2016年08月07日

お四国さん 25

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 屋島の東、源平の古戦場を挟み標高375mの五剣山があります。地上から剣を突き上げたような神秘的な山です。85番・八栗寺はその8合目にあり、ケーブルカーで登ります。行きは解説のような声が聞こえていましたが、帰りは珍妙な歌が流れていました。どちらにせよ、雑音のためよく聞き取れません。

 天長6年、弘法大師がこの山に登り求聞寺法を修めた時に、五振りの剣が天振り注ぎ、山の鎮守蔵王権現が現れました。そして「この山は仏教相応の霊地なり」と告げられたので、大師はそれらの剣を山中に埋め鎮護とし五剣山と名づけました。五剣山の頂上からは、讃岐、阿波、備前など四方八国を見渡すことができたので、元は八国寺といいました。

 以上の由来は、71番・弥谷寺の由来とそっくり同じです。讃岐中部では、五つの山が聖地を示す場合が多いようです。弥谷寺は山号が剣五山となっていて、おそらく五つの峯が想定されているのではないかと思います。善通寺は五岳山で付近に五つの山があるといいます。五色台も五つの峯があって、白峯に白峯寺、青峰に根香寺があります。八栗寺の山号は当然、五剣山となっています。仏教以前からの歴史が残っているのだと考えます。

 大師は唐へ留学する前に再度この五剣山に登りました。そして、念願が叶うかどうかを試すために8個の焼き栗を植えました。無事帰国し再び訪れると、芽の出るはずのない焼き栗が芽吹いていました。そのため、八栗寺と改名しました。

 天正の兵火により全焼しましたが、文禄年間に無辺上人が本堂を再建、さらに高松藩主松平頼重が現在の諸堂を再興し、弘法大師作の聖観音自在菩薩を本尊として安置し、観自在院と称するようになりました。

 五剣山は、宝永3年(1706)に、大地震に遭い、五つの嶺のうち東の一嶺が中腹より崩壊しました。

 86番・志度寺は、推古天皇33年(625)に開創された四国霊場屈指の古刹です。海洋民族といわれる海人族の凡園子(おおしそのこ)が霊木を刻み、十一面観音像を彫り、精舎を建てたのが始まりとされます。

si25-2.jpg その後、藤原不比等が、妻の墓を建立し「志度道場」と名づけました。その息子房前は、持統天皇7年(693)、行基とともに堂宇を拡張しました。母の供養に1000基の石塔を建てたといわれ、石塔の一部は「海人の墓」として今も残っています。

 能楽の作品「海士」で有名になりました。そのあらすじは「房前が、亡き母を追善しようと志度浦を訪ね、一人の女の海人と出会う。彼女は昔話を始め、かつて父・藤原不比等が竜神に大切な玉を奪われ、それを取り返そうとこの浦に来て、一人の海人と結ばれて子をもうけた。その子を世次にするために海人は深い海に潜って玉を取り返すが、自らは力尽きて死んでしまったと述べる。やがて、語った海人は、自分がその女であり、房前の母であると名乗り、海中に消えた。房前が志度寺で供養を行うと、龍女となった母が現れ、仏縁を得た喜びを表す」というものです。

 室町時代には、四国管領の細川氏の寄進により繁栄しますが、戦国時代には荒廃しました。しかし、藤原氏の末裔である生駒親正による支援を受け、さらに寛文10年(1671)には高松藩主の寄進などもあって再興されました。

 平成の大修理として現在、工事が行われています。また、志度は、江戸時代の奇才平賀源内の故郷であり、近くに記念館があります。

 87番・長尾寺は、聖徳太子によって開創されたともいわれていますが、一般には、天平11年、行基が歩いていて道端の楊柳に霊夢を見て、その木で聖観音菩薩像を彫造して本尊とし、法相宗の寺として開基されたといわれます。

 その後、弘法大師がこの寺を訪れ、入唐が成功するように年頭七夜に渡り護摩祈祷を修法して国家安泰と五穀豊穣を祈願しました。その祈願は現在にも受け継がれ、毎年正月の七日には「大会陽」が盛大に開催されているそうです。唐から戻った大師は、再びこの地を訪れ「大日経」を一石に一字ずつ書写し供養塔を建立し、その時に真言宗に改宗されたそうです。

 天正の兵火により、本堂以外は灰燼に帰しました。天和元年(1681)、藩主・松平頼常が堂塔を寄進しました。しかし、元禄2年(1689)には藩主の命により、天海僧正の手で真言宗から天台宗に改宗されました。
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 明治維新以後、学校や警察、郡役所などの公共施設に提供されたそうです。地元では「長尾の観音さん」とか「力餅・静御前得度の寺」として親しまれているようです。

 門前に経幢(きょうどう)といわれる石柱のようなものが2基あります。唐や宋の時代に流行したもので、我が国では鎌倉時代に建てられるようになった経文の埋納施設だそうです。弘安6年と9年の銘があり、重要文化財に指定されています。

 ついに結願(けちがん)の霊場、88番・大窪寺に到着しました。徳島県の県境に近い矢筈山(標高782m)の東側中腹にあります。秋も深く紅葉に包まれていました。

 縁起によると、養老元年に行基菩薩がこの地を訪れた際、霊夢を感得して草庵を建て、修行をしたといわれます。

 弘仁7年、唐から帰国した弘法大師が、現在の奥の院近くの胎蔵ヶ峰にある岩窟で、虚空蔵求聞持法を修法し、堂宇を建立しました。等身大の薬師如来坐像を彫造し本尊としました。また、唐の恵果阿闍梨より授かった三国伝来の錫杖を納めて大窪寺と名づけ、結願の地と定めました。本堂西側にそそりたつ女体山には奥の院があります。大師が本尊に水を捧げるために独鈷で加持すると清水が湧き出たと伝えられます。

 大窪寺は、女性の入山が早くから認められていて、女人高野とも呼ばれて栄えました。一時は100以上si25-4.jpgの堂宇を誇っていました。しかし、天正の兵火で多くが焼失しました。高松藩主による寺領の寄進や建物の修復によって復興しましたが、明治33年にも火災にみまわれています。

 「同行二人を共にした金剛杖などは、大師堂脇の寶杖堂に奉納されます。毎年春夏の『柴灯護摩供』で供養されます」というので、杖を持って行ったのですが、受け取ってもらえませんでした。つまり、88ヶ所を打ち終えたら杖を奉納するというのは決まりごとではないのです。苦難を共にした杖は大事に持っているべきだというのです。どうしても処分しなければならない場合に、寸志を添えて奉納するのであって、それは結願のお寺である必要もないことなのです。しかし、そういうことならそうだと案内に明記するべきだと思います。

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2016年08月06日

お四国さん 24

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 82番・根香寺(ねごろじ)は、同じ五色台の主峰である青峯山にあります。白峯寺と同様、紅葉がとても美しかった。ここは古くから、修験者たちの聖地であったようです。その五つの山に金剛界曼荼羅の五智如来を感じた弘法大師は、密教修行の地として「花蔵院」を建立したそうです。

 後に大師の甥にあたる智証大師が訪れた際、山の鎮守である一之瀬明神に出会い、「この地にある三つの谷に道場を作り、蓮華谷の木で観音像を彫りなさい」というお告げをうけました。智証大師は蓮華谷の木で千手観音像を彫造し、「千手院」を建てて安置しました。この霊木の切り株が芳香を放ち続けたことから、「花蔵院」と「千手院」を総称して根香寺と名づけたそうです。

 根香寺は後白河天皇の帰依も厚く隆盛を極めました。後に、高松藩主らにより再興され、この時に天台宗へ改宗されました。

 昔、青峯山には人間を食べる恐ろしい怪獣、牛鬼が棲んでいました。弓の名人山田蔵人高清は、村人に頼まれて山に入りましたが、なかなか牛鬼が現れません。そこで根香寺の本尊に願をかけました。すると、21日目の満願の暁に牛鬼が現れ、その口の中に矢を射こみました。逃げる牛鬼を追うと2kmほど西の定ヶ渕で死んでいるのが発見されました。高清は牛鬼の角を切り寺に奉納し、その角は今も寺に保存されているそうです。駐車場に牛鬼の像があって、「あっ、あれだ」と彼女が指さしましたが、私は見逃しました。

 83番・一宮寺の創建は、飛鳥時代の大宝年間といわれ、非常に古いお寺です。開基は、義淵僧正とされています。当時は「大宝院」と呼ばれ、南都仏教の一つ法相宗の寺でした。

 和同年間、諸国に一宮寺が建立された際、行基菩薩が堂宇を修復し、讃岐の国一宮である田村神社の別当寺とし、神毫山一宮寺と改名しました。

 大同年間、弘法大師が訪れ、約106cmの聖観世音菩薩を彫造し、伽藍を再興したそうです。この時に真言宗に改宗されたといわれます。

 天正の兵火により灰燼に帰しましたが、中興の祖とされる宥勢大徳によって再興されました。

 ところが延宝7年(1679)、時の高松藩主・松平頼常によって田村神社の別当を解かれました。実は、松平頼常は水戸光圀(黄門さま)のただ一人の子供なのです。

 光圀は歴史思想家とでもいった人物で、日本の歴史を研究し、本来どうあるべきかを考え、独自の史観を持つ水戸学の基礎を築きました。寺社については藩内全てを対象に大改革を実施しました。寺の整理破却、神仏分離を徹底し、「八幡潰し」といわれました。日本古来の神々を尊重し、外来の仏教を廃する傾向がありました。幕末の尊王攘夷も、明治の神仏分離もこの水戸学の影響を強く受けています。

si24-2.jpg 松平頼常は、初代高松藩主・頼重(光圀の兄)の養子となり、世子であった1670年頃から高松藩の政務を執っていたといわれます。そして、水戸藩ほどではないにしても一種の宗教改革を行った形跡がみられます。札所の復興にも努めていますが、一方で改宗や神仏分離を迫っています。先に述べた根香寺の改宗もそうです。弘法大師の時代はどうか分かりませんが、江戸時代では、改宗にしても神仏分離にしても、多くの関係者にとって大変なことだったと考えられます。札所の由緒では初代・頼重の功績が多く述べられていますが、頼常の名はあまり出てきません。寺にとって不本意な支配を強めたためではないかと思われます。

 古い石塔がありました。一宮御陵というそうです。田村神社のご祭神の供養塔で、神仏分離の際に仏式の塔ということで、寺に遷されたそうです。分離するのもなかなか難しいことだったんですね。

 この寺の本堂左手には薬師如来が祀られる小さな祠があります。これは「地獄の釜」と呼ばれ、祠に頭を入れると境地が開けるという言い伝えがあります。一方、悪いことをしていると頭が抜けなくなると言われます。

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 84番・屋島寺は、古い建物や石段も残っているものの、多くが新たに改修されていました。山門をはじめコンクリートの建物も多く、石垣や土台も新しくなっていました。大きな宝物館にも入場しました。

 屋島寺は、天平勝宝のころ鑑真和上によって開創されたと伝えられます。鑑真和上は、倭国の朝廷からの要請をうけて5度にわたって渡海を試みましたが、暴風や難破で果たせず、ついには失明してしまいました。天平勝宝5年(753)にようやく鹿児島に漂着しました。翌年、東大寺に向かう船で、立ちのぼる瑞光を感得し、屋島の北嶺に登り、そこに普賢堂を建てて持参していた普賢菩薩像を安置しました。和上の弟子である恵雲律師が堂塔を建立して「屋島寺」と称し、初代住職になりました。律宗のお寺でした。

si24-3.jpg 弘仁6年(815)、弘法大師は、嵯峨天皇の勅願を受けて屋島寺を訪ね、北嶺にあった伽藍を現在地の南嶺に移し、十一面千手観音像を彫造して本尊としました。以後、屋島寺は真言宗となり、山岳仏教の霊場としても盛んになりました。

 天暦年間には明達律師が訪ねてきて四天王像を奉納しました。現在の本尊・十一面千手観音坐像もこの頃に造られ、国の重要文化財になっています。同じく重要文化財である本堂は鎌倉時代のものです。

 戦乱などによって衰退した時期もありましたが、国主・生駒氏の寄進や、歴代高松藩主の援助により、その都度再興されました。

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2016年08月03日

お四国さん 22

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 行基は蔓延した天然痘降伏の為、弥谷山上から中国・四国の8国を眺望して、そこに蓮華山八国寺を創始したそうです。後に7歳の弘法大師がこの山で苦行を行ったといわれます。

