家臣団である判形人以外に祀る人々はいなかったのではないでしょうか。

 もうひとつ、この本には16代・村晟の写真が掲載されていました。前列中央で片ひざ立てた23歳。出陣前の姿だそうです。著者は彰義隊との戦いで戦死したと書いていますが、上野戦争では阿波の部隊は水道橋付近の警戒にあたっていただけのはずです。
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2007年08月29日

わたしの海部城

 さっぱり根拠はないけれど、3回も探索したのだから、頭の中の想像を描いてみました。今のわたしの海部城です。

海部城想像
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2007年08月27日

椿泊で「さざえ最中」を


松鶴城
 ひさしぶりに椿泊を訪れました。発掘された松鶴城の旧石垣は埋め戻されて、その上に小学校の建物が出来上がりつつありました。


saza1.jpg
 棚橋豊福堂で「さざえ最中」を購入しました。せっかく来たのだからと、「甚五兵衛ようかん」も買いました。「さざえ最中」には由来を書いたしおりが入っていて、「阿波藩中老、二千五百石、船大将の誉れは高く、泊り甚五兵衛泊りの殿よと、里謡にも唄われました」「阿波水軍では、さざえ・あわびを常食として有事に備えて英気を養っていた」などとありました。


ようかん



 帰宅して、試食してみたところでは、確かにおいしい。意外だったのは「甚五兵衛ようかん」だ。とても上品な味なのだ。私はお酒を飲みながら甘いものを食べるのだが、このようかんはおいしいお茶が飲みたくなる。
  



 佐田九朗兵衛が祀られているという佐田神社に登りました。急傾斜の石段に息切れがして、振り返ると静かな海に漁船が2隻ずつ寄り添って停泊していました。豊福堂主人が「フライパンで炒られるような」と言う通りの暑い日でした。

佐田神社
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東洋町までドライブ

 26日、一段落したので高知県の東洋町までドライブに行きました。クーラーの壊れた軽四貨物ですので、この季節は快適とは言い難い。

 海陽町では、鞆浦と奥浦を散策しました。現在の町でなく古地図のこの辺りを確認しようと思っていたのです。出くわした神社や寺には立ち寄ってみました。

 明現山(みょうけんさん)公園に登りました。ここからは海部城の城山北側がよく見える。古地図では城山も、この明現山も島だった。下に見える奥浦の家並みも大部分は海で多くの船が停泊していたはずだ。

 番所があった愛宕山にも登ろうと思っていたのだが、海部城で時間をくってしまったので今回はあきらめました。

 海部城では、山城はさぁっと登りゴヤの鼻から少し下って北側中腹を巡りました。二つの施設跡と思われる石垣も見つけました。これが軍事施設だとすれば、山頂の砲台だけでなく、もっと多くの砲を備えていたことが考えられ、「海部要塞」の存在は冗談ではなくなります。当然、愛宕山にも同様の軍事施設があったはずと勝手な想像を膨らませています。その一方で海部城の構造についてはよく分からなくなりました。領主の住んでいた館はどこにあったのかです。

 その後、ナサ湾を眺めつつ、宍喰に行きました。とりあえず全景の写真を撮影しました。城山らしい小山も見えます。さらに足を延ばして東洋町まで行きました。

 帰り道では、椿泊に立ち寄りました。松鶴城の石垣は埋め戻されて、その上に小学校の建物が建設されていました。佐田神社に登り、「さざえ最中」と「甚五兵衛ようかん」を買いました。椿地まで戻って大宮八幡を訪ねました。最近になって、この椿地が重要な拠点になっていた時期があると思うようになっています。

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2007年08月13日

森甚五兵衛を訪ねて その5

 鳴門市土佐泊の潮明寺に、森志摩守のお墓がある。明治期に建てられたもので、すでに「その3」で紹介しているのだが、その時は志摩守の墓とは考えていなかった。鳴門市史に掲載されているのを見て、改めて碑文を見ると「森志摩守累代」とある。森カズエ健之となっている。

土佐泊の志摩守墓

 森家成立書によれば、森家の先祖は因幡の国出身の鎌田九朗左衛門と言い、細川家の家臣であった森飛騨守と久米安芸守の仲介により細川家に仕官した。筑後守を名乗って名東郡黒田村(現徳島市国府町)に住んだが、隠居してからは佐田九朗兵衛と改名。さらに、森飛騨守と関係ができたことから森姓を名乗ったという。

 元村はやはり黒田村に住んでいたが、その後土佐泊に移住した。そして、段関村(現在の鳴門市大津)の城主となり、志摩守を名乗ったという。

 志摩守元村は、天文年間(1532-1560)、讃岐の寒川氏と戦い引田を攻撃したとの記録がある。天文6年(1537)、伊予の河野通世との船戦で勝利をおさめたという。すでに鳴門の水軍を率いて、河野水軍と戦っているのである。

 勝手に解釈してはいけないかもしれないが、あるいは、鎌田九朗左衛門は水軍のエキスパートとして日本海側から招かれたのかもしれない。仕官してまもなく元村(九朗兵衛との関係は書かれていない)に代を譲って隠居し、その元村が飛騨守の娘を妻として森家の分家となった。家格が上がって領地を得て、細川家の水軍の将となったのではないかと考えられる。やがて、九朗兵衛は板東郡沖之原村で病没している。九朗兵衛は現在、森家先祖として椿泊の佐田神社に祭られているという。

 天文16年(1547)、志摩守元村は嫡男村春に志摩守を譲り、自分は筑後守を名乗り板東郡沖之原村に引きこもった。しかし、流浪の武士を集めて農耕に従事し、みどころのある者を家来にしては土佐泊城に送り込んだという。文禄3年(1594)に病没している。

 この天文年間は、台頭してきた三好氏が、細川氏に代わって阿波の実権をにぎるに至った時期である。天文21年(1552)、三好義賢は阿波の守護・細川持隆を滅ぼしている。森志摩守は細川家臣というよりはむしろ三好家に忠節をつくしているようである。永禄5年(1562)、義賢が戦死し、三好長治があとを継ぐ。長治は忠臣を殺したり、法華騒動を起こしたことなどから暗愚の将と言われているが、森志摩守を信頼していたようである。

 長治が阿波の国全体を日蓮宗に改宗させようとして真言宗側の反発を受けた法華騒動では、森志摩守が日蓮宗の僧侶たちを堺まで送り届けている。真言宗徒や山伏が集まりただ事でない険悪な状態であった。天正3年(1575)のことであり、その年9月には長曽我部元親は海部城を落とし、阿波南部に侵攻している。国内でこのような問題を起こしている時期ではなかったはずだが。翌年(1576)、元親は白地城(現三好市)に入った。阿波西部も長曽我部氏の支配下になったのである。

 天正5年(1577)、三好長治は迂闊な軍事行動を起こして崩壊する。この時も森志摩守に救出を求めている。しかし、森志摩守の船は待ち合わせの場所を間違えて長治に出会えず、長治は追い詰められて月見が丘付近で自決する。志摩守村春は手遅れを知って殉死のつもりで突撃するが、敵側の一宮、伊沢氏は戦わず、自決をも押しとどめている。志摩守の実直な人柄はよく知られていて、無意味な死が惜しまれたのではなかろうか。

 阿波三好氏は長治の死によって絶えるが、一族である十河存保(讃岐十河氏)を盟主に迎え、存保は織田信長の支援をとりつけ長曽我部元親と対決しようとした。しかし、信長は本能寺の変(1582)で急死してしまう。その2ヶ月後、中富川の決戦が行われ、阿波三好党は壊滅した。勝瑞城に立てこもった十河存保を長曽我部の軍が包囲する。ちょうど台風が来襲したのか吉野川平野は洪水になった。この辺りではよくあったことで、家々は湖に浮いた島のようになる。それを待っていたかのように、森志摩守の水軍が現れ、勝瑞城に食料を運び入れるとともに、身動きのとれない土佐軍を攻撃した。結局和議が成立し、十河存保は勝瑞城を明け渡して讃岐に去った。

 長曽我部元親はさらに讃岐にも侵攻し、天正13年(1585)には四国をほぼ統一した。土佐泊の小さな城から眺めると、対岸はもはや長曽我部の領地であり、木津城には元桑野城主で長曽我部氏に降った東条関之兵衛が入っていた。岡崎城に駐留していた三好党は淡路に逃げた。すぐ目の前の対岸、林崎城の四宮氏はどうしていたのだろうか。志摩守の妹は四宮氏に嫁していた。長曽我部に降るつもりはなかったと思われるが、少なくとも55歳をこえていた志摩守村春は何を思っていたのだろうか。

 村春は、三好長冶の死後、秀吉に会って3千石の朱印状を得ていた。信長の四国攻めを前提としての約束であった。信長の死によって情勢は変わったが、秀吉がいる限りは、約束は生きていた。