 大同2年、大師は再びここを訪れ修業をしていましたが、剣が5本降ってきて、蔵王権現のお告げを受けました。それにより、剣五山弥谷寺と名を改め、千手観音を刻んで本尊としたといわれます。

 尾根続きには天霧山があって、こちらには天霧城跡があります。秀吉の四国征伐で滅亡した香川氏の築いた山城です。戦時に籠るための城で、居城ではありませんが、かなり複雑な構造になっています。

 71番・弥谷寺へは。駐車場からバスが出ていましたが、丁度出発するところで間に合いませんでした。「まあ歩いて行こう」と登って行きました。しかし、やはり年ですな。体が重いというか、540段の石段を登るのはたいへんでした。

 不動明王の御開帳が行われていて、参拝しました。

 72番は曼荼羅寺です。縁起によると、創建は四国霊場で最も古い推古4年(596)とされています。弘法大師の先祖である佐伯家の氏寺として創建され、初め世坂寺(よさかでら)と称していたといいます。

 大同2年、唐から帰朝した弘法大師がこの寺を訪れたのは、亡き母玉依御前の冥福を祈るためだったともいわれています。唐の青龍寺にならって伽藍を3年がかりで建立し、本尊に大日如来を祀り、唐から持ち帰った金剛界と胎蔵界の曼荼羅を安置し、寺名を「曼荼羅寺」に改めたそうです。

 四国霊場の古い案内書には、樹齢1200年を超す弘法大師お手植えの「不老松」が紹介されています。高さは4m足らずですが直径が17〜18mもあり、菅笠をふたつ伏せたような印象的な姿で県の自然記念物に指定されていました。しかし、松食い虫に浸食され、平成14年に伐採されました。現在、その松にお大師さまを刻んで笠松大師として祀られています。

 西行法師は、崇徳上皇の霊を慰めるために讃岐に来て、曼荼羅寺の近く「水茎の丘」に庵を結び、7年余り暮らしていたそうです。よくこの寺に通い、本堂前には「西行の昼寝石」があります。

si22-8.jpg 73番・出釈迦寺の門前からは、讃岐らしいきれいな山が見えます。これが我拝師山(がはいしさん)です。

 弘法大師が“真魚”と呼ばれていた7歳の時、この山に登り「私は将来仏門に入り、仏の教えを広めて多くの人を救いたい。私の願いが叶うなら釈迦如来よ、姿を現したまえ。もし叶わぬのなら一命を捨ててこの身を諸仏に捧げる」と、断崖絶壁から身を投じました。すると、紫色の雲が湧き、釈迦如来と羽衣をまとった天女が舞い降り、雲の中で弘法大師を抱きとめました。

 命を救われ、願いが叶うことを示された弘法大師は、青年になって我拝師山の山頂で虚空蔵菩薩像を刻んで安置し、堂宇を建てたといいます。この場所は「捨身ヶ嶽禅定」といわれ、元はここが札所だったそうです。今は寺の奥の院となっています。境内から50分ほど山登りしなければいけません。弘法大師が身を投じた場所は、そこからさらに100mほど登った場所だとされています。

 74番・甲山寺(こうやまじ)の周辺は、弘法大師が幼い頃に、愛犬をつれて歩いたりして遊んだところだといわれます。

 善通寺へ向かう道沿いに、甲山という小高い山があります。甲山寺はその山の裏側にあり、山門を入ると正面が本堂、左に大師堂、鐘楼、毘沙門天の岩窟、右に護摩堂、庫裡があります。

 大師が善通寺と曼荼羅寺の間に伽藍を建立しようと、その霊地を探していたら、甲山の麓の岩窟から老翁があらわれ、暗示を受けました。大師は喜び、石に毘沙門天の尊像を刻んでその岩窟に安置し、供養したそうです。

 その後大師は弘仁12年(821)、満濃池築造の別当に任ぜられて当地へ赴任しました。大師は甲山の岩窟で修復工事の完成を祈願し、薬師如来像を刻んで修法しました。すると、大師を慕って数万の人々が集まり、力を合わせてわずか3ヶ月で工事を完成させたそうです。朝廷からその功績を称えられ、金2万銭を与えられた弘法大師は、一寺を建立し、先に刻んだ薬師如来を本尊として、甲山寺と名づけたといいます。

si22-6.jpg 75番・善通寺は観光地にもなっている大きな寺です。東と西の区画に別れていて、東は伽藍であり、西は弘法大師の生誕にかかわる場所になっています。

 善通寺は、境内から白鳳、奈良時代にさかのぼる古瓦が出土していて、佐伯一族の氏寺として弘法大師の時代よりもずっと古くからあったのではないかと推定されますが、由緒によれば、大同2年、唐から帰って来た大師が、地元の豪族であった父・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)から土地の寄進を受け、建立を始め、弘仁4年(813)に落成したとされています。寺号の善通寺は、父の法名である善通から採られ、山号の五岳山は周囲に5つの山があることによるそうです。

 寛仁2年(1018)の文書では、善通寺は東寺の末寺であり、すでに「弘法大師御建立」あるいは「大師御霊所」と言い伝えられていたようです。

 平安後期に広まった弘法大師信仰により、鎌倉時代に入って、天皇や上皇から荘園などの寄進を受けて隆盛を迎えました。建長元年(1249)には誕生院が建立され、東の伽藍、西の誕生院という現在の形式が出来上がったようです。鎌倉時代の善通寺は、東寺、随心院、大覚寺、再び随心院と本寺が変転しますが、室町時代には足利氏の庇護を受けつつも、独立した寺になっていったようです。

si22-7.jpg 永禄元年(1558)、三好実休の兵火で伽藍を焼失しますが、天正16年(1588)、生駒親正から28石、生駒一正から35石の寄進を受けたことなどで立ち直ります。

 近世には高松・松平家や丸亀・京極家の庇護を受けて大いに栄えました。残された絵図類などから、金堂や五重塔などを再建する一方、西院の御影堂を中心に施設を充実させ、19世紀前半にはほぼ現在の姿になっています。

 駐車場から石橋を渡って境内に入ると、ビルマ戦没者慰霊のパゴダや、新しい宝物館などがあります。この付近に佐伯家の屋敷があって、そこで弘法大師が生まれたとされています。

 どんどん歩いて西院を抜けるところの堀には、色とりどりの睡蓮が咲いていました。東院には工事中でしたが立派な五重塔がそびえています。五社明神の大楠は入道雲のように空を覆っていました。

 帰りに、宝物館に入場しました。彼女は最近、仏像に興味をもっているのです。内部は撮影禁止だったようですが、気付かずに何枚か撮影してしまいました。

 76番・金倉寺(こんぞうじ)の境内は、弘法大師の甥で天台宗寺門派の開祖・智証大師が誕生した地といわれます。

 縁起によると、弘法大師が生まれた宝亀5年に智証大師の祖父・和気道善が建立し、「自在王堂」と名づけました。仁寿元年(851)に官寺となり、その際に「道善寺」と改名されました。その後、唐から帰朝した智証大師が唐の青龍寺にならって伽藍を造営、薬師如来を刻んで本尊としました。延長5年(928)、醍醐天皇の勅命で、地名の金倉郷にちなみ金倉寺となったそうです。

 智証大師は子供の頃、日童丸と呼ばれたいそう賢いと評判でした。2歳の時には、一人で遊んでいる幼い体からなんとも言えない後光が射しているのを付近の人々が見たといわれています。また、5歳の時に目の前に天女が現れ、「貴方は三光天の一人、明星天子であり、虚空蔵菩薩の仮の姿。貴方が将来仏道に入るなら私がずっとお守りしましょう」と告げたという伝説もあります。この天女は、他人の子供を食べた罪でお釈迦様に我が子を奪われ、後に仏になったという「訶利帝母(かりていも)」、別名「鬼子母神」だったそうsi22-9.jpgです。

 本堂の前に金ぴかの大黒様が立っています。何か異様な気がしますが、これは金箔つきのおみくじ(300円)を引いた者が、その金箔を七福神に転写するとご利益があるとのことで、転写した結果こうなったのだそうです。

 77番・道隆寺の仁王門をくぐると、ブロンズの細っそらとした観音さまがずらりと並んでいます。225体あるそうです。

 この付近一帯は、かつて広大な桑園で、絹の生産地であったそうです。桑の大木が夜ごと妖しい光を放っているのを見て、この地の領主・和気道隆が矢を射ると、女の悲鳴があがり、乳母が倒れて死んでしまいました。驚いた道隆は、その桑の木で仏像を彫り、草堂に安置して供養すると、不思議にも乳母が生き返ったといいます。この草堂が道隆寺の始まりといわれます。

 大同2年、道隆の子・朝祐は唐から帰朝した弘法大師に願い、薬師如来像を彫造してもらい、その胎内に父・道隆の像を納めて本尊としました。朝祐は大師から授戒をうけてその住職となり、自らの財産を寺の造営にあてて七堂伽藍を建立しました。創建した父の名をとって「道隆寺」としました。

 第3世住職は弘法大師の実弟にあたる真雅僧正で、23坊を建立しました。第4世は智証大師、第5世は理源大師だそうです。高僧が相次いで住職を勤め、寺勢は大きく栄えましたが、貞元年間の大地震により堂塔が倒壊しました。康平3年(1060)、さらに天正の兵火にも遭い、興亡をくり返してきたそうです。

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 この付近は、弘法大師の出身地ということで、多くの札所が集中しています。一気に13の札所を巡ることができました。また、お大師さまの子供の頃や、一族の事績が物語られていて、他の地域とはまた違った雰囲気がありました。

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2016年08月01日

お四国さん 21

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 雲辺寺のロープウェーを降りて、萩原寺の付近まで引き返し、国道に出て少し北へ行ったところに67番・大興寺への参道があります。

 大興寺は、東大寺の末寺として建立されたといわれます。後に弘法大師が熊野3所権現の道場として再建したそうです。現在は真言宗ですが、かつては天台宗と共存していました。大師堂の他に天台大師堂があります。ご本尊は薬師如来です。地元では小松尾山の山号で親しまれているそうです。

 山門を入ると長い階段があって、樹齢1200年余といわれるカヤの古木は県指定の自然記念物となっています。正面が本堂で、左に大師堂があり、右は天台大師堂です。四角い池があって、中央にお地蔵さんが立っていました。

si22-2.jpg 68番・神恵院(じんねいん)と、69番・観音寺は同じ境内にあります。山号はともに七宝山となっています。ついでに言うと、70番・本山寺も七宝山です。地図をみると、北方に実際に七宝山系という山脈があり、そこの二つの峯が七宝山と同じ名で呼ばれています。

 大宝3年(703)、琴弾山で修行していた日証上人が八幡大菩薩の乗った船が近くに漂着したのを見つけ、里人とともに船を山頂に運び揚げ、祀ったと伝えられます。その時、船の中から琴の音がしていたことから「琴弾八幡宮」とされました。同時に神宮寺も建立されました。

 大同2年(807)、四国を行脚中の空海が参拝し、琴弾八幡の本地仏である阿弥陀如来の像を描いて本尊とし、琴弾山神恵院として第68番札所に定めたといいます。これは、別に寺院を建てたのではなく、実態としては、琴弾八幡宮が札所になり、神恵院・院主が居住し、神職を兼ねていたのだと思われます。かつて、歴代院主は、外出の時には常に駕籠を用いるほどの羽振りであったといいます。

 一方、神宮寺は同じ頃に、弘法大師が住職となり、聖観音菩薩を刻んで本尊とし、名を観音寺と改めて69番の札所になりました。

 明治の神仏分離で、神恵院は琴弾八幡宮と区分され、68番札所というだけになってしまいました。御本尊のほかに寺領寺財もなく。檀家もなかったので、収入は納経料のみとなり、院主は生活にも困窮しました。寺を維持できなくなり、ついに69番札所の観音寺の西金堂を神恵院本堂として、そこに本尊を移すことになりました。一つの寺院の境内に札所が二つあるという、他に類を見ない結果になりました。現在は、四角いコンクリートの神恵院本堂が建てられ、西金堂は薬師堂となっています。

si22-3.jpg 財田川に沿って、70番・本山寺に向かう途中、「かなくま餅 福田」という店で昼食を食べました。この店は、餡入り餅を入れたうどんが名物です。讃岐にはお雑煮に餡入り餅を入れる地域があることから、うどんに入れても不思議ではないのでしょう。妻はこれを食べて、「おいしかった」と言います。私はただのきつねうどんを食べました。