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2007年08月04日

海部城再訪

 7月26日に再び海陽町に向かいました。せいすいさんとメールのやりとりをしていて、自分の考えを述べる度に、疑問がどんどん沸いてきて、「もう一度確認しなければ‥」と思うようになりました。

 せいすいさんは、「中世島城の謎」というホームページを立ち上げていて、以前から連絡をとりたいと思っていたのですが、連絡先が分からなかったのです。海部出身の方で「海部城の発掘」を提起されています。幾つかの記事に私の考えと違う部分があって、真意を尋ねてみたいと思っていたのです。

 それはそれとして、問題は海部城のイメージです。たんに一回、城山に登って、その印象を想い描いていたのですが、具体的にどうなっていたかと考えると手がかりがとても頼りなかったのです。

 とにかく、思いたったら気になって仕方がない。休みをとって、今度はコンパスを買って、簡単な測量をするつもりで出かけました。

 とても暑い日でした。吹き出る汗でべたべたになりながら登って、潅木を掻き分けると、やぶ蚊の群れが襲ってきました。半そでの腕にいっぱい蚊がとまって、腕を振り回しても離れない。好きなだけ血を吸わせてやりました。

 山頂の石垣を基点にして、方位と距離をとっていきました。距離は歩数なのでまあ適当です。しかし、潅木のために見通せない部分もあるし、歩けない角度もあります。簡単な測定といってもけっこう大変でした。

 測定を始めてまもなく、これが砲兵陣地であることは簡単に分かりました。潅木やしだに覆われているので一見しただけではいかにも古城の石垣なのですが、ちょっと観察すれば先にこのブログに掲載した「海部城の石垣」のとおりの構造であることが分かります。高射砲があったという話を聞いていたので、その高射砲はここにあったのだと確信しました。

 その後、この陣地が東南の海に向かった指向性のものであることから、高射砲ではなく、船舶を攻撃するためのものだと気づきました。小さいながら海部要塞だったのだと思います。しかし、そういう記録は見当たりません。

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 帰りに大里古墳を訪ねました。「古代はまあいいや」ということで、今は対象にしていないのですが、この古墳の位置は問題です。海部の平野部の真ん中にあるのです。つまり、6世紀とか7世紀にこの平野があったということであり、そうすると、この辺りが経済的な中心部と考えられます。地図をみれば明らかです。陸路にしても海路にしても交通の要所と思われるし、農耕地としても最も豊かであったと思います。ところが、戦国末期の頃まで、この地域の政治の中心は吉田とか吉野とされています。海部川下流を押さえる重要な位置には違いないのですが、どうみても山間部に引っ込みすぎています。

 つまり、海岸の平野部には、古くからの豪族らが住んでいて、海部郡司の名目上の支配下にはあったものの、郡司を上回る勢力をもっていたのではないかと思えるのです。そうすると、海部氏は新興の開発領主ではなく、古い勢力が武士化していったものと考えるのが自然ではないでしょうか。長い期間、郡司、荘官、地頭などが並存し、武士団もそれぞれの勢力に分かれて離合集散を繰り返し、複雑な姻戚関係があったかもしれません。
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2007年07月28日

海部城の見取り図

 海部城の見取り図を描いてみました。測量したわけではないので、まったく信用はできません。
 自分のスケッチを、海部町史にある「実測図」という図面に合わせてみたものです。この「実測図」はくるわの高さを実測しているのは間違いなさそうですが、形や大きさ、位置などは正しいかどうかわかりません。

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 海部町史の実測図


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2007年07月26日

海部城の石垣

 以前に書いた海部武士団の記事について、次の写真を表示して、城の建物跡かと述べています。

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 この石垣について少し詳しく調べてみました。暑さとやぶ蚊の襲来に苦しみながら、海部城の本丸とおぼしき付近の図を描いてみました。距離は歩測ですので正確ではありません。

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 いかにも古城の石垣みたいなこの石垣は、この図に示された構造の一部です。これはまさしく砲兵陣地です。トイレや手洗いの付属設備の痕跡もあります。なぞのゲートは弾薬を運び入れるための設備かと思われます。
 戦争中、ここに加農砲が置かれていたのではないかと思います。高射砲と思い込んでいましたが、この陣地は南東を指向していて、航行する船をねらうものです。
 高射砲だと360度上空をねらうから円形かそれに近い陣地になるはずです。
 実際に据えられたのがどんな砲であったかは分かりませんが、ふさわしいのは加農砲であり、射程が20キロメートルくらいある砲身の長いものです。
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2007年07月15日