 本山寺がこんなに広大で豪壮な寺であったとは知らなかったので、少し驚きました。国宝の本堂、それにも負けていない古い五重塔、小ぶりですが八脚門の仁王門も国の重要文化財です。十王堂も立派な建物でした。檜皮葺きの鎮守堂は県指定の文化財で、珍しい善女竜王像を祀っています。ご本尊が馬頭観音菩薩というのも珍しい。

 本山寺は、大同2年に弘法大師が一夜にして本堂を建立したといわれています。当時は「長福寺」という名であったそうです。現在の本堂は正安3年(1301)、京極佐々木氏の寄進によって建てられたもので、昭和30年に修復工事が行われています。

 天正年間、長宗我部元親が讃岐に攻め入った時、当時の住職が兵を押しとどめようとして斬られました。すると、阿弥陀如来の右ひじから血がしたたり落ち、これに驚いた兵が退去したため、寺は兵火を免れたそうです。

 満蒙開拓団の碑がありました。三豊地区から3団1100余名が牡丹江省五河林の開拓に出発し、ソ連参戦の時に300余名の犠牲を出したとあります。碑の後ろに拓魂堂と名付けたお堂が建てられていました。

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2015年02月05日

お四国さん 19

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 49番・浄土寺は、縁起によると、天平勝宝年間に、恵明上人が、行基の彫った釈迦如来を本尊として開創したそうです。法相宗の寺でしたが、後に弘法大師が再興し、真言宗に改めたといわれます。

 建久3年(1192)、源頼朝が一門の繁栄を祈願して堂塔を修復しましたが、応永23年(1416)の兵火で焼失し、文明年間(1469〜87)に領主・河野道宣によって再建されました。

 境内に、正岡子規の句碑があります。「霜月の空也は骨に生きにける」。空也上人は平安中期、ここ浄土寺に3年間滞在し、村人たちの教化に努め、親しまれたといわれます。明治29年12月刊の雑誌「太陽」に掲載された冬の句だそうで、書は森白象とあります。

 森白象は明治32年(1899)、重信町(現・東温市)牛渕に生まれました。彼が高野山大学の学生であった昭和2年、日本文学夏期大学が高野山で開催され、講師に高浜虚子が招かれました。それが縁で虚子に師事し、俳句誌「ホトトギス」に投稿を続けました。僧名を寛紹といい、昭和55年に高野山真言宗管長・金剛峯寺第406世座主に就任しました。平成6年に96歳で亡くなっています。

 48番・西林寺へ向かう途中、コーヒー館・天秤でハンバーグのランチを食べました。食後のコーヒがおいしかった。

 西林寺は天平13年、行基が国司・越智玉純の助力を得て、本尊に十一面観音菩薩像を彫造して、一宮別当寺として建立したそうです。場所は松山城近くの播磨塚付近で、「徳威の里」と言われています。しかし、付近に一宮らしき神社もなく、地名も残っていません。

 大同2年(807)、弘法大師が逗留し、国司・越智実勝の協力で現在の地に移したそうです。大師は錫杖を突き、清水の水脈を見つけ、寺の西南300mにある「杖の淵」がその遺跡とされています。昭和60年の「全国の名水百選」に選ばれています。

 寺は寛永年間に焼失しましたが、元禄13年(1700)に松山藩主・松平隠岐守らの手により一部が修復されました。

 隠岐守は、今治藩主・松平定時の長男でしたが、松山藩主の養子となり、家督を相続しました。藩の財政を立て直し、俳諧をたしなみ、その興隆に貢献したといわれます。赤穂事件では浪士10名を預けられ、大願成就を讃えたそうです。

 宝永4年(1707)には、覚栄法印が雨乞い祈願を成就して、松山藩の寄進により本堂と鐘楼が再建されました。江戸末期には大師堂と仁王門が建てられています。

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 水子地蔵さまの後ろに5体の人形が祀られていました。事情は分かりませんが、その色彩がなんとも痛ましい。

 重信川の橋を渡りました。前方(南方)には、先月訪ねた久万高原に続く山並みが見えます。

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 47番・八坂寺は、役行者小角が開基したと伝えられます。大宝元年、国司・越智玉興が堂塔を建立したそうです。八つの坂道を切り開いて創建したことから、それが寺の名となったらしい。

 弘仁6年(815)、弘法大師が荒廃した寺を再興したそうです。本尊の阿弥陀如来坐像は、浄土教の恵心僧都源信の作と伝えられます。

 中世に熊野信仰が盛んとなり、熊野権現が分霊され、十二社権現を祀る宮が建てられました。修験道の拠点となったらしく、そのためか、石手寺と八坂寺は山号が「熊野山」となっています。熊野信仰は、四国88ヶ所の成立に深く関わっているようです。

 ここにも森白象の句碑があります。「お遍路の誰もが持てる不仕合」。白象の三男が亡くなり、遺骨を携え四国巡礼に出た時に詠んだもので、昭和35年の作だそうです。

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 納経所の前に、同じ模様の猫が3匹遊んでいました。「子猫の里親募集しています」と表示があります。すでにもらわれていった猫の写真には花丸が書かれていました。

 駐車場の近くに「いやさか不動」があり、毎年4月29日に柴燈大護摩供火渡り修行が行われています。また、近くには衛門三郎の八人の子を埋葬した八塚があります。

 46番・浄瑠璃寺は、和銅元年に行基がこの地を訪れ、白檀の木で薬師如来像を彫って本尊とし、建立したとされます。寺名は薬師如来がおられる瑠璃光浄土に因んだそうです。

 室町時代末期に足利幕府の武将、平岡道倚(みちより)が病に苦しみ、本尊に祈願したところ、全快したことから、厚く帰依し、寺を再興しました。

 正徳5年(1715)に山火事で焼失しましたが、地元の庄屋・井口家から住職になった僧・堯音が托鉢をしながら全国を行脚して浄財を募り、天明5年(1785)に現在の諸堂を再建しました。堯音は、その後も托鉢を続け、岩屋寺から松山市にいたる土佐街道に8つの橋を架けたそうです。

 境内には樹齢1000年くらいのイブキの木が3本あって、松山市の天然記念物に指定されています。

 このあたりは河野衛門三郎のふる里として知られています。「永き日や衛門三郎浄瑠璃寺」と、子規の句碑があります。

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 本堂に「魂の転生」と題する額がかけられています。何気なく読むと、私の常識とは違っていました。「断末摩」、「三途の川」、「閻魔大王」、「六道輪廻」といった意味を正確には知らなかったのです。詳細を書くと長くなるし、さほど意味があるとも思えないのでやめときます。

s10-f.jpg 愛媛県ではあと65番・三角寺を残すだけとなりました。時間的に余裕があったので、帰りに西条インターで松山道を降りました。彼女の目的は「星加のゆべし」でした。

 慶応年間、星加勇蔵が、柚子をくり抜き砂糖、白味噌、柚子、米の粉、餅の粉を混ぜて蒸した丸ゆべしを西条藩主に献上し、星加勇蔵商店を創業したそうです。私の知ってる柚べしは、柚子の皮を細く切って甘く煮つめて、ご飯に載せて食べる料理ですが、「星加のゆべし」はお菓子でした。

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2014年12月07日

お四国さん 18

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 翌日、再び今治市街に入り、瀬戸内海を見ながら今治街道を53番・円明寺に向かいました。彼女は以前に来た時に立ち寄った喫茶店を探していました。「これだこれだ」と言ったのは「喫茶・アイビーハウス」でした。

 道の駅・風和里に立ち寄りました。私はここで黒打ちの小庖丁を見つけて買いました。土佐の庖丁だと思います。

 53番・円明寺は松山市和気町の町中にあります。天平勝宝元年、行基によって創建されたといわれます。当時は海岸にあって、その名も「海岸山・圓明密寺」と言ったそうです。兵火に焼かれ、荒廃していましたが、江戸初期(元和年間)に土地の豪族・須賀重久によって現在地に移されたそうです。さらに、寛永13年(1636)にやはり須賀氏によって再建され、仁和寺の末寺となり、須賀山円明寺と改められました。

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 大正13年、シカゴ大学のスタール博士が四国遍路をしていて、寺の本尊・阿弥陀如来像を安置している厨子に打ち付けてあった銅板製納札を見つけました。これには「慶安三年京樋口 奉納四國仲遍路同行二人 今月今日平人家次」とありました。

 それまでは「辺路」と書かれていたのが、ここでは「遍路」となっています。「同行二人」は、実際に2人でやって来たという意味だと思われます。樋口家次は、伊勢出身の材木商で江戸に住んでいましたが、後に京都に移りました。100観音巡礼、66部廻国、四国88ヶ所を巡り、各地に納札や石仏造立、梵鐘奉納などをした記録が残っているそうです。

 ライトアップされた内陣を撮影しました。左甚五郎の龍が飾られているというので撮影したのですが、渦巻く雲の模様しか見えません。

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 52番・太山寺はそのすぐ近くですが、こちらは山の中です。大きな駐車場に車を停めて、寺の建物が見えるのでそこだと思ったのですが、そうではなく、しばらく坂道を登ります。途中でカメラを車の中に置いてきたことに気が付いたのですが、「まあいいか」とそのまま山門に入りました。

 用明2年(586年)、豊後国臼杵の真野の長者という者が船で難波に向かう途中、大嵐に遭遇し、高浜に漂着しました。長者は観音様の導きのおかげと感謝し、豊後に引き返して工匠を集め木組みを整え、高浜の港に戻り、一夜にして寺を建立したといいます。

 その後、天平11年(739年)、行基によって本尊の十一面観音が安置され、天平勝宝元年(749年)には孝謙天皇が十一面観音を勅納して伽藍を現在の地に整えたと伝えられます。十一面観音像は7体あるそうです。

 現存の本堂(国宝)は、嘉元3年(1305年)に伊予国守護河野氏によって再建されたもので、県内最大の木造建築だそうです。思いのほか立派な寺で、カメラを持ってこなかったことが残念でした。

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 三津浜に抜けて、松山市街に入り、ナビを頼りに松山城の北側を通って道後温泉を通り過ぎ、51番・石手寺に到着しました。

isite.jpg 山の上に巨大なお大師様が見下ろしていました。門前には龍に乗った観音様、ケースに入ったインド風の仏様、衛門三郎の石像、そして「集団的自衛権不要」の立て看板が並んでいました。参道の両側には小屋掛けの店が並び、参拝者でにぎわっていました。

s18-6.jpg 石手寺は、和銅5年(712)に伊予の大領越智玉興(越智姓は河野家の祖)が建立したといわれます。お寺の縁起によれば、神亀5年(728)に越智玉純が、熊野12社権現を祀ったのが始まりとされています。境内から出土した瓦から、石手寺の前身はもっと古く白鳳時代ではないかともいわれます。

 天平元年(729)、行基が薬師如来像を彫造して本尊として祀り、法相宗の「安養寺」としたそうです。

 衛門三郎再来の説話から、寛平4年(892)に安養寺を「石手寺」に改めたとされています。衛門三郎の伝説は以前に「ハタダのお菓子」で紹介しているので省略しますが、この説話は、お大師様を信仰の対象とした因果応報の物語です。現在につながる四国遍路の始まりを表す物語だと言われます。

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 元々の四国遍路は、僧や修験者による「辺路修行」であり、弘法大師は偉大な先達の一人として尊敬されていたでしょうが、信仰されていた訳ではなかったと思われます。それが、お大師様に救済を願う大衆の巡礼旅に変わっていったのです。衛門三郎の説話は、長い期間をかけて形作られてきたようで、最終的には、お大師様が88ヶ所を定めたという設定になっています。

 重要文化財の三重塔には、「スマトラ沖地震救済」「東日本大震災鎮魂祈回復断原発」「ビルマ四川省災害追悼」「イラク侵攻並あらゆる戦争暴力犠牲者各靈」といった大札が並んでいて、他の札所にはない現在との関わりを感じさせます。