安宅(あたぎ)水軍


atag2.jpg

 全面的に書き直しました。


 改定ページ


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2007年06月29日

森甚五兵衛を訪ねて(番外) 判形人について

 森甚五兵衛忠村の墓は海部城の横の丘にある。その墓の周囲には多数の判形人の墓がある。忠村は椿泊の領主で、その一族のほとんどはそこに眠っている。それなのに彼の墓だけ(もう一人不明だが)がなぜこの海部にあるのか。判形人とはいったい何なのか。

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 天正13年(1585)、四国をほぼ統一した長宗我部元親に対して、豊臣秀吉は四国征伐の軍を派遣した。圧倒的な秀吉軍に対抗できず、元親は降伏して土佐1国の大名となった。阿波は蜂須賀氏に与えられ、蜂須賀家政が、一宮城に入った。家政は、支配体制を確立するために阿波九城を置いて重臣を配置した。

 そのひとつが海部城であり、土佐の長宗我部氏に対する備えのために鉄砲隊80人を含む有力な軍隊を常駐させた。水軍として森甚五兵衛村春を椿泊に移住させ、橘湾から宍喰までの海を支配させた。藩主・家政は「椿より海部までの浦々にて、森志摩にれう(漁)仕候へと申付候間 いづれ之浦へ行共無意義れうさせ得候者也」(森家文書)とのお墨付きを与えた。漁業権を与えた文書と考えられているようであるが、そうではない。現代でいえば海上保安庁のような警察権を与えたものと理解すべきである。

 森村春は文禄元年の朝鮮征伐で戦死するが、その子忠村があとを継ぐ。忠村はその領地である椿泊ではなく海部に住んだようで、その墓は海部城の横にある。船をもち、数十人の家来を抱えていた。

 森村春には当初嫡男がなかったので養子をもらっていた。村重である。ところが、その後忠村が生まれた。村重は養子を辞退せざるをえなかった。忠村は、3代目森甚五兵衛当主となったものの、かなり年上の伯父であり、元義兄に対して遠慮があったのではなかろうか。椿泊に村重を置いて当主の代行をさせ、自らは最前線ともいえる海部に居を構えたように思われる。

 長宗我部氏は、慶長5年(1600)の関が原の戦いで大阪方に付き、改易となった。海部の国境守備軍としての特別な役割は実質的には無くなってしまった。しかし、長宗我部盛親もその家臣たちも浪人として生きていたし、新たに土佐を領した山内氏も油断はできなかったかもしれない。

 忠村には嫡男がなく、森甚太夫家から養子をもらっていたが、その養子は忠村の死の直前に夭折した。このため森甚五兵衛家は断絶した。慶長15年(1610)のことだった。分家していた村重の「預かり」として家名は存続することになるが、忠村の家来たちは失職することになった。忠村は死の直前に蜂須賀至鎮に家臣たちのことを願い出ていたようで、次のようなお墨付き(判形)が与えられた。

 「志摩家来之者 泊に可致堪忍之由尤候 なお其浦 漁猟併せて商売仕儀は浦之商人なみたるへく候 其外諸役可令免許事 己上」(森家文書)

 武士身分の5人は藩から100石が支給され、他の43人は現地で漁や商売して自活できるように取り計らわれたのである。諸役免除のほかは別に特権が与えられたわけでもない。この43人は水軍の兵士であるが、実体は船乗りであり、主家を離れればただの漁師であったと思われる。

 慶長19年(1614)、大阪冬の陣では蜂須賀至鎮は8000の軍勢を率いて出陣、木津川口に上陸し博労ヶ淵の戦いで戦功を挙げた。大阪城への海路を封鎖したのである。森甚五兵衛村重ら阿波の水軍はこの戦いの中心となった。大坂両陣の功で至鎮には松平姓が与えられるとともに、元和2年(1616年)淡路が加増されて、渭津藩(徳島藩)は25万7千石の大藩となった。長宗我部盛親は大阪方について戦い、その後処刑された。また、一国一城令が施行されて海部城の施設は取り壊され、麓に陣屋が置かれた。

 蜂須賀至鎮は元和5年(1619)若くして亡くなった。忠英が後を継いだがわずか10歳であり、そのため祖父家政が後見した。寛永15年(1638)に死去するまで家政の執政が続いた。