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 50番・繁多寺は松山市を見下ろす淡路山の中腹にあります。石手寺がにぎやかなだけに何だかゴタゴタしていたこともあってか、ここはとても静かで落ち着きがあるように感じられました。景観樹林保護地区に指定されているだけあって、樹々が美しい。

 縁起によると、行基が3尺の薬師如来像を彫造してご本尊とし、開基したとされています。当時は光明寺と称したそうです。後に弘法大師が逗留した際に「東山・繁多寺」と改め、霊場としたそうです。

 その後、寺は衰微しましたが、伊予の国司・源頼義や僧・堯蓮らの手で再興されました。弘安2年(1279)には、勅命を受けた聞月上人が蒙古軍の撃退を祈祷したそうです。また、一遍上人が青年期に参籠して修行したといわれます。一遍は晩年の正応元年(1288)、亡父が所蔵していた浄土三部経を奉納したそうです。

 天皇家の菩提寺である京都・泉涌寺とのゆかりが深く、応永2年(1395)には勅命により泉涌寺26世・快翁和尚が、繁多寺の住職となっています。こうした縁から、寺には16弁の菊のご紋章がついた瓦が使われたそうです。

 江戸時代には徳川家の帰依をうけ、4代将軍・家綱が念持仏としていた3体のうちの歓喜天を祀ることになるなど、末寺100余を有する大寺として栄えました。

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2014年11月24日

お四国さん 26 高野山

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 先週、四国88ヶ所を回り終えました。そして11月22日は高野山です。阪急交通のバスツァーに申し込みました。

 海部観光のバスで松茂を出発。おにぎりとお茶の朝食が付いています。淡路島を経て本土に渡り、大阪湾岸線を通って泉南市から和歌山県に入りました。道の駅・根来さくらの里で休憩し、紀ノ川を遡ります。かつらぎ町から国道480号を通って高野山トンネルを抜けると、くねくねと折れ曲がった山道となり、まもなく高野山の町に着きました。

 一の橋観光センターで昼食。豚肉の湯通しとエビの天ぷらが加わってはいますが、基本的には精進料理でした。この店で以前に食事をしたことがあると思うのですが、それがいつのことだったか思い出せません。

 バスで中の橋まで移動して、そこから奥の院に向かいました。奥の院は巨木の中にある壮大な墓地です。ガイド付きの団体行動なので、好き勝手に見学はできません。

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 御廟橋からは弘法大師の墓域なので撮影が禁止されています。御廟は拝殿の裏にあります。狭い廊下の途中ですから参拝客でごった返していました。その中で般若心経と光明真言を唱えました。

 般若心経は、この世は幻想だと言い、また仏の教えも幻想であり、涅槃はないと断じます。私はそこが気に入っているのです。この世の全てを解き明かすものがあるとすれば、それは現実に閉じ込められた人間が想像もできない異次元の何ものかであり、到達できないものと思います。

 もっとも、般若心経は、素晴らしい呪文があるのでこれを唱えよ「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」ということで終わっています。そこから道が開けるというのでしょうか。

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 妻の掛け軸は添乗員さんが、他の分とまとめて御朱印を受けてくれました。拝殿の地下には5万体もの小さなお大師様が奉納されています。すべて管理番号と氏名が表記されていました。

 観光センターで土産物を買う時間が組まれていて、私は「おいしそうだ」と思って「とち餅」を買いました。彼女は職場に味見してもらおうと「ごま豆腐」を買っていました。

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 すく゜近くにある赤松院を拝観しました。宿坊のひとつで、廷長元年(923)に聖快阿闍梨が創立し、山本坊と云われていたそうです。元弘元年(1331)、赤松円心が護良親王をここにかくまったそうです。護良親王は天台坐主でしたが、後醍醐天皇の倒幕計画に加わろうとしてこの年還俗しました。しかし、計画は失敗して幕府に追われていたようです。山本坊は、赤松家一族の菩提所となり、以後赤松院と改めたそうです。

 本堂に本尊十一面観世音菩薩ほかの仏像がならべられていて、順番にお焼香をしました。左甚五郎作の虎の彫刻がありました。力作ではあるものの、作者はおそらく虎を見たことがないのでしょう。虎に見えないのです。

 バスで金剛峯寺に移動し、本堂前で再び般若心経と光明真言を唱えました。彼女が初めて合わせてくれました。彼女が「一緒に行こう」と誘ってくれたのを「ありがたい」こととして、88ヶ所を巡り、御朱印も受けず、誰かの供養をする訳でもなく、お賽銭もろくにせず、何のお願いもせず、ただ、お経を唱えてきました。

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 時間があれば、靈宝館に立ち寄りたかったのですが、無理なようなので、紅葉した道を少し歩いて壇場伽藍に行き、開いていた根本大塔に入りました。金色に輝く大日如来が座り、周りには金剛界の四仏が取り囲み、柱には堂本印象画伯の筆による十六大菩薩が描かれています。堂内そのものが曼荼羅を構成しているそうです。

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2014年11月20日

お四国さん 23

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 11月15日、午前6時前にコーヒを一杯飲んで出発しました。彼女が府中湖パーキングのうどんを食べるというので、朝食は作らなかったのです。しかし、パーキングに到着したのは午前7時前で店は開いていませんでした。「コンビニでおにぎりでも買おうか」と言って、とにかく、78番・郷照寺を目指しました。

 坂出ジャンクションから瀬戸中央道に入り、坂出インターで降りて、ナビまかせで宇多津町に着きました。そこで開いているうどん屋さんに出くわしたのです。「大空」といって、産直市うたづの前で午前6時からやってました。釜揚げを注文して満腹になりました。この店は「産直市」内の鮮魚店がやっているそうで、おいしい魚の天ぷらが人気のようでしたが、早朝だったので、うどんしか食べる気がしなかったのです。

 郷照寺は、奈良時代に行基によって開創され、「道場寺」と称したといわれますが、その後、一遍上人によって中興され、寛文4年(1664)に再建された時の住職は時宗の浄阿上人でした。この間、ずっと時宗と関係があったのかもしれません。そんなことから、真言宗と時宗の共同霊場となったそうです。ご本尊は阿弥陀如来です。

 地下室にある万体観音堂に入ってみました。すごい数の金色の観音様が安置されていました。また、常盤明神というのがあって、この寺を守ったという狸が祀られていました。

 郷照寺を終えると、88ヶ所も残すところ10ヶ所となりました。順調にいけば今日が結願となる予定です。土曜日ですが、観光バスによる団体の巡礼は見当たりません。

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 次は79番・天皇寺。赤い三輪鳥居が立っています。入った正面は崇徳上皇を祀る白峯宮です。

 崇徳上皇は父の鳥羽上皇から出生を疑われ、5歳で天皇に即位しますが、23歳で弟に譲位させられました。自分の子を天皇に即位させて院政を施くことが政治の実権を握る方法でしたが、近衛天皇が17歳で崩御した後、様々の策謀のなかで後白河天皇〜守仁親王の皇位継承が決められ、その望みが無くなりました。

 後白河天皇と争うことになった保元の乱(1156)に敗れ、讃岐に流されました。流された崇徳上皇は、摩尼珠院の末寺であった長命寺本堂に居住したそうです。

 摩尼珠院は、行基によって開創され、弘法大師がご本尊の十一面観世音菩薩を刻んで安置したといわれます。この摩尼珠院が現在の天皇寺の前身です。

 崇徳上皇は、配流後も冷遇され、8年後の長寛2年(1164)に46歳で崩御しました。爪や髪を伸ばし続け夜叉のような姿になり、生きながら天狗になったとも言われ、あるいは、暗殺されたともいわれます。朝廷はその死を無視しました。

 安元3年(1177)頃、後白河院の周辺に不幸や、不穏な事件が頻発したことから、崇徳上皇の怨霊が話題になり始めました。寿永3年(1184)になって、後白河院は怨霊鎮魂のため保元の宣命を取り消し、崇徳上皇の名誉を回復させました。

 後嵯峨天皇(在位1242〜46)が、上皇の霊を鎮めるため現在地に崇徳天皇社を造営し、摩尼珠院を永世別当職に任じ、移転させました。

 明治になって、神仏分離令により摩尼珠院は廃寺となり、天皇社は白峯宮とされ、摩尼珠院主が初代神官となったそうです。明治20年、筆頭末寺であった高照院が当地に移り、金華山高照院天皇寺としてお寺を復活させました。

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 次は80番・国分寺です。山門の前から蓮光寺山が眺められます。讃岐平野にはこういったきれいな紡錘形をした山がぽつぽつとあって独特な風景となっています。蓮光寺山の背後には五色台の溶岩台地が拡がっているのですが、ここからは見えません。

 讃岐の国分寺は、古代の国分寺の境内の中にあります。山門は元の中門跡に建ち、本堂の位置は講堂跡だそうです。昭和58年から9年かけて発掘調査が進められ、全貌が明らかにされています。一部は復元され、資料館も建てられました。

 梵鐘は創建当時に鋳造されたものといわれ、伝説に彩られて国の重要文化財に指定されています。本堂も鎌倉中期の建築で、やはり重要文化財です。ご本尊の十一面千手観音菩薩像は、ケヤキの一木造りのいわゆる丈六仏です。実際にはそれよりも高く、5.7mもあるそうです。初代高松藩主・松平頼重が大きな厨子を寄進し、その中に納められています。

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 蓮光寺山をぐるっと迂回して、五色台に向かいました。五色台はかなり広大な台地で、香川県を東西に分けています。赤峰、黄峰、黒峰、青峰、白峰と名付けられた五つの峰があることから五色台とされています。その白峰に81番・白峯寺があります。弘法大師とその妹の子と言われる智証大師によって創建されたと伝えられています。ご本尊は千手観音菩薩です。実際は山岳仏教の霊地であったと思われます。

 最初に、本堂と思って般若心経をとなえましたが、これは「頓証寺殿」でした。崇徳上皇は、白峰山で荼毘にふされ、陵墓が造られました。その後、建久2年(1191)に陵墓近くに御廟所が建立されました。これが頓証寺です。

 上皇は長命寺と思われる雲井の御所で3年を過ごし、その後、国府のすぐ近くの鼓岡(つづみがおか)の木ノ丸殿(このまるでん)に移りました。御廟所はこの木の丸殿を移築したものといわれています。応永21年(1414)には後小松天皇が自筆の額を奉納しました。

 慶応4年(1868)、明治天皇は自らの即位に際し、崇徳上皇の御霊を京都へ帰還させるために白峯宮を創建しました。父の孝明天皇の遺志であったといわれます。明治元年に白峰頓証寺の御神霊の僧形の御肖像一幅と、御遺愛の笙(しょう)一管を、神輿に納めて移したそうです。後に淡路の淳仁天皇の神霊も迎えて合祀し、昭和15年(1940)には官幣大社に昇格し、白峯神宮となっています。

 一方、頓証寺は、神仏分離令によって陵墓が宮内庁に属すことになったため、存在意義も収入も失い、明治6年には当時の住職が還俗して御陵の陵掌に転じ、無住職の状態となりました。さらに明治11年、「頓証寺」は「白峰神社」と改称され、金刀比羅宮 の境外摂社とされました。宝物等も同宮へ引き渡されました。長い係争を経て明治31年に復活しましたが、宝物は一部しか返還されなかったようです。

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2014年11月13日

お四国さん 17

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 54番・延命寺は、養老4年(720)に行基が不動明王像を彫んで開創したと伝えられ、標高244mの近見山の山頂一帯に伽藍があったそうです。弘仁年間に弘法大師が訪れて再興し、「不動院・圓明寺」と名付けたとされます。

 再三火災に遭っては再建を繰り返していますが、ご本尊は常に難を逃れたことから「火伏せ不動」と呼ばれます。享保12年(1727)に山麓の現在地に移転しました。

 この付近は縣村(あがたむら)と言って、江戸期には、今治藩ではなく松山藩に属していました。縣村庄屋・越智孫兵衛は、「7公3民」の重税にあえぐ農民のために減税を成功させ、享保年間の大飢饉でも餓死者を出さなかったといわれます。死後、圓明(延命)寺に葬られ、約300年経った今でも毎年慰霊祭が行われているというのは凄いことだと思います。

 明治になって、53番と同じ名前で紛らわしいので、以前から俗称とされてきた「延命寺」に改められました。今治城取り壊しの際には、城門の一つを譲り受けて、現在の山門としました。

 明治22年(1889)の町村制施行に伴い、宅間、延喜、野間、神宮、矢田、山路、阿方の7ヶ村が合併して乃万村となりました。明治30年に野間郡は越智郡に併合されて無くなり、乃万村は昭和30年(1955)に今治市に編入されました。

 山門の前に鐘つき堂があって、近見二郎と名付けられた梵鐘があります。宝永元年(1704)に鋳造され、寺の歴史が刻まれていて、市の有形文化財になっています。戦時中の供出を免れ、現在は引退して三郎に業務を譲っていますが、大晦日に除夜の鐘だけ撞かれるそうです。初代の鐘・太郎は、海に沈んだそうです。

 また、四国で2番目に古い真念の道標が残されています。真念法師は「四国遍路の父」とも評されます。貞享4年(1687)に「四国辺路道指南(へんろみちしるべ)」というガイドブックを出版し、初めて札所に88番までの番号をつけました。文庫本ほどの大きさで携帯できることもあって、ベストセラーとなり版を重ねました。

 自らも20回以上巡礼し、寄進を募って遍路宿を建て、標石を設置して、遍路道を整備しました。その途中、讃岐で亡くなったようです。土佐の人といわれますが、大阪を拠点として、四国88ヶ所巡拝の姿をまとめて、広く全国に普及させました。さらに「四国遍礼霊場記」「四国遍礼功徳記」を出版し、今日ある大衆的四国遍路を確立させたといえます。

 本日最終の目的地である55番・南光坊に着いたのは午後3時頃でした。境内の中央に車道が通っていて、その周囲が駐車場になっています。

 新しくて立派な鐘楼門があるので近づいてみると、そこには仁王さまではなく、鎧を着た四天王が立っていました。四天王門というのは初めて見ました。

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 南光坊は、大三島にある大山祇神社の中にあった僧坊の一つでした。大宝3年(703)に越智玉澄が日吉郷に別宮(地御前)を勧請し、和銅5年(712)に社殿が造営されました。

 正治年間(1199-2000)に、大山祇神社にあった24の僧坊のうち、南光坊を含む8坊が別宮に移され、別当寺として大積山光明寺と称しました。その頃は、大三島の大山祇神社が札所でしたが、これにより別宮大山祇神社(光明寺)が札所となりました。

 天文20年(1575)、落雷で社殿が炎上し、天正3年(1575)に来島通総により再建されました。それもつかの間、僧坊8坊は長宗我部氏の軍勢により焼き払われました。なぜか南光坊のみが再建されて、別宮の別当寺となり、その後は歴代今治藩主の保護を受けました。

 明治初年の廃仏毀釈で、神社にあった大通智勝如来が脇侍とともに南光坊薬師堂に遷されてご本尊とされ、別宮と分離されました。昭和20年の空襲では、寺も神社もほとんど焼失しましたが、大師堂と金比羅堂が焼失を免れました。

 ぽつんと芭蕉の句碑があり、「ものいえば唇寒し秋の風」。ていねいに「前書に『座右銘』人の短をいうことなかれ、己の長を解くことなかれとある」と説明書きがあります。しかし、この句は、春秋左氏伝の「脣亡歯寒」の表現を借りて、憂鬱な秋の一時を描いたものではないでしょうか。

 参拝を終えたのは午後3時半、まだ時間に余裕がありました。彼女はタオル美術館に行きたいと言います。「ナビに打ち込めば良いじゃないか」ということで、そこに向かいました。

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 タオル美術館というのは、タオルメーカーの一広株式会社が2000年にタオル美術館ASAKURAとして建設したもので、2005年に所在地の朝倉村が今治市に編入されたため、名称をタオル美術館I CHIHIROに変更しました。

 1万坪の「ヨーロピアンガーデン」を持つ5階建てで、建物自体も1万坪あるそうです。タオルの物販コーナーから、四国瀬戸内物産コーナー、フォション社の紅茶を味わえるミュージアムカフェに加え、新創作中国料理の「王府井」も併設されています。

 有料の美術館は、入口近くにタオルの生産が実機を使って実際に行われていました。その後はトーベ・ヤンソン生誕100年を記念したムーミンの世界展、さらにATSUKO MATANOの作品展、ジュディ・オングの木版画展示と続きます。結構見応えはあります。

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 カフェで派手なトッピングをしたフレンチトースト、というよりケーキに近いのを食べて、コーヒーを飲み、休憩してから、ホテルアジュール 汐の丸に向かいました。

 ホテルで紹介された居酒屋で夕食を食べることにして、ナビに電話番号を入れて出発しました。ところが、着いた所は暗い住宅街で、それらしい店は見当たりません。近所の人に尋ねると、そこから1km以上離れた場所であることが分かりました。電話番号が間違っていた訳でなく、理由は謎です。焼き鳥を頼んで焼酎のロックを飲みました。

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2014年11月08日

お四国さん 20

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 11月5日の午前6時前に家を出ました。徳島道を走っているうちに夜があけました。三好市に入った頃には明るくなっていましたが、低い雲が山肌を這っていました。まもなく、辺りは霧につつまれました。池田サービスエリアで休憩し、カンコーヒを飲みました。寒かった。

s1105-2.jpg 三島川之江インターを降りて、山道に入り、65番・三角寺に到着しました。彼女は狭い山道を覚悟していましたが、以前より道路が拡げられているようで、何の問題もありませんでした。

 太い杉の木立の中にある72段の真直ぐの階段を登ります。山門には鐘が吊り下げられていました。鐘楼門といえば、普通は2階に鐘楼があります。ところが、その楼が無くて門の天井に直接、鐘を吊っています。鐘つき門です。

 三角寺は天平年間に行基によって創建されたといわれます。後に弘法大師が訪れ、ご本尊の十一面観音を安置したそうです。大師は三角の護摩壇を築き、21日間に渡って秘法を修したといわれ、その跡に三角形の小さな池が残っています。三角というよりおむすび形をして、池の中央には弁天さんのお堂が建っています。

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 このお寺で、愛媛県は終了しました。海沿いの国道11号線に出て、香川県に入りました。観音寺市内から66番・雲辺寺のロープウェイ乗場を目指しました。途中に立派な土塀がありました。別格霊場の萩原寺です。

 弘法大師は千手観音菩薩と地蔵菩薩を刻み、千手観音菩薩を雲辺寺に安置し、地蔵菩薩を萩原寺に置いたそうです。萩原寺は後に細川勝元の祈願所となるなど、多くの末寺を持つ大寺となりました。昭和43年に番外霊場が集まって四国別格20霊場が創設されると、その16番となりました。88ヶ所と別格20ヶ所で、108の煩悩を鎮めようというのです。

 数百株の萩が植えられていて、これは県の自然記念物となっています。別名「萩寺」として有名で、毎年「萩まつり」が行われているそうです。

 雑草が目立つ寂しい山道を登っていくと、こんな所にロープウェイ乗場があるんだろうかと疑ってしまいます。が、ちゃんとありました。土産物の販売店もあるし、うどん店もあります。大きな駐車場には観光バスも停まっていました。

 ロープウェイは凄い距離を、凄い高さをゆらゆらと登っていきます。ため池のある観音寺市街とその向こうに瀬戸内海の海が見えます。7分で雲辺寺の境内に着きました。標高911メートルで四国霊場のなかで最も高い。

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 等身大の500羅漢さんが出迎えてくれました。この羅漢さんは中国福建省のものを模したもので、その多くは日亜化学創業者の小川信雄氏の妻・孝子さんが奉納しています。

 羅漢像もまだ新しいのですが、山門は木の香が匂うばかりの新しさで、コンクリート板の石段も併せて、「四国高野」というにはちょっと軽薄な感じがしました。

 雲辺寺は、延暦8年(789)に16歳の弘法大師が一夜で建立したといわれます。大師は大同2年(807)にも訪れ、秘密灌頂を修したそうです。さらに、弘仁9年(818)には、ご本尊の千手観音像を納めて霊場に定めたとされます。その後、俗に「四国坊」と呼ばれ、四国の僧侶たちの学問・修行の道場となり、時々の支配者からも厚く保護されました。

 妻は「おたのみなす」に座って、「お尻が冷たかった」と言います。何をお願いしたのか知りませんが、冷たくなるまで長いお願いをしたに違いありません。

 私は5鈷の取っ手が付いた鈴を買いました。以降、般若心経と光明真言を称える区切りに鈴を鳴らすことにしました。が、これがなかなかうまく鳴らない。軽く一振りすれば良い音がするのだが、強く降るとガチンといった音でだめだし、振る早さによって何度も鳴ったり、とにかく難しいのだ。

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2014年11月03日

お四国さん 16

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 59番・国分寺は、天平13年(741)に行基によって創建されたといわれます。その後、弘法大師が長く滞在して五大尊の絵を描き、その弟子である真如も2年ほどいたそうです。華厳宗の寺でしたが、現在は真言律宗で、ご本尊は薬師如来です。

 何度も戦火で焼け、秀吉の四国征伐で焼失した後は再建されずに茅葺の小堂が建っているだけになっていたそうです。寛政元年(1789)になって、恵光上人が現在の場所に本堂を建立しました。元の寺は少し東にありましたが、七重塔の礎石が残っているだけです。現在の境内は伊予国府のあった所だといわれます。

 近くにある唐子山に村上水軍が城を築き、それを福島正則が拡張して今治11万石を治めました。しかし、関ヶ原の戦いの後、伊予半国を領した籐堂高虎は海城である今治城を築いて、この国分城を取り壊しました。高虎が伊勢・津藩22万石に移った後、久松(松平)定房が3万石で今治城に入りました。その後歴代藩主の墓所はここ国分に置かれました。幕末には、幕府側の松山藩の支藩でありながら、官軍として戦いました。

s1011-12.jpg 今治市街に入って、58番・仙遊寺に向かいました。仙遊寺は作礼山の山頂に近い標高300mにあります。天智天皇の勅願により、伊予の国主・越智守興が建立したそうです。本尊の千手観音菩薩像は、海から上がってきた竜女が一刀三礼しながら彫って安置したと伝えられています。この伝説から「作礼山」といわれるそうです。

 その後、阿坊仙人という僧が40年にわたって籠り、七堂伽藍を整えるなどしましたが、養老2年(718)に忽然と姿を消してしまったといわれます。このことから仙遊寺の呼び名が定着したそうです。

 この 阿坊という僧はおそらく修験僧で、それも道教を信奉する人物ではないかと思われます。多くの修験者の先達として寺を大きくし、自分の死後死体を消滅させ、不老不死の仙人となったという言い伝えを残したのではないでしょうか。役行者が老母を連れて天上ヶ岳へ登り、羽化昇天して天仙になったといわれるのと似ています。

 しかし、伝説が残っても、優れた指導者を失った寺は衰えてしまったようです。そこへ、弘法大師が訪れて、井戸を掘り、寺を再興したそうです。弘法大師はただ寺を建てたのではなく、地域の豪族を動かし、大規模な治水工事を行わせ、それを仏果として信仰を広めたのではないかと思います。

 が、江戸時代になると寺はすでに荒廃していたようです。明治の初期、宥蓮上人が山主となり、寺勢を取り戻しました。宥蓮上人は明治4年、日本最後の即身仏となりました。

 「補陀落山」と書かれた山門は、新しいもので、ある夫婦が寄贈したものだそうです。仙遊寺は「作礼山」です。

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 仙遊寺を下って市街に戻る途中に、57番・栄福寺があります。弘法大師が海難の事故の平易を祈り、阿弥陀如来の尊像を府頭山頂に安置したのが始まりとされています。

 貞観元年(859)、大和・大安寺の行教上人が、豊前の宇佐八幡の分霊を受けての帰り道、暴風雨に遭い、この地に漂着したことから、栄福寺の境内に勝岡八幡宮を創建したといわれます。上人は翌年、京都に帰り、男山八幡宮(石清水八幡)を創建しました。そのため、勝岡八幡は「伊予の石清水八幡宮」といわれます。

 明治の神仏分離令により、寺は神社と別れて、山頂から中腹に移転しました。現在の大師堂は、その時に移築したものだそうです。

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 次は56番・泰山寺です。石垣は新しく整備されたらしく、石が輝いていました。石碑によれば、平成元年に隣地300余坪を取得し、平成12年に造成し石垣を築いて境内を拡張したそうです。昨年には浄財を募って庫裡客殿を新築したとあります。