 海部騒動が発覚したのは寛永10年のことだった。海部で7500石を領する益田豊後守長行が禁制を破って海部郡内の山林の木を勝手に伐採し、江戸に輸送して売り捌こうとしたことがわかり、長行は領地を召し上げられ大栗山に幽閉された。蜂須賀家の姻戚であった長行は、藩の不正を幕府に訴えることで対抗した。結局は正保3年(1646)に幕府の裁断が下り、訴えは根拠なきものとされ、長行は忠英に引き渡され、江戸藩邸で処刑された。

 この海部騒動発覚後、海部に判形人36人が置かれたと海部町史などにある。これは海部騒動が木材の密輸であり、江戸に運ばれるまで察知できなかったことから、海上警備の必要を痛感した藩が、先に主家を失って在地の漁民となっていた森家の元家来を集めて藩の海上警備隊をつくったということではなかろうか。船を与え、判形人という名で通常は漁をしながら警備をしたのだと考えられる。彼らは帯刀を許され郷士身分として処遇されたといわれる。また、その後津田浦に移住させられたともいう。

(この稿は誤っています。このブログの「木瓜の香りを読んで」で修正しています。また、3代忠村の墓は椿泊で確認されています。別稿を書いた時点で削除する予定です)

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2007年06月21日

海部(かいふ)武士団 後編

 海部城の跡に残る石垣である。建物の跡と思われる。城は荒れ果てて道もわからなくなっているが、城の構造はそのまま残されている。ただし、蜂須賀時代の姿と考えられる。カラスが巣を作っていて、頭上から枯れ枝を落とす攻撃を受けた。

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 建武3年(1336)、足利尊氏の命により、細川和氏・頼春兄弟は阿波・秋月荘に入り、頼春は暦応4年(1341)阿波の守護となった。和氏らと共に阿波に入った顕氏(和氏の従兄弟)の配下に海部但馬守の名がある。「海部氏」は、その後100年以上に渡って細川氏に仕えていたようであり、海部三郎経清、越前守常氏といった名前が散見される。

 応仁の乱(1467)以降、それに続く両細川の乱など四国・近畿を舞台に戦乱が続き、海部氏はその水軍と海上輸送力を頼られてか、多くの戦いに加わっている。永正八年(1511)、海部吉野城主の藤原持共は覚成寺を建立、享禄三年(1530)には藤原持定が杉尾神社を建立したことが、残された棟札から知られる。永正年間(1504〜20)に藤原之親が吉野に本城を築いたと言われる。海部氏は海部川流域を中心に宍喰から牟岐付近にかけての支配を確立していたようである。

 之親のあとを継いだ左近将監友光は、新たに海部城を築いた。靹浦にあることから靹城とも呼ばれる。残された記録などから、永禄年間(1558〜69)に築かれたものと思われる。この城は、馬蹄型の山が現在の靹浦の町を抱きかかえるような形になっている。町は後世につくられたもので、その位置には城の中枢があって、すぐ前まで船が入れるようになっていたのではないかと思われる。陸からの攻撃に対して港を守る形になっている。その点、鳴門の土佐泊に非常によく似ている。軍事的な拠点というよりは海上交通の基地という感じなのである。

 『阿波誌』に「藤原友光、また海部左近将監と称す。釈服して宗寿と号す。源元長の女婿、吉清の父也、河内高屋に至り、三好山城守を援く」とある。つまり、海部友光は三好元長の娘を妻とし、阿波の実権を掌握する勝端城の三好氏と姻戚関係にあった。また、隣国土佐の豪族安芸国虎とも同盟を結んでいたという。友光の嫡子吉清は「永禄・元亀の間、靹城に拠る、海部七城を領す」とある。

 元亀二年(1571)、長宗我部元親の弟・島弥九郎が有馬温泉へ湯治に行く途中に靹浦に寄港した。これを知った友光が弥九郎を討ちとった。この事件が引鉄となって元親の阿波侵攻が始まったとされている。しかし、敵討ちから成り行きで四国を統一する戦争を始めるなどということはありえない。

 口実はどうあれ、天正三年(1575)、元親は大軍を派遣して海部城を包囲した。友光は鉄砲の名手・栗原伊賀右衛門らを指揮して防戦したが、まもなく海部城は落城した。友光は城を逃れ(船に乗れば簡単に逃げることができた)、紀州の縁者を頼って落ち延びたと伝えられるがその後は不明である。

 このとき、吉清は三好氏の要請を受けて讃岐に出陣し、寒川氏の昼寝城を攻撃していたという。海部城が落ちたため、帰るところを失い阿波の西方美馬三好に落ちていったという。
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