 この地を流れる蒼社川は、度々氾濫し、人取川と恐れられていたそうです。訪れた弘法大師が、村人たちと堤防を築いて、「土砂加持」を行ったといわれます。そして、地蔵菩薩の尊像を彫造し、金輪山の山頂に泰山寺を建立したとされています。

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 寺の北東に鯨山古墳があり、越智国造(小市国造小致)の墓といわれます。また、南には別名の大楠があって、越智玉澄(越智郡大領)の墓所と伝えられているそうです。この辺りは古代豪族・越智氏の本拠であったのでしょうか。しかし、すぐ西は野間郡であり、別の豪族がいたと思われます。

 西条市から今治市にかけての地域を訪れるのは初めてのことで、ほとんど何も知らないと言っても良い。ただ、複雑に絡み合った長い歴史を感じさせます。それに、理由がよく分からないのですが、「愛媛県はどうも雰囲気が違うな」と思います。

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2014年10月24日

お四国さん 15

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 横峰寺の参道を下って、氷見の国道11号線に戻ると、直ぐに63番・吉祥寺があります。吉祥寺のご本尊は毘沙門天です。「四国唯一体」と記されているくらいだから珍しいのだと思われます。

 元は坂元山という所にあった大きな寺であったそうですが、豊臣秀吉の四国征伐の時に焼失し、万治2年s1011-4.jpg(1659)に末寺の檜木寺と合併して、現在の地に再建されたといわれます。

 毘沙門天は、古代インドの財宝の神「ビシュラバナ」で、これを漢字にしたものです。「ビシュラバスの息子」という意味らしいですが、語幹は「全てを聞く」という意味なので、多聞天とも言われます。密教では12天のひとつで、夜叉や羅刹を率いて須弥山の北を護る将軍とされています。

 妻である吉祥天と息子の善膩師童子(ぜんにしどうじ)が脇侍として安置されています。吉祥天はヒンドゥー教の、美と豊穣と幸運の女神「ラクシュミー」と言われます。ヴィシュヌ神の妻でした。毘沙門様は、ヴィシュヌに音が似ていることから、多少移り気な美女を妻としたのではないでしょうか。

 吉祥寺の名前が吉祥天と同じ文字なので疑問を持ちますが、おそらく無関係だと思います。徳島の阿南市にある吉祥寺は、観音様を祀っていました。

 国道沿いにさらに西に行ったところに62番・宝寿寺があります。「一国一宮別当」と大きな石柱が立っています。

 その一之宮神社は天平時代に建立され、宝寿寺はその法楽所として建てられ、金剛宝寺と称していたそうです。しかし、中山川の氾濫などで幾度も被害を受け、江戸期には、お寺は現在地付近に移転しました。少し後に神社もその境内に移ったそうです。

 愛媛の一宮は大山祇神社とされていて、大山祇神を祀っていますが、ここの一之宮神社は大国主命を祀っています。一宮が複数あることは、別に珍しいことではありません。

 明治の神仏分離により、一之宮神社と分離され、さらに鉄道の開通により、宝寿寺が小松駅の南側の現在地に移動しました。

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 さて、宝寿寺の納経所には3枚の張り紙があります。「1200年記念御影は、当寺に無断で霊場会が企画したもので、62番の記念御影はありません」「当寺は霊場会とは無関係です」「カラー御影は在庫がなくなs1011-5.jpgりました。再入荷しません」。

 そのかわりなのか、次の札所で記念御影を余分に一枚もらえますが、寺や本尊の名は記入されていません。種字は弥勒菩薩または弘法大師です。宝寿寺のご本尊は十一面観音ですから、それとは違います。どのように解釈するべきなんでしょうね。

 次に61番・香園寺に行きました。聖徳太子が創建したといわれます。本堂は博物館か美術館かと思われるようなコンクリートの四角い建物です。2階が本堂と大師堂ですが、まるで劇場です。数百の観客席がならび、その正面が内陣となっています。本尊である金色の大日如来を中心に仏像が並んでいます。

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 大正初期に、当時の住職が子安弘法大師の講を創始し、全国で20万人の講員を獲得したそうです。子供を抱いた大師像が祀られていました。境内に句碑がありました。「偉い子はいぬが、どの子も親思い」

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 これで、西条市内の札所は終わりました。国道196号を今治に向かいました。午前11時半くらいでした。湯の浦温泉とある道の駅で釜飯の昼食を食べました。妻は鯛釜飯、私は海鮮釜飯でした。彼女は「今日の宿泊はこの付近だ」と言います。
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2014年10月18日

お四国さん 14

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 やはり、台風19号の動きが問題でした。それと、何か行事があったのか、ホテルが思うように予約できなかったということもありました。そんなこんなで、出発は10月10日になりました。今回は愛媛県です。

 午前6時前に家を出ました。霧がたちこめていて、視界は100メートルくらいでした。霧は、徳島自動車道を通って、上板町を過ぎる頃から急に晴れてきました。川之江から松山道路に入り、入野パーキングでおにぎりを買って食べ、いよ西条インターで降りて、64番・前神寺を訪ねました。

 前神寺は、石鉄山(石鎚山1981m)を開いたといわれる役小角が、石鉄蔵王権現を祀ったのが始まりとされています。元は山頂近くの成就にありました。石鎚登山ロープウェイ駅付近で、現在は奥の院である奥前神寺があります。「成就」は「常住」であり、人の通わない冬の間も山籠りして修行し、山を祀る修験道の道場であったようです。

 後に桓武天皇が、現在の地に堂宇を建てたといわれ、歴代天皇が信仰しました。弘法大師も二度に渡って石鎚山で修行したそうです。

 それぞれの時代の領主も信仰し、江戸時代には、西条藩主・松平氏が東照宮(現西条神社)をまつり、三葉葵の寺紋を許しました。

 明治政府の神仏分離令により廃寺とされ、寺の境内にあった権現神殿が石鎚神社とされました。前神寺はまもなく、前上寺として復活しましたが、戦後、その南に現在の石鎚神社が建てられました。本堂は両側に回廊が伸びていて、御殿のような感じがします。ご本尊は阿弥陀如来ですが、本当の本尊は石鎚山そのものと考えるべきです。

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 氷見町から県道142号に入り、どんどん山道を登っていきます。黒瀬ダム湖を見下ろして、さらに行くと有料道路になります。「こんな山奥で、料金をどうやって徴収するんだ」なんて言いながら登っていきましたが、ちゃんと料金所があり、集金する人がいるのです。
 
 有料の平野林道の果てに駐車場があり、そこから少し下った所に60番・横峰寺があります。標高750mです。前神寺と同様、役小角によって創建されたといわれます。後に弘法大師が大日如来を祀って霊場としたそうです。

 江戸時代には、石鎚山の別当職をめぐって前神寺と裁判で争ったそうです。本尊の大日如来の胸の中には役行者が刻んだ蔵王権現があるそうで、登山道の途中に位置して本家争いの条件がそろっていたのでしょう。

 明治になって、やはり廃寺となり、石鎚山遙拝の社とされました。が、大峰寺として復活し、明治末には元の名前に戻りました。こうした経緯から、本堂は権現造りという神社風の建物となっているそうですが、正面しか見ていないのでよく分かりません。

 役小角がシャクナゲの木に石鉄蔵王権現を彫ったといわれることから、山腹にたくさんのシャクナゲが植えられています。5月の花時はすばらしい眺めだそうです。

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2014年10月09日

お四国さん 13

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 43番・明石寺(めいせきじ)は6世紀の前半、円手院正澄という行者によって開かれたといわれます。その後、天平6年(734)に寿元という行者が、熊野から12社権現を勧請したそうです。古くから修験道の修行場であったのでしょう。

 弘仁13年(822)に、弘法大師が金紙金泥の『法華経』を納めて、諸堂を再興したそうです。建久5年(1194)、源頼朝が池禅尼の菩提を弔って阿弥陀如来像を奉納し、経塚をきずいて、山号を源光山に改めました。

 室町時代には伊予・西園寺氏の祈願所とされ、江戸時代に入って、寛文12年(1672)には、宇和島藩主・伊達宗利が堂宇を建立しました。ご本尊は千手観音菩薩です。

 まあ、歴史に彩られた、風格のあるお寺でした。西予宇和インターに引き返して、ここからは大洲道路に入りましたが、再び無料区間です。大洲からは有料になります。内子五十崎インターを降りて、国道380号線を44番・大宝寺に向かいました。

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 ところが、峠の頂上付近が工事中で交通規制されていました。1時間に10分だけしか通行できないということで20分ほど待たされました。この間に、妻は行く先を変更して、先に45番・岩屋寺に行くことを決意しました。彼女は前に行ったことがあるので、山登りに時間がかかったという記憶があったのです。

 なるほど、岩屋寺の坂はたいへんでした。急な登り坂を歩くと年齢を感じます。高校生くらいの男の子がひょいひょいと走って上がっていくのに、私たちはなかなか前に進まないのです。山門があった、もうすぐだ。しかし、行程はまだ半分だったのです。へろへろになって、本堂に着きました。

 ここには、空を飛んだり岩を割るなどの神通力を持った法華仙人が住んでいたそうです。興味深いのは、この仙人は土佐出身の女性だということです。そこには、古代の女王、あるいは山の神様のイメージが重なります。また、仙人は、安芸の猟師がこの地が霊地であることを見出したことを知って、ここに来て修行したとも言われます。奥の院には白山権現が祀られていますが、やはり女性の神様です。

 また、私は法華仙人という名前も気になります。宇和島の北に法華津という地名があって、直接の関係があるとは思いませんが、当てられた漢字を無視すると「ほけ」であり、「うわ」とともに愛媛西部の古代に由来する言葉ではないかと思うのです。

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 弘仁6年に弘法大師がここを訪れると、法華仙人は大師に帰依し、全山を譲り渡して往生したといわれます。大師は不動明王とこの山自体を本尊として岩屋寺を開いたとされます。

 「一遍聖絵」には、鎌倉時代中期に、一遍上人がここで修行したことが描かれています。岩屋寺は一時期、44番・大宝寺の奥の院とされていたようです。ここはなんといっても、崖の異様な景観によって雰囲気が支配されています。数千万年前には海底にあった地層が隆起したものだそうで、その後風雨に浸食されてできたらしい。山肌は、徳島の土柱に似た質感があります。

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 県道12号は思ったよりも広い道路で、何の支障もなく44番・大宝寺に到着しました。大宝寺は、百済から来た僧が、十一面観音菩薩を安置し、それを見つけた猟師らが草庵に祀ったのが始まりとされています。よく猟師の話がでてきますが、どうも山岳民とでもいうべき非定住民の集団がいたのではないかと思われます。

 寺が建立されたのは大宝元年(701)とされています。後に弘法大師が訪れて霊場としたそうです。保元元年(1152)、後白河天皇の病気平癒が祈願され、病気が治ったことから、妹の宮様が住職として下向されたといわれます。

 久万高原を後にして、国道33号線を松山に下り、松山道路に入ってからはひたすら走りました。途中、高松近くのパーキングでうどんを食べました。突然のにわか雨に打たれたりしました。板野町で高速道を降りた時には、ETCのカードが抜けていて、開かなかったゲートに危うくぶつかるところでした。まあ、とにかく無事に帰宅しました。

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2014年10月03日

お四国さん 12

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 9月11日、朝食は7時からで、バイキングです。土佐ジローの卵かけごはん、トッピング自由のお茶漬けを食べました。そして、今度こそ足摺半島の東海岸を通って土佐清水に出ました。そこから西海岸に沿って宿毛に向かいました。

 道の駅があれば寄ろうということで、「めじかの里」の駐車場に入ったのですが、時間が早くてまだ開店していませんでした。竜串を通り過ぎて、海岸から少し山の中に入ったところに道の駅・大月がありました。

 観光パンフを探したのですが、あったのは「移住体験ツアー」のビラでした。大月町は人口5200人、ほぼ年100人の割合で減少しています。やはり高齢者が多い。どうも、都市部を除けば全国的にこうした傾向にあるようです。

 魚や貝が売られていて、とてもおいしそうでしたので撮影しました。クーラーボックスを持ってきていれば、磯ものの貝を買うところでした。

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 宿毛の市街に入り、国道56号線を高知側に少し戻った山中に39番・延光寺があります。全体に小ぶりですがとても落ち着いた雰囲気のお寺でした。神亀元年(724)に行基がご本尊である薬師如来を刻んで開基したとされます。

a911-3.jpg 延喜11年(911)、境内にいた赤亀が龍宮城から梵鐘を持ち帰ったことから、赤亀山・寺山院・延光寺と改名したそうです。その梵鐘には延喜11年の銘があり、県内で最も古く、国の重要文化財となっています。句碑がありました。「おぼろ夜の赤亀にのる鐘ひとつ」。

 次は40番・観自在寺。愛媛県に入りました。屋根が大きく反り返った山門を入ると、8仏12支守り本尊が出迎えてくれます。12支あるのに8仏しかないのはおかしいと思うのですが、12支は中国が起原であり、古代インドの暦には無かったのでしょう。

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 観自在寺は、平城天皇の勅願で開かれたそうです。平城天皇の病気平癒を願って、弘法大師が祈祷をしたといいます。山号も平城山となっています。今は愛南町となっていますが、以前は御荘町で字が平城でした。平城天皇の荘園であったのかもしれません。ご本尊は薬師如来です。

 今日は走る距離が長いため、できるだけ高速道を利用する必要がありました。しかも、41番・龍光寺、42番・仏木寺、43番・赤石寺は高速のインターチェンジの近くにあって、国道よりも便利でした。そういう訳で、宇和島道路に入ったのですが、これまた無料なのです。

 ただ、彼女の頭の中は、「5時までにどこまで回れるか」という点に集中し始めていました。「昼食はコンビニで買って車内で食べる」と言います。食べる時間を惜しんで走り続けたいのです。

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 工事中の道を迂回して41番・龍光寺に到着しました。階段を上っていくと正面に赤い鳥居が見えます。大同2年(807)、弘法大師はここに稲荷大明神社を開基したそうです。お稲荷さんは、真言密教における荼枳尼天(だきにてん)とみなされ、真言宗とともに全国に広まったといわれます。

 明治初年の神仏分離で、ご本尊は十一面観音菩薩に変わりましたが、元の本尊である稲荷大明神の像も並んで祀られているそうです。

 とはいえ、中央に稲荷神社があって、ぐっと下がった両側に寺の本堂と大師堂があるというのは、不思議な景観です。

 ここから少し北に行ったところに42番・仏木寺があります。駐車場から入ったのは、どうも裏口のようで、一番に茅葺の鐘楼に出くわしました。
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 仏木寺は、唐にあった弘法大師が投げた宝珠が落ちたところとされています。ご本尊は大日如来で、胎内にあった墨書には、健治元年(1275)に作り始め、それ以前にあった弘法大師作の如来像の一部を入れたと書かれていたそうです。

 新しい六角小堂があって、なぜか聖徳太子が祀られていました。表に回って山門を撮影しました。そのついでに休憩所で煙草を吸っていたら、バスが停まろうとしたので、あわてて「乗客でない」とジェスチャーをしました。お寺の休憩所ではなくバス停だったのです。

 三間インターチェンジまで引き返して、再び高速道に入りました。そこからは松山自動車道で有料でした。妻に言われるまま、コンビニ弁当を買って後部座席で食べました。彼女はおにぎりをかじりながら走り続けました。

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2014年09月22日

お四国さん 11

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 須崎の道の駅を出て、カーナビをセットしてその案内で走り出すと、直ぐに国道をそれて広い道路に入りました。「おいおい、道が違うんじゃないか」と言ったものの、これは高知自動車道でした。しかし、料金所が無いのです。妻は「途中でお金をとられるのかしら」なんて言いながら、最終の四万十東インターまで走り抜けました。出口にも料金所はありませんでした。37番・岩本寺はすぐそこです。

 岩本寺のご本尊は、阿弥陀如来、観音菩薩、不動明王、薬師如来、地蔵菩薩の五尊あります。伊予の河野氏の一族がこの地を開き、仁井田明神(高岡神社)を建立したといわれます。やがて、行基が傍らに七福寺を開き、別当寺としたそうです。その後、弘法大師が仁井田明神の5祭神を分離して、5社と5寺を建てて福圓満寺としたといわれます。

 戦国期に兵火に遭い衰退しましたが、高岡郡に進出した一条氏により再建されました。その後、長宗我部氏、山内氏と支配者が変わりましたが、それぞれに手厚く保護されました。この間に寺社の管掌は岩本寺に統合されたようです。明治初年の神仏分離により、仁井田五社と分離され、5本尊が岩本寺に集められました。一時は廃寺にされたようですが、明治22年に復活しました。

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 昭和53年、本堂を新築した際には、天井画を全国から募集し、575枚の様々の画が天井一面に張られています。

 矢負地蔵菩薩像が別室で公開されていました。信心深い猟師が、これ以上の殺生は無益と思い自分の胸を矢で射たところ、地蔵さまが身代わりとなって命が助かったという伝説があります。

 岩本寺から1時間くらい走り、黒潮町に入りました。道の駅「ビオスおおがた」に立ち寄りました。

 「砂浜美術館」のビラが置いてあって、それによると、ここには入野松原というきれいな砂浜があり、その砂浜を美術館にみたてて、館長は「ニタリクジラ」、豊かな自然の中に「作品」を感じ、「大切なことは何か」を考えようと提起しています。「なんちゃぁないけん、みえてくるがよ」というのがキャッチフレーズです。

 黒潮町の人口は現在11000人、毎年200人くらいのペースで減り続けています。しかも、高齢者の割合が多く、今後ますます減少が加速するものと考えられます。

 妻はナビに従って走っていましたが、土佐清水から足摺半島の中央部を通るスカイラインに入ってしまいました。このルートは樹木に遮られて景色がまったく見えません。彼女は東海岸を走りたかったので、しきりに残念がりました。15時20分に38番・金剛福寺に到着しました。

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 弘法大師が唐から帰国の際に、東に向けて投げた五鈷杵が飛来した地であるとして、開かれたといわれます。歴代天皇が祈願所とされたほか、源氏の信仰が篤く、源満仲は多宝塔を寄進、その子頼光は諸堂を整備しました。観音霊場として信仰され、後深草天皇の女御の使者や和泉式部なども参詣したそうです。

 弘法大師は、南の海の彼方に観音様の世界である補陀落山を感得して、3面千手観音菩薩像を刻んでご本尊a910-2.jpgとしたそうで、戦国期以降、「補陀落渡海」が行われました。

 金剛福寺は、平成の改築で池と巨岩が配置され、境内の様相がすっかり変わったそうです。妻はご本尊の拝観を希望し、たまたまご住職がそこに居合わせたので拝観することができました。ご住職は少し香を焚いて、内陣を案内してくれました。3面千手観音菩薩像はまさに美術品でした。ネット上に櫻井恵武氏撮影の画像がありましたので拝借しました。しかし、実物は、眼だけが光る黒い諸仏に囲まれたおどろおどろしい雰囲気の中にあって、もっと立体感があって細っそらと見えました。ご住職は単調な口調で話しますが、博識でおもしろい人でした。

 岬の遊歩道を少し歩きました。彼女は途中で蛇をみつけたり、厳戒状態なのでそんなに長く散歩はできません。燈台と、その下にある岩礁の海を見て、ホテルに向かいました。

a910-5.jpg ホテルは「足摺テルメ」で、山の斜面に張り付くように建てられています。踊り場には泳ぐジンベイザメが投影されていました。

 17時から夕食。フレンチのコースですが、オードブルは刺身の盛り合わせみたいだったし、魚料理は土佐清水の鯖でした。魚が多かったように思います。肉料理は、妻が窪川ポークのロースト、私は土佐和牛あか牛のステーキでした。スペインワインの赤ボトルを1本開けました。

 食事を終えて部屋に帰ると、ベランダは雨に濡れていました。窓には時おり、遠いけれど長い稲光の閃光が閃きました。寝る前にしばらく、バラバラと音をたてて大粒の雨が降りました。

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2014年09月15日

お四国さん 10

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 9月10日午前5時すぎに出発しました。やがて白み始めたフロントガラスの向こうに、大きな月が浮かんでいました。ほぼ満月です。

 南国サービスエリアで休憩して、炭焼きコーヒーを一杯飲みました。高知インターで降りて、33番雪蹊寺に向かいました。桂浜のすぐ近くです。

 雪蹊寺は元は真言宗の寺でしたが、長宗我部元親が臨済宗の月峰和尚を招いて再興しました。彼の死後、盛親が自家の菩提寺とし、元親の法号をとって雪蹊寺と改名しました。88ヶ所では数少ない禅宗の寺です。ご本尊は薬師如来です。

 背後の山には長浜城跡があります。この城は本山氏の支城でしたが、長宗我部元親の父・国親が、永禄3年(1560)に風雨の海を渡って夜襲し、陥落させました。さらに、逆襲してきた本山軍を破り、浦戸城をも攻略しましたが、その直後に病気で急死し、元親がその覇業を引き継ぎました。

s910-7.jpg 寺のすぐ隣には秦神社があります。長宗我部氏が秦氏を名乗っていたことはよく知られています。一見して神社と別当寺の関係にあったのだと思ったのですが、そうではないらしい。雪蹊寺が廃仏毀釈により廃寺となったことから、長宗我部氏を祀るために明治4年(1871年)に新たに建立されたそうです。

 その後、明治17年に雪蹊寺は名僧・太玄により再興されました。太玄を称える太玄塔があります。その横に、坂本龍馬を指導した日根野道場の師範代・土井保夫妻の墓石が置かれています。南学の祖・天質和尚と長浜小学校の前身・維新館および簡易水道発祥地の記念碑もありました。

 34番は種間寺。弘法大師が唐から持ち帰った五穀の種を播いたことから種間寺とされ、ご本尊は百済の仏師らが彫ったという薬師如来で国宝に指定されています。

 6世紀、用明天皇の時代、大阪の四天王寺の造営にあたった百済の技術者らが帰国の途中、暴風雨に襲われて秋山の港に寄港し、その折に薬師如来坐像を彫造し、本尾山の山頂に祀ったのがこの寺の起原だとされています。

 この言い伝えが興味をひくのは、彼らはなぜ遠回りで危険な土佐沖を通ったのだろうかということです。史実として考えるべきではないのでしょうが、まったく根拠のないお伽噺とも言えません。日本書紀には、四天王寺が創建されたのは用明天皇の死後となっていますが、百済に頼んで僧侶や仏師、工人の派遣を受け、その指導によって仏教国家になっていった様が書かれています。

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 車で登ることができるので良いようなものの、35番・清瀧寺は意外に高い山の上にあります。「大きな観音様だ」と思ったのですが、なんだか様子が違う。薬瓶を持っているので薬師如来でした。台座はいわゆる胎内くぐりができるようでした。ご本尊も厄除薬師如来です。

 この大きなお薬師さまは、昭和8年に製紙業者らによって寄進されたそうです。弘法大師が修法を行い、杖で突くと清水が湧き出て鏡のような池になったといわれます。この水が田畑を潤しただけでなく、紙を漉くのに役立ち、ここが「土佐和紙」の産地になったというのです。

 境内に古い琴平神社があります。珍しい建築様式であるらしい。痛み方がひどいのか、建物の上にトタン屋根を設けて保護されていました。寛文8年(1668)に本堂が焼失し、火災を防ぐために建てられたそうです。この神社は海上安全を祈るものと思っていたので、火除けというのが不思議な気がしました。

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 36番・青龍寺は、浦の内湾という深い入り江の入り口にあります。印象としては島のようで、湾をまたぐ長い橋を渡ります。昭和48年に橋が開通するまでは、「竜の渡し」という渡し船を利用していたそうです。

 弘法大師は、長安の青龍寺で恵果和尚から密教を学びましたが、そのお礼に東の空に向かって独鈷杵を投げ、落ちた所に寺を建立することにしました。それがこの地であり、同じ名前の青龍寺としたといいます。ご本尊は波切不動明王です。暴風雨を鎮め、大師の航海を守ったとされています。

 本堂へは一直線の長い階段があり、石段は苔むして、建物も風雨に耐えた年月を感じさせますが、一方で、小ぶりながら、真新しい三重塔や多宝塔もあって豪華にも見えます。大師堂の前には33観音の石仏が並んでいました。

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 横波黒潮ラインの太平洋側を通って、須崎に向かいました。まだ午前10時過ぎでしたが、朝食が早かったのでお腹がすいてきました。木々の間から断崖と岩に白い波しぶきが上がっているのが見えます。土佐の海は荒々しくも美しい。途中に展望所があって、そこには数匹の猫がたむろしていました。餌皿もあるので誰かが飼っているようです。

s910-6.jpg 道の駅「かわうその里すさき」に立ち寄りました。レストランは11時からなので開店を待ちながら、店内を物色しました。「鍋やきラーメンとじゃこ飯セット」を注文しました。鍋やきラーメンは須崎の名物らしく、あっさりしているが出汁は濃厚でおいしかった。それよりも、私が気にいったのはじゃこ飯で、釜揚げいりこにきざみねぎと煎りごまをご飯にのせて食べるのですが、しそとショウガが少し入っていてじつにおいしかった。

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2014年08月19日

お四国さん 9

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 お盆前に足摺岬へ行く予定でしたが、台風11号の襲来によってキャンセルすることになりました。再度計画を立てなおしています。

 それとは別に、県内で唯一残っているのが17番・井戸寺でした。近くなのでいつでも行くことができるのですが、御開帳が毎月18日と決まっているのです。国宝の11面観音像です。

 8月18日は秋雨前線が停滞していて、雲行きが怪しかった。東の方は雨が降っているようでした。彼女は掛け軸が濡れるのを恐れて、昼食を食べるのを遅らせて、先にお参りをしようと言います。風も強くて、線香に火を点けるのにも時間がかかりました。

 井戸寺は、白鳳2年(673)に勅願寺として開基され、妙照寺と称しました。御本尊は薬師如来を中心にして左右に3体ずつの仏像を配しているので七仏薬師といいます。

 弘仁6年(815)、弘法大師が11面観音を刻んで安置し、その際、井戸を掘って清水を湧きださせたことから井戸寺と改称したとされています。

 貞治元年(1362)、細川頼之が、南朝についた細川清氏と戦った時に堂宇を焼失したそうです。おそらくは神山の南朝山岳武士との戦いがあったのではないかと思われます。弟の細川詮春によって再建されました。

 天正10年(1582)には、長宗我部元親が四国制覇をめざし、この付近に本陣を構えて中富川の会戦を戦ったため再び焼失し、蜂須賀氏によって再興されました。

 山門は、お寺には珍しい武家造りです。徳島藩第10代藩主の蜂須賀重喜は、職人の失業対策として八万町の大谷に別邸を建てたそうです。彼の藩政大改革が挫折した後、隠居してそこに住み、質素倹約から一転して浪費生活を送りましたが、幕府に咎められて再び質素な生活に戻ったといわれます。別邸は必要でなくなり取り壊され、その門が井戸寺に寄進されたようです。

 その後、昭和43年(1968)にも失火により本堂が焼けました。脇侍の日光、月光菩薩は、この時修復中であったために残り、現在、県指定文化財として11面観音の脇侍となっていました。

 この後、国分寺を訪ね、大師堂で般若心経と光明真言を称えてから、庭園を拝観しました。思っていたよりも整った庭でしたが、それでも、「こんな庭があるのか」と驚くほかないものでした。いったい、どんな精神がこんな世界を築いたのでしょうか。

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2014年07月20日

お四国さん 8

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 ゲート付き有料駐車場に車を停めて裏に出ると、旧道と思われる細い町並みにでます。そこに19番・立江寺があります。本堂の建物は豪華な造りです。火災で焼失して昭和52年に再建されました。東京芸術大学の教授ら40名によって天井画が描かれています。

 天平19年(747)に聖武天皇の勅命で、光明皇后のご安産を祈願して建立されたと言われます。行基は、飛んできた一羽の白鷺に暗示を受けてこの地を選び、一寸八分の金の地蔵菩薩「延命地蔵」を御本尊としました。なんだか鶴林寺の由来とよく似ています。弘法大師が等身の地蔵仏を彫り、胎内に行基の地蔵を納めたというのも同じです。

 ここにはこんな伝承があります。「石州浜田城下通町3丁目桜井屋銀兵衛の次女・お京は、16歳の時大阪新町へ芸妓に売られた。そこで要助という男と馴染みになり、二人で逃げて浜田に帰り、夫婦になった。お京は22歳になっていた。ところが、彼女は鍛冶屋長蔵と密会するようになり、これを夫要助に気付かれ、二人とも散々に叩かれた。お京は長蔵を手引きして、夫を打ち殺し、丸亀に逃げた。四国遍路をして立江寺にやって来た時、突然お京の黒髪が逆立ち鐘の緒に巻きあげられた。長蔵はあわてて院主に救いを求めた。院主は次第を問いただしお京が懺悔すると、なんとか鐘から離れることができた。しかし、鐘の緒には播きついた黒髪とともにはぎ取られた頭皮が残った。二人は改悛して出家し、田中山に庵をむすび要助を供養して生涯を終わった」。髪の毛と肉片の付いた鐘の緒は亨和3年(1803)に立江寺内の黒髪堂に奉られたといいます。

 いったん国道55号線に出て、少し後戻りすることになりましたが、18番・恩山寺に着きました。元は行基によって建てられた密厳寺という女人禁制の寺だったそうです。弘法大師が母の玉依御前を迎え入れるために業を行い、女人禁制を解き、御前はここで剃髪して出家したといわれます。御本尊は薬師如来です。

 以前の住職は、多額の借金からこの由緒ある寺を売り渡そうとして大事件になりました。罷面されて、新住職によって再興されました。

 何の表記もない建物があったので、格子から中を覗いてみると、豪華な袈裟の上に中国風の錦の上着を羽織った仏像が座っていました。背後には軍隊のように整列した仏たちが従っていす。まるで王様のように見えるのでお釈迦様かと思ったのですが、髪の毛がなく、右手に錫杖を持ち、左手に宝珠を載せていることから弘法大師あるいはお地蔵さまではないかと思われます。その隣には釈迦の10大弟子と表示がありました。こちらは和風の法衣の上に袈裟姿が多く、他はインド風でした。

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 再び国道に出て、園瀬川の手前で西に入り、一宮に向かいました。途中で少し居眠りをして目覚めると13番・大日寺でした。道路を挟んで向かいは一宮神社であり、そこから一宮城に登ることができます。

 名前の通り、大日如来を本尊としていましたが、明治の神仏分離の際、一宮神社にあった千手観音を迎えることになり、それが゛御本尊になりました。庭には真新しい「しあわせ観音」の像が立っていました。

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 鮎喰川を渡ると国府町で、4キロメートルくらいの距離に4ヶ所の札所が並んでいます。しかし、14番・常楽寺に到着したのが午後4時過ぎで、あと1時間しかありません。
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 常楽寺の御本尊は弥勒菩薩ですが、これは四国88ヶ所ではここ一ヶ所だけだそうです。その弥勒さまは本堂内陣の金色の厨子に納められていて、扉が開けられライトアップされていました。しかし、本堂の外から見たのではよく分かりません。中央に小さな仏像が座し、両側に立像が立っているようでした。

 この寺は、文化15年(1818)に山を切り崩して平地から移転したそうです。境内は崩された時に露出した断層を「流水岩の庭園」と称してそのまま残しています。しかし、安全に歩くことのできる歩道もなく、私には手抜き工事としか思われません。

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 次は15番・国分寺。天平時代、この地域は阿波国の首都であり、国府が置かれ、国分寺および国分尼寺が建てられました。国分寺は昭和になって発掘調査が行われ、領域や建物の配置が明らかになっています。七重の大塔があったといわれ、その心礎石が残っています。

 寛保元年(1741)に徳島藩によって、曹洞宗の寺として再興されました。2階建てのように見える特徴のある本堂は文化文政年間に建てられたものです。薬師如来を本尊としています。

 ところで、後から知ったことですが、この本堂の横にはとんでもない庭園があるそうです。というより、その庭園の中に後から本堂が建てられたようなのです。そんなことには全く気付かなかったので、また改めて見に行くことにします。

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 16番・観音寺に到着したのが午後4時40分くらいで、10分くらいで納経を済ませました。御本尊は千手観音菩薩です。ここは浄財の提供を示す石柱で囲われていて、塀がありません。

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 彼女は「まだ時間がある」と言うのですが、「そんなに無理をしなくても…」となだめました。次の17番・井戸寺で徳島県内のお四国さんは完了するのです。「あとひとつ」という気持ちはよく分かるのですが。

 天正10年8月、およそ2万の土佐軍は井戸寺付近に本陣を置いたといわれ、吉野川北岸には三好軍5000が柵を設けて待ち受けていました。そこから勝瑞城を含む10キロ四方が四国最大の会戦、中富川の戦いの戦場でした。戦闘に先立って、両軍により、寺や神社だけでなく人家もほとんど焼き払われたと思われます。午後に巡った寺のほとんどがこの天正の兵火で焼失し、その多くが蜂須賀氏の徳島藩によって再建されています。

 さて、次は足摺です。お盆前の8月8,9日の予定です。

posted by kaiyo at 22:09| 徳島 ☀| Comment(0) | お四国さん | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月10日

お四国さん 7

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 6月30日は南に向かいました。先ずは新野にある22番・平等寺です。御本尊は薬師如来です。延暦11年(792)に弘法大師が訪れた時、五色の瑞雲がたなびき、薬師如来が現れたそうで、山門はじめ各建物に五色の布が飾られています。幟旗も五色です。

 大師は井戸を掘り、乳白色の霊水が湧きだしたといいます。現在は透明な水ですが、「弘法の霊水」と呼ばれ万病に効くとされています。持ち帰ることもできるそうです。本堂の天井には一面に丸い形の花鳥の絵が描かれています。名札もいっぱい貼り付けられたままになっていました。

 駐車場に一緒に入って来た軽トラックが、帰りにはみかんの販売を始めていたので、彼女は一袋買いました。

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 21番・太龍寺は車では登れません。料金は少々高いですが、20分置きに運行されているロープウェイを利用して、一気に境内に到着しました。標高618メートルと焼山寺に比べると低いのですが、それよりもずっと深い山奥に来たような実感があります。ロープウェイで山々を越えたためかもしれませんが、違いは杉の太さのせいではないかと思えます。

 太龍寺は、弘法大師が19歳の時に虚空蔵求聞持法を修業した場所であることが、『三教指帰』に書かれています。その「舎心嶽」という岩上には大師の像が座っています。大師が彫ったという虚空蔵菩薩が御本尊です。

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 納経所の横の廊下に龍の天井絵があります。画家・竹村松嶺が描きました。松嶺は明治9年(1876)に高知県安芸市に生まれ、京都で幸野楳嶺に師事したのち、徳島で活躍した四条派の画家です。小松島に住み、昭和20年に亡くなっています。

 土産にピンクの岩塩などのセットを買いました。ボリビアやパキスタンの塩を加工したもので、メーカーは四万十町の会社です。つまり、太龍寺周辺とは何の関係もありません。彼女は、ロープウェイで行きも帰りも一緒になったおばあさんとすっかり仲良くなり、降りてから別れを惜しんでいました。鷲敷の道の駅「鷲の里」で昼食を食べました。

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 次は20番・鶴林寺です。これまた標高570メートルの山上にありますが、意外に道路が良くてすいすいと登ることができました。
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 この地に来た弘法大師の前に、雌雄2羽の白鶴が一寸八分の黄金のお地蔵さんを守護して舞い降りたといわれます。大師は地蔵菩薩像を彫って、その胎内にその黄金の地蔵を納めて本尊としたそうです。

 仁王門の仁王像は運慶の作だそうですが、なんだか迫力のある鶴の木像に気をとられて目に入りませんでした。本堂の前にも一対の鶴がいました。こちらは銅像です。
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 三重塔は文政6年(1823)に建てられたもので、各階が異なった様式になっています。三重塔としては、江戸期に建てられて残っているのは県内ではこの塔だけだそうです。


 勝浦町へ降りてきたので、「よってね市」に立ち寄って買い物をしようと思ったのですが、「左へ」と指示するのが遅れて通り過ぎてしまいました。そのまま、19番・立江寺に向かいました。
posted by kaiyo at 15:06| 徳島 ☁| Comment(0) | お四国さん | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする