2018年11月11日

大谷焼窯まつり (2018)

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 11月10日、久しぶりに大谷焼窯まつりに行った。会場は東林院だが、その向かいにある松浦酒造も参加して、蔵を解放して独自の催しをやっている。その一つが「酒粕の詰め放題」である。妻の目的はこれであった。

 300円で、大吟醸の酒粕を袋に可能な限り詰めることができる。彼女が言うには、「昨年は200円だった」「しかし、袋の口は閉じなければいけなかった」「今年は袋から溢れていても良いらしい」。私は要領が分からなくて、最初、袋に半分も詰めることができなかった。酒粕は流体ではないので、上からいくら押しても底に入っていかないのだ。底から底から詰めていかないとだめだ。時間制限はないので、結局は3.6キロほど詰めた。

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 酒蔵だからもちろん、お酒の試飲もある。こちらは400円でぐい飲みを1個もらって並ぶ。ところが、最初の場所に大吟醸が数種類並んでいるものだから、そこでつかえて行列が動かない。そのブロックは居酒屋状態になってしまった。むりやり割り込んで1杯づつ飲んだ。2年前だったらたっぷり飲んで酔客の一人になっていただろうが、今は節度をわきまえている。血糖値が上がらないよう注意するのが習慣になっているのだ。濁り酒、生原酒、梅酒まで飲んで、全部で1合程度に抑えた。それでも、ホロっとは酔った。さすがに、大吟醸は甘い香りが強くて高級なワインのようだった。

 東林院の参道を歩いて、境内に入るところに行列ができていた。妻は確かめることなく、その行列にならんだ。「ヨモギ入りの芋餅」だった。きれいに皮を剥いて、刻んで水に晒した大量のサツマイモを蒸して、茹でたヨモギを加えて餅つき器を使って薄緑色の餅にしていた。後で食べてみたが、大きさの割りに軽い食感で、やわらかくて、優しい甘さだった。なるほど行列ができるはずだ。

 私はお餅の行列には並ばず、陶器市を見物した。通常の2割引きらしい。が、数年前からすると、随分高価になっている気がした。とくに買いたいものも無かったので品定めはしなかった。中学生の陶芸クラブが展示していた1個100円の置物を3個買った。

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2018年06月29日

光勝院

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 先日、「勝瑞学講座」に出席して、初めてその名を知った。こんなに近くにありながら名前も知らなかったとは情けない。阿波守護・細川氏の菩提寺なのだ。我が家からは10分もかからない。さっそく行ってみた。

 草木の手入れがあまりされていなくて、荒れた印象だった。入り口には宝篋印塔と6地蔵がならんでいる。南明山の額が掲げられた本堂は立派な建物だった。蜂須賀氏により建てられたという。もちろん、現在の本堂は修理もしくは建て替えられているようだ。本堂の横に小さな池があって、弁天様と思われる赤い社があった。本堂に住職の居住する建物がくっついている他は建物はない。山門もなく、隣の空地は鐘楼跡だろうか。

 道路が寺の横を回って裏の墓地に続いている。墓石群はかなり新しい。その途中に、細川頼春の墓所がある。茂みに隠されてとても分かりにくい。英文併記の表示板があるのだが、それ自体が茂みの中に隠されている。玉垣に囲われた大きな墓碑は、おそらく昭和に建てられたのではないかと思われる。その横にころがっている岩が古い墓石なのではなかろうか。ほかに一族と思われる尼僧の宝篋印塔と、少し離れて累代の墓石があった。累代といっても無縫塔だから、歴代の住職を祀っているのかもしれない。

 ただ、元の境内はかなり広かったのではないかと思われる。参道は県道、JR線を越えて真っ直ぐに続いていて、その間に中門、山門があったそうだ。寺からかなり離れたところに地神塔や、寺僧の墓地などが散在している。

 光勝院は貞治3年(1364)、細川頼之が四条大宮で戦死した父・頼春の13回忌に建立した。一族の菩提寺であり足利幕府の官寺であった秋月の安国寺・補陀寺の中の1院であった。

 後に、光勝院は萩原(大麻町萩原)に移転する。移転については別の事情もあったようだが、阿波の守護所が秋月から勝瑞に移転することと連動しているとみなされることから、移転の時期が問題となる。また、補陀寺との関係が古くから混乱しているようである。

 実際のところ、歴史上の事実というのは僅かな断片であり、その背後にどんな事情があったのかなどほとんど分からない。よほど確かな証拠でもなければ、簡単に結論付けるべきではない。

 そのうえで私の考えを述べるなら、補陀寺と光勝院が合併したなどは考えられない。一方の寺が焼けて、別の寺に本尊を預けたり、住職がいなくなって別の寺の住職が兼務するといったことはあり得るだろうが、いずれ再建すればよい。光勝院は阿波守護家の祖霊として独立して萩原に移転したと思われる。頼春の墓は移転しているが、和氏の墓は移転されていない。「補陀寺の光勝院」という由緒が言い伝えられただけではないか。

 また、守護所の勝瑞への移転は、阿波における南朝勢力の衰退から服属とともに、そもそも経済的な中心である東部に移らざるを得なかったのではなかろうか。康暦3年(1881)に祖谷山が降伏し、安宅頼藤が阿波を撤退して以降のことと思われる。

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2017年12月12日

南浜 (5) 市杵島姫神社

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 小さな神社で、狭い境内の半分近くが岩山になっている。岩山の割れ目から妖しげな樹木が這い出していて、まるで岩自体が木の幹でそこから四方に枝が延びて繁っているように見える。その前にある石柱に「鳴門市天然記念物うばめ樫」とある。手前に銀杏の木があって、その落ち葉に混じってなるほど樫の実が落ちていた。

 昔、この付近は馬目木と呼ばれ、馬目(うばめ樫)の大木がたくさんあったそうだ。ところが宝暦11年(1761)、四軒屋町が大火事となり140軒の家々とともに馬目の樹々も焼けてしまった。岩の上で焼け残った木の株から芽が出て現在の奇妙な姿になったものらしい。

 さらに、岩のてっぺんには古い石碑がある。碑面の大部分が層をなして剥落し、1字か2字くらいしか残っていない。これは嘉永2年(1849)、13代徳島藩主・蜂須賀斉裕(なりひろ)が建立したもので、通称「こつかみの碑」である。その少し下に鳴門市が立て直した石碑がある。

 石碑は、藤原基房の歌碑で、「阿波の守になりて又同じ国にかへりなりて下りけるにこづかみの浦といふ所に浪のたつを見てよみ侍りける。藤原基房朝臣 こつかみの浦に年へてよる浪も同じ所にかへるなりけり」とのことだが、私には正確に碑文が読めない。ただ「こづかみ」も「こつかみ」も新碑では「木津神」となっている。もちろん、原典の後拾遺和歌集にどのように書かれているのかは知らない。現在「木津」「木津野」が地名になっていて、「きづ」と読まれている。「木津神」という地名は無いそうだが、あいまいな地域名としては今も使われている。

 この藤原基房は、平清盛の時代の関白・藤原基房ではない。それより100年以上前、藤原道長が亡くなった翌年の長元2年(1029)に阿波の国司となった基房である。彼は若い時に役人として阿波の国に赴任したことがあって、かつて愛人もいたであろうその地に今は国司として再び訪れた感慨を述べたものと思われる。

 この付近は中央構造線の上にあって、山際は古い断層によって直線的に削られたようになり、淡路島南辺、さらに和歌山まで続いている。そんなに高くはないが崖だったと思われ、その前は浅い海だった。神社の岩山はその崖から10mくらい飛び出していて、そこには古くから大きなうばめ樫が繁っていた。そこから西に狭い砂利浜が続き、三拍子酒造の付近にある小さな谷川からの土砂の堆積があって緩やかな弧を描いていたと想像される。そこが古代からの阿波の国への最初の上陸地であったのではなかろうか。

ben2.JPG 岩山には海上交通の無事を祈って、市杵島姫らの宗像三女神が祀られていて、仏教が浸透した平安時代にはすでに弁天様になっていたと思われる。長く弁天様として親しまれていたが、明治になって神仏分離が強行されて市杵島姫神社とされた。対岸の木津野にある弁天様は厳島神社とされた。厳島神社も宗像三女神を祀る神社で、市杵島が転じたものではなかろうか。この厳島神社は本殿が川の中に建てられている。川の中に石垣を築き、その上に社殿を建て、祭殿まで橋を渡している。南浜の市杵島姫神社は、わざわざ池を作り、その池の中に本殿を建てている。水との関係を尊重したのだろう。池には亀が日向ぼっこしていて、時々、水中に滑り落ちていた。

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2017年09月28日

木津 その3 長谷寺と金毘羅さん

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 境内の中央に銀杏の古木がある。大きく枝を伸ばして雲のように盛り上がっている。樹齢600年といわれ市の天然記念物である。周囲には百日紅が植えられていて、ついこの間まで花盛りだった。撮影しようと思っていたのだが、通り過ぎるうちに花は終わり、今は小さな実をたくさん付けている。昭和60年に落成した本堂はコンクリートに瓦拭きであるが、御殿造りの玄関部分は古い建物が使われているそうだ。

 ここ長谷寺(ちょうこくじ)は、元は木津江寺といったそうだ。文明12年(1480)、細川家臣の船戸左衛門尉なる者が大和長谷寺の観音像と同木の11面観音像を受けて開創したといわれる。大和長谷寺観音は10メートルを超える巨像で、木造としては日本最大級である。7度の火災で焼失し、その都度作り直され、現在は8代目、天文7年(1538)の作とされる。ということは7代目の端材が使われたのだろうか。

 細川氏さらに三好氏に保護され、三好氏からは知行13貫を受け、1町7反の土地を寄進された。天正10年(1582)、長宗我部氏の侵攻により全山焼失したといわれる。秀吉の四国征伐の後、蜂須賀氏が入国し、慶長3年に駅路寺に指定された。駅路寺というのは徳島藩独自の制度で、街道沿いの8ヶ寺が指定され、宿泊など旅人の便宜を図るとともに旅人を監視し、治安維持にも協力する制度であった。

 慶長6年(1601)、長谷寺が再建され、同時に裏山の中腹に金毘羅大権現が創建された。創建者は撫養城主とされているので、藩の事業であったのだと思われる。当時、木津の前面は吉野川の河口であり、広く浅い海であった。撫養の港というのは岡崎や林崎、土佐泊など小鳴門海峡入り口周辺の港の総称のようだ。そこからは川船に乗り換えて、斎田から木津にかけての浜に上陸した。あるいは徳島や勝瑞まで船旅ができた。その広い入り江を見下ろす位置に金毘羅さんが創建されたのは海の安全を願うのにふさわしいと思える。しかし、この頃から塩田や新田の開発が急速に進みはじめ、またたく間に入り江のほとんどが干拓されていった。

 金毘羅大権現は、長谷寺が別当として管理するなかで、奉納相撲を藩主が見に来るなど、信仰を定着させていった。ところが、慶応元年(1865)、火災を起こして社殿を焼失した。長谷寺を中心に急いで修復しようとし始めたところで明治維新を迎えた。明治政府は、神道を国教として、仏教から分離させようとした。

 大権現は仏教的なので、金毘羅大権現は金毘羅神社と名称変更して、撫養地域の郷社とされた。長谷寺の境内は分割されて、山の上半分と境内の東半分は金毘羅さんの領域とされた。これは大変なことであった。本尊の観音堂、鐘楼、仁王門、参道が神社の領域になってしまったのである。薬師堂の向きもおかしくなった。しかし、金毘羅神社の再建が急がれ、寺の建物の移動はなかなか進まなかった。

 そのうち、仁王門は神社の所有として届けられてしまい、裁判沙汰になった。これは長谷寺が取り下げて裁判にはならなかった。現在、金毘羅さんの門になっている。中の仁王さまは観音堂に移されているそうだ。毘沙門堂も神社側にあるが、この建物は3重の塔として計画されたが安政4年(1858)に1層目ができた段階で放置されたものらしい。

 まあいろいろおかしなことがあるものの、木津の金毘羅さんは阿波の3大金毘羅として知られるようになり、国鉄鳴門線には金毘羅前駅ができた。

 今は、昔日ほどの賑わいはない。階段を上って参拝した。拝殿には大きな和船の模型が置かれている。おみくじも引いてみた。末吉だった。

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2017年09月25日

木津(きづ) その2 街並より

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 南浜を過ぎると木津となる。昔の商店街はさらに続く。しかし、袖うだつを持つ古い家であるものの、街道からわずかに引っ込んで建てられた住宅が見かけられる。前面に塀があったり、あるいは樹木などが植えられている。少なくとも、これらは店舗として建てられたのではないと思われる。

 「鉱泉所」と書かれた建物があった。「鉱泉所」とは何かと思って調べると、炭酸飲料の製造をしているところだという。つまり、ラムネやサイダーを作る工場なのだ。現在は営業していないと思われる。開いたシャッターから奥が見える。他の建物でもよく見かける玄関横の別の出入り口は、奥に続く運搬通路で、奥には作業所とか大きな蔵があったりする。近くの家に、真っ白の彼岸花が植えられていた。珍しいので撮影した。

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 虫籠窓のある大きな建物があった。たいていは奥行きは長いが、間口はさほど広くない敷地が多いのだが、ここは別格だった。

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 道路の角に合わせて建てられた店舗。元は酒屋だったようだ。



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2017年09月15日

南浜 (4) 始まり

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 鳴門の塩づくりは、慶長4年(1599)、撫養城代・益田大膳が、播磨から馬居七朗左衛門、大谷五郎右衛門を招いて、夷山周辺(桑島)に入浜塩田を開いたのが始まりとされている。

 しかし、竹島村(高島)庄屋・篠原孫兵衛が奉行に提出した文書や、桑島の橋本家の主張によれば、慶長元年の京畿大地震で斉田の土地が隆起したという噂を聞いて、淡路の人々がやって来て干潟を検分し、城代に建策して慶長3年には塩田築造を始めたようである。

 徳島藩は、塩田事業を主導するために、急いで前の領国であった播磨から有力な事業者を招いたのではなかろうか。その上で強力な保護にのりだしたようだ。

 塩田築造は、浅い海の中に堤防を築いて、その内部を適切な高さに埋め立てるもので、大規模な干拓事業であった。やって来た事業者は一定の資金力を持ち、とりあえず住み家を建てて、畑地を開墾しながら、人を集めて工事を始めたと思われる。築いた塩田は「捨て置かれ(課税されず)」「当分築いた者の所有とする」とされ、開墾中は「諸役免除」された。

 2代目小川三郎左衛門は「これはチャンスだ」と考えたのかもしれない。おそらく慶長4年に塩田築造を願い出た。彼は斎田村の南部に住んでいた。先代は播磨出身の浪士で、文禄年中(1592〜1595)に家人3名とともに撫養に来て畑地を開墾し始めた。生活が安定してから改名して小川三郎左衛門を名乗り、まもなく息子に跡目を譲り隠居したようだ。2代目三郎左衛門は、資金集めも人集めもでき、事業家としての才覚があった人物と思われる。

 塩田の工事が始まると、斎田村と木津村にまたがる新たなコミュニティーができ、南浜村として独立することになった。2代目三郎左衛門は、その創始者として政所(庄屋)となった。編入する者が次第に増加し、やがて大きな村になっていく。また、広かった内海がどんどん埋め立てられていくと、海の交通状況が変わり、古くからの港であった木津などはほとんど使われなくなっていった。2代目三郎左衛門は、開墾して自分が居住する地域に各種商家を受入れ、その地区はやがて四軒屋と呼ばれる商業地となっていった。

 四軒屋は、後に郷町に指定されて大きく発展した。郷町というのはかなり自由に売買が認められた(扱える商品に制限があったが)、いはば商店街であり、最初は徳島城下だけであった。

 南浜の事代主神社の近くに八坂神社とされる小さな宮がある。宝暦年中(1751〜1764)、何代目か分からないが小川三郎左衛門が通りかかると多くの蛇が集まっていた。蛇を取り除けると小さな刀があった。それを祭って「剣権現」として社を建てた。寛政の始めころ(1789〜1795)、お告げによってこれは祇園さまだということで牛頭天王を祭ることになり、街道沿いの現在の場所に移したという。明治になって神仏分離から八坂神社に改められた。

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2017年09月12日

南浜 (3) 町並より

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 前回、工事中であったところは完全に更地になっていた。奥の山際にも建物があったようで、形は変だがかなり広い。取り壊される前には下のような建物があった。廃屋になっていたが、以前は洋裁教室をやっていたらしい。

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 今回は、南浜の西の外れ、木津との境まで歩いた。多くの古い建物があった。しかし、その多くが以前は何かの商売をしていたと思われるのだが、建物からはなかなか想像できない。しかも、町家は奥行きが長く、裏へ回ると大きな古い蔵があったりして、表とはイメージが違っていたりする。

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 しっかりした「うだつ」をもつ家で、脇に小さな地蔵堂が建っている。

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 2階は土壁で、虫籠窓があるのがめずらしかった。昔は多くあったのかもしれないが、この辺りでこういう建物は他に見当たらなかった。

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 その前には「三拍子酒造」の蔵がある。蔵は休業しているらしい。焼酎の製造をしていた仲須政吉さんが大正6年に創業し、「田舎一」「名花」などの清酒を発売したが、政吉さんが亡くなって大正9年に廃業した。この蔵に資本参加していた村木幸次郎さんが引継ぎ、大正10年に改めて創業し、「冨久俵」「三ッ拍子」などを醸造した。「三ッ拍子」がよく売れたので「三拍子酒造」としたのではなかろうか。

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 さて、この建物が謎である。2軒をくっつけたような洋風建築で、窓が縦開きになっている。出入り口が6か所もある。左の玄関横には大きな赤いベルがある。右の玄関には目的の分からない金具が付いていて、脇にはコンクリートの小屋が離れて付属している。どういう目的で建てられたものだろう。

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2017年08月17日

南浜 (2) 町並より

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 事代主神社の斜め向かいに目立つ町家があった。1階と2階に瓦吹きの「うだつ」があって、屋根は優雅な曲線で膨らんでいる。2階の窓の欄干は木材を曲げて組み込まれているようだ。1階の格子は縦と横の2段になっている。派手ではないが、凝った建物であり、豪華と言ってもおかしくない。もちろん、何度か修復していると思われる。南浜の通りをちょっと歩いただけだが、その限りでは最も立派な住宅だった。

 全国どこの町もそうであったように、南浜の町家も側面がびったりと隣の家にくっついていた。火事になればどんどん延焼する。それで、たいていの建物の両側に簡単な防火壁が設けられている。これも「うだつ」であり、「袖うだつ」というらしい。それよりも頑丈に作られ瓦屋根が付いているのは装飾的意味あいが強く、町家にあっては資金力を誇示するものだった。

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 そこから少し歩いたところの町家に、不思議な看板がある。おたふくさんの面に、「ムヤ造車〇」と書かれている。〇の部分ははげ落ちたというより、わざわざ剥がしたように見える。考え込んだ。右から左への横書きだから、これは少なくとも戦前の看板ではなかろうか。〇の部分は「店」か、あるいは同じ意味の文字だと思う。では、「造車」とは何か。調べてみたが適切な意味に出会えなかった。

 ただ、この住宅は八木家で、道路の向かいに「八木自動車」があって、現在は自動車の販売修理を行っているようだ。家の裏には古い修理工場らしい建物もあるから、長年この仕事をしてきたのだと思う。しかし、だからといって、「造車」が自動車の販売修理を意味するとは限らないのではないか。不可解だ。家の人に聞けば分かるかもしれないとは思うが、「まあ、いいか」とつぶやいて立ち去った。

 南浜の街並みも次第に現代風の建物に代わってきている。工事中のところもある。その工事は、よもや修理ではないだろう。おそらくではなく、間違いなく解体工事なのだ。

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2017年08月15日

南浜 (1) 撫養足袋

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 最近、鳴門への往復に旧の撫養街道を通っている。姫田で旧道に入って、大代、木津、南浜を経て、斎田で巻きずしを買って、黒崎のマルナカに立ち寄って、小鳴門大橋を渡って高島に至るというコースだ。

 道幅が狭くて曲がりくねり、道の両端に電柱が飛び出していて、走りにくい。しかし、なかなかおもしろい建物があり、いわくありげな神社や寺などが多い。

 南浜の事代主神社の横に、古い工場のような建物があって、隣接して新しい工場が並んでいる。「潟Lントキ」と表記されている。現在、唯一残っている足袋製造の会社である。もちろん今は、足袋だけ生産しているとは思えないが、その経歴はとんでもなく古い。

 鳴門で足袋の生産が始まったのは、はっきりしないが、宝永から安永にかけてと言われる。1751年から1781年頃ということだ。その頃は、「こはぜ」が無くて、ひもが付いていてそれで縛っていたようだ。家庭で個人が縫い上げた足袋を小さな問屋が買い取って、数がまとまったら関西の問屋に売っていたものと思われる。撫養足袋の生産は南浜だけではなかったが、業者の数からして南浜が始まりのように思える。

 鯨のひげや金属で「こはぜ」が作られ、足袋の生産が本格的になるのは、明治になってからだが、幕末にはすでに年間30万足を生産していたそうだ。明治21年には営業組合が設立され、29年からは会社形態となっていった。

 大正に入るとミシンなど機械化が進み、第一次世界大戦による好景気を背景に、年間438万足の生産高となった。以後、世界恐慌や価格破壊もあって、波乱があったが、昭和11年には1000万足に達したといわれる。

 戦時中には資材の統制、人出不足で生産は縮小され、会社も二つにまとめられて、企業活動は停滞した。戦後復活したが、やがて需要が減少し、靴下や手袋に取って代わられ、廃業が相次いだ。

 「キントキ足袋」は、文久3年(1863)の契約文書に坂田屋という問屋名で記載されていて、その時点よりもずっと古くから足袋卸しに関わってきたものと考えられる。

 そこで気が付いた。なぜ「キントキ」なのかということだ。洒落なのだ。金時さんの苗字は「坂田」である。坂田屋は明治になって、屋号をそのまま苗字としたようだ。そして、会社を設立した時は「坂田合名会社」、昭和4年には「坂田兵助工場」としている。つまり、あくまで個人企業として経営し続けている。日中戦争が始まり企業統合されて株式会社とされた。「坂田」の個人名を名乗るわけにはいかなかったから「金時足袋株式会社」としたのではなかろうか。

 近くに廃工場と思われる建物が残っている。これは小橋足袋と思われる。この会社もかなり古くから続いてきた足袋卸し商である。隣に双愛足袋があったはずだが、すでに空き地になっていた。

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2017年08月05日

大代 (1)

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 8月4日、鳴門市大津町大代の郵便局付近に駐車した。その向かいに大江巳之助邸がある。普通の民家だが、玄関に文楽人形を描いた暖簾が揚げられている。

 大江巳之助は、明治40年に人形師の二男として生まれた。撫養中学(現徳島県立鳴門高等学校)に入るが病気のため中退。療養中に文楽人形の魅力に魅かれ、昭和5年に人形師見習いとして四ッ橋文楽座に入った。同じ年に4世大江美之助を襲名した。人形遣いの1世・吉田栄三や3世・吉田文五郎の指導を受けながら、人形製作については独学であった。昭和10年に文楽座付き人形師となり、巳之助と改名した。

 昭和15年に帰郷して文楽人形の修理や製作を続けたが、戦争中には村役場の職員となった。昭和21年に松竹から灰燼に帰した首(かしら)の復興を依頼されて人形師に戻り、国立文楽劇場が今日所蔵する400近い首のほとんどをつくり上げた。「魂を入れるのは人形遣いだ」として、「性格をとことん出す一歩手前で仕上げる」ことを心がけたという。

 昭和46年紫綬褒章、昭和51年吉川英治文化賞、昭和57年勲四等瑞宝章、昭和63年文楽協会功労者表彰、平成3年第3回文化庁長官表彰など数多くの栄誉に輝いた。平成4年には鳴門市市民栄誉賞を受賞している。平成9年に亡くなった。その後、大江巳之助の名跡は途絶えている。


 そこから少し行くと、卵の自動販売機があった。初めて見る自動販売機だったので撮影した。「あっちゃん100型」という販売機で、静岡県の「潟Aズマ・コーポレーション」の製品だった。窓口には袋に入った卵が詰まっているところをみると、ちゃんと稼働しているのだ。

ous804-2.JPG さて、そこから大代古墳に行こうと思って北上した。狭い地域だから適当に走ればすぐに到着できると考えていたのだが、そう簡単なことではなかった。とんでもなく細い道がくねくねと曲がり、交差し、気が付けば行き止まりになる。2回くらい慎重にバックして脱出した。「慎重に」やらなければ脱輪するのだ。3回目の行き止まりには小さな神社があった。「船戸神社」とあった。「おふなたさん」なのかなと思うが、よく分からない。

 山際をぐるぐると迷いながら走った印象として、狭い範囲に神社が多い。明治の神社統合があまり進まなかったのだろうが、この付近が何らかの聖地であるかのように錯覚する。

 ようやく、大代古墳の下にある駐車場に到着した。軽自動車が1台停まっていたが、辺りに人の気配はなかった。

ous804-3.JPG 大代古墳は、四国横断自動車道建設の事前調査で見つかり、2000年に発掘調査が行われた。前方後円墳とその前後に2基の円墳があった。前方後円墳からは、竪穴式石室とその内部に香川県大川郡に産する白色凝灰岩をくりぬいた舟形石棺が発掘されて、多数の遺物も出土した。被葬者は香川県の津田湾岸の部族と密接な関係をもち、付近の海上交通を掌握していた首長でなかったかと想像されている。

 また、前方後円墳は全長54メートル、後円部東西径45メートル、前方部長さ23メートルという大きなもので、県内では5番目とされる。出土品から4世紀後半に築かれたと判定されている。前後の円墳についてはあまり言及されていないようだが、同時に発掘されているので調査報告はされていると思われる。3号墳には図面に石室らしい記載があるようだ。尾根の南端にあって、前方後円墳築造より前にあったのではなかろうか。

 道路建設に伴い切り崩されるはずであったが、わざわざトンネルを掘って、古墳を保存することになったらしい。しかし、高速道路の真上なので、通常は立ち入り禁止となり、年に1回の見学会以外には入れない。そのため残念ながら画像は掲載できない。

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2014年09月10日

木津(きづ) その1

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 9月4日、休暇をとって鳴門の雑草園に行こうとした。朝から少し雨が降っていたのだが、たいした雨量ではないし、そのうちやむだろうと期待していた。しかし、出発してからも雨は降り続き、野外では傘が必要なレベルになってきた。

 これでは草抜きは無理だ。バイパスの登り口手前でコースを変更し、木津の城山に向かった。直進すると天理教撫養大教会がある。背後の山が木津城山である。その横を通り抜けたところに八幡神社がある。朱塗りの小さな門があり、そのすぐ奥に拝殿がある。後に小さな祠がいくつかあった。

 この神社は、もとは城山東麓にあったが、城主の霊夢によって、現在地である西麓に移されたそうだ。天文元年(1532)のことで、当時の城主が誰なのか知らないが、南に吉野川が流れ、北や西側にも水路があったと思われるこの城にとって、陸続きの東に神社があるのは防御のうえで邪魔だったのではなかろうか。

 この八幡神社は、文禄4年(1595)にも本殿が再建されている。「土佐白髪山から吉野川を流した木材筏がここで立往生したが、当社の霊験により流すことができた」ことから用材が寄進されたといわれる。堆積物で吉野川が浅くなり、流路を変えようとしていたのかもしれない。

 慶長12年(1607)にも建てなおされ、木津、大津町全域と姫田の10ヶ村の氏神として、大宮八幡と称したという。

 この付近から城山への登り口があるのではないかと思って、裏にある津波の避難所まで登ってみた。そこからさらに広く掘り崩された広場があったが、シダが生い茂っていて、とても入りこむ気にはならなかった。

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 木津は、古代には港であったといわれる。当時の地形がどのようになっていたか詳しくは分からないが、現在の鳴門市街は幾つかの島が浮かぶ海であり、木津の南側は大きな船でも安全に停泊できる深い入り江であったと思われる。

 律令国家ができると、南海道として官道が整備され、鳴門は四国の玄関になっていたようだ。紀伊の加太から淡路の由良に渡り、三原の淡路国府を経て福良から牟屋へ、後は陸路で四国の各国府に繋がっていた。しかし、この牟屋というのは、かなり広い地域を意味しているようだ。

 承平5年(935)、紀貫之は土佐泊に1泊して大阪湾に入った。長元2年(1029)に阿波の国司となった藤原基房は「こつかみの浦にとしへてよる波も同じところにかへるなりけり」と詠んでいる。こつかみは木津神で、木津に着いたのだ。「きづ」ではなく「こつ」と発音されている。仁治4年(1243)、讃岐に流された学僧・道範は、左伊田(斉田)に上陸した。許されて帰る時には紀津で船に乗っている。

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2013年08月26日

鳴門の酒蔵

福寿醤油

 ドイツ館の前にある「道の駅」に立ち寄った時、醤油の小瓶を買ったことがある。鳴門の「福寿醤油」であった。おいしいと思っていた小豆島の醤油がそろそろ無くなりそうだったからだ。

 それからしばらくして、コスモス畑を巡った時、堀江郵便局の裏に、蔵に違いない黒い建物群があるのを見つけた。白い煙突には「福寿醤油」と書かれていた。ここがその蔵なのだと知った。しかし、鳴門に向かう道路の右側であり、帰り道は別コースなので、立ち寄ることがなかった。

鳴門鯛・大吟醸 先日、たまたま同じ道を帰ることになって、時間の余裕があったことから、寄り道して福寿醤油の玄関を撮影した。ところが、ここには道を挟んでもう一つの蔵があった。「鳴門鯛」の酒蔵であった。県内では結構有名なのだが、松浦酒造がこんなところにあるとは知らなかった。

 松浦酒造は、文化元年(1804)、二代目松浦直蔵由往によって創業されたという。明治19年に「鳴門鯛」を登録商標としている。

 漆喰の蔵に挟まれた長屋門を入ると、戦前の民家の一角に「鳴門鯛」の暖簾が揺れていて、販売店のようなので、「準備中」と表記されていたが恐る恐る戸を開けた。たくさんのお酒が並んでいて、店員さんも居た。

吟醸・生原酒 「お勧めはなんですか?」と聞くと、「生原酒が人気です」と言って、展示してあるアルミ缶が示された。手に取ると空き缶だった。店員はあわてて「生ですから実物は冷蔵庫にはいっています」と付け加えた。で、この吟醸・生原酒と、大吟醸いずれも720mlを買った。

 私は元々日本酒が好きで、普通酒または純米酒を燗して飲んでいたのだが、健康のため焼酎に変更し、現在は芋焼酎をロックまたはペリエで割って飲んでいる。時々赤ワインも飲む。

 ところが先月、土佐鶴の原酒やら大吟醸をいただいたので、晩酌の途中で一杯は日本酒を冷やで飲むようになった。そもそも良い酒だから実においしい。買ってきた「鳴門鯛」もこれに劣ることはなかった。

本家松浦酒造場

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2012年10月29日

友好コスモス祭り

堀江郵便局前のコスモス畑

 私のコスモスは終わって後片付けに入り、水仙の芽が出始めていますが、「鳴門市友好コスモス祭り2012」は今を盛りに開催されています。期間は10月7日(日)〜11月11日(日)となっています。

 冒頭の写真は、堀江郵便局前のコスモス畑です。藍住町からここを通って鳴門に向かいます。宇志比古神社への参道横です。

内の海海浜公園のコスモス 高島への橋を渡ってまっすぐ行って突き当たりにウチノ海総合公園があります。ここには5万本のコスモスが植えられ、友好コスモス祭りの中心地になっています。22日に来た時には保育園の子供たちがいっぱいで、シャボン玉を飛ばしながら大騒ぎをしていましたが、今日は天気が悪いせいか人影がなく、たくさんのコスモスだけが風に揺れていました。少し不気味な気もします。

 鳴門市では、1989年に女性7人が「花いっぱい運動」を始め、バーベナテネラ、次いで鳴門市の花・ハマボウ栽培を進めていました。一方で第1次世界大戦の時の板東俘虜収容所の縁からドイツとの友好も進んでいました。1992年に、姉妹都市・リューネブルク市親善使節がドイツコスモスの種を贈呈したことからコスモス栽培が拡がり、「日独友好コスモス祭り」が始められたのは1998年頃と思われます。

斎田・汽車公園のコスモス 私のコスモス園で、倒れたコスモスを抜き取ったり、草抜きしたりし始めましたが、まもなく雨が降り始めたので、作業をやめました。すでにコスモスは小さな花がぽつぽつと咲いているだけで、種をもう少し成熟させるためにそのままにしてあるだけなのです。来週には大部分を抜き取る予定です。

 いつもの店で巻き寿司を買って、汽車公園に立ち寄りました。日本のあちらこちらを35年間走ったC-11型66号機関車が展示されている小さな公園です。ここは日当たりが良くないのか、コスモスがあまり花開いていません。ですが、プラットホームにお接待所が設けられて飲みものなどがふるまわれていました。

ドイツ館前で獅子舞 再び、堀江のコスモス畑を通り過ぎて、ドイツ村公園に向かいました。ドイツ館の前にはテントが並び、バザーや軽食の販売が行われていました。ちょうど獅子舞が始まりました。太鼓と拍子木に合わせて2連の獅子がくっついて踊る。「桧獅子舞保存会」というのぼりが立てられているところをみると、この地域に伝わる獅子舞のようです。

 ドイツ館のコスモスは少し山を登った一角に栽培されていた。展望台にお接待所があって、お茶を配っている女性が「ここのコスモスのうち、手前の背の低いのがドイツコスモスです」と説明してくれました。しかし、実のところどれがドイツなのか日本なのか分かりませんでした。

ドイツ館のコスモス

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2011年11月13日

大谷焼窯まつり

東林院と窯まつり2東林院と窯まつり

 鳴門市大麻町の東林院で、恒例の大谷焼窯まつりが始まりました。7軒の窯元が持ち寄った3万点以上の陶器が展示・即売されます。高島の雑草園に行く途中なので立ち寄りました。

 「大谷焼」は、安永9年(1780年)、四国八十八箇所霊場の巡礼にきた豊後の国の焼物細工師・文右衛門が、蟹ヶ谷の赤土を使ってロクロ細工を披露し、庄屋・森是助が、素焼窯を築いて焼いたことにはじまると言われます。

 徳島藩がこれに着目し、この大谷村に藩営の窯を築き、染付磁器の生産を始めました。現在の大谷焼とは異なり、白地に藍色で絵柄を描いた陶磁器です。中国の元で、コバルト顔料をを使って作り始められ、17世紀にこれを模倣して有田焼が作られました。徳島藩は、これに倣ったものと思われますが、うまくいかなかったのか、藩窯は天明3年(1783)に廃止されました。

 その後、藩窯の創設にも尽力した賀屋文五郎が藍商の旅先にて、知り合った陶工忠蔵を連れ帰り、弟の納田平次兵衛に瓶造りの陶技を学ばせました。網田平次兵衛は苦心の末、天明4年に窯を築きました。今度は信楽焼に倣い、藍染に使う大甕を生産しました。これが現在の大谷焼の基礎になりました。平成15年(2003)に経済産業省指定伝統的工芸品となりました。

本日の購入品小石のコレクション

 その日は、杯や小皿を購入しました。杯はお酒を飲むためですが、小皿は「石のコレクション」のためです。各地の小石を小皿にのせて飾っているのです。

滝の焼きもち 東林院への参道脇で、焼き餅が販売されていました。眉山の「滝の焼き餅」とそっくりなので、「同じなのか」と尋ねました。お婆さんは「私は何十年も眉山で焼き餅を焼いてきました」と答えたので、買いました。

 粳米と糯米を丁寧に石臼で挽き、天日で干す。眉山から湧き出る錦竜水で練り、さらし餡を入れて焼く。菊の模様を付けて平らにしたお餅です。餡は和三盆を使いあまり甘くなく、少しざらつく米の皮の舌触りとマッチして何とも言えない不思議なおいしさがあります。

 天正13年(1585)、蜂須賀家政が徳島城を築いた際に、その祝いとして献上されたというから、ずいぶん古くからあるお菓子らしいです。しかし、天正13年中は、徳島城は建築途中で、家政は一宮城に居たはずなので、この由緒はちょっとおかしい。


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2011年06月24日

高島の塩 (その4)

鳳鳴閣
 画像は撫養町役場であった鳳鳴閣。後に鳴門市役所となった。労働組合の大会などの会場としても使われていたようだ。(鳴門市ホームページより)

 かつて鳴門市は塩田の町であった。とりわけ、高島は全島が塩を作るための工場のようであった。塩田以外の産業は無く、水も食料も外部に依存していた。労働者(浜子)らは島の中央部に大きな集落を形成していた。石垣を築いて迷路のように入り組んだ構造は今も残り、町自体が一つの集合住宅であるかのようだ。

 労働者は、基本的に前借りによる1年契約であったらしい。年末に団体交渉のようなことが行われ、時としてストライキや怠業もあった。明治も末の話である。

 高島を訪れた宣教師が、雀も結束すれば鷹に勝つと煽ったことから明治45年、労働組合が結成された。その後、鳴門の各塩田に労働組合ができ、大正10年には8労組が集まって撫養塩田労組連合会ができた。

 大正15年、高島の労働者らは、要求を正面からぶつけない中央組織・総同盟と袂を分かち、労働評議会に加盟した。そのため連合会は二つに分裂した。組合員260名は、妙見山頂までデモ行進を行って気勢をあげた。おそらく徳島県初めてのデモ行進だったのではなかろうか。さらに、鳳鳴閣(撫養町役場)で大演説会を開催した。

 昭和2年、彼らは過去1年間の経営数字を突き付けて、大幅賃上げが可能だと主張した。たちまち交渉は決裂してストライキに入った。経営側(浜人会)は労働組合の切り崩しを図ったが成功しなかったため、全員を解雇した。男たちは大阪に働きに出て、女たちは詠歌隊を編成して地域に支援を訴えた。浜人会は県外から労働者を雇った。組合はその労働者らに退去を迫った。浜人会は、右翼壮士を雇い、組合の行動を妨害した。組合は自衛団をつくり、上部団体から応援闘士を呼んだ。県内から武術に優れた警察官が集められ、外部からの支援者を排除した。争議は105日間におよび、どうにもならない状態になったが、労使ともに疲弊し、各方面からの働きかけがあって和解した。

 大幅賃上げは実現しなかったが、旦那の専横に耐えてひたすら働く奉公人の時代は終わった。直ちに何かが変わった訳ではないが、争議の中で、互いに人間としての素顔が見えたのであり、良くも悪くも元に戻ることはできなかった。

 今、塩田公園に一軒の窯屋が保存されているだけで、全ての塩田は消滅した。しかし、時代は変わっても、新たな矛盾に新たな争議が繰り返される。公園には、宮崎寒水の句碑がある。「塩田が埋まってゆくや懐手」。大正8年に生まれ、平成4年に亡くなった寒水は、懐手をして何を思っていたのだろう。

寒水の句碑


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2010年11月21日

バルトの庭


バルトの庭

 1914年に第1次世界大戦が勃発して、8月には、日本はドイツに宣戦布告して、ドイツ領南洋諸島を占領し、青島を攻撃した。青島は、ドイツが1898年以来築いてきた東洋における根拠地であったが、77日におよぶ攻防戦の後、11月に降伏開城した。捕虜が4600人におよび、日本の各地に護送収容された。しかし、当時の日本では多数の捕虜を長期間抱えることは想定されていなかった。国際法上の捕虜待遇改善を目的として新たに収容所が新設され、その一つが徳島の板東捕虜収容所だった。1000名以上が収容された。

 ここでの捕虜の待遇は、アメリカの外交官・サムナーの視察でも評価された。とりわけ、地域の日本人との文化的交流があったこと、ベートーベンの第9交響曲がアジアで初演されたことが今日的評価になっている。映画「バルトの楽園」では、会津出身の所長・松江大佐の人間的配慮が強調されているようだ。ただ、特別に優遇されたという訳ではない。

 映画「バルトの楽園」のロケ村はしばらく残され、観光地になっていた。2006年5月に、私は妻と共にこのロケ村を訪ねている。その後、この地は所有者に返還され、建物は売りに出された。

 ところが、先週、パンフレットを見かけて、それによると、主要な建物が県道沿いの別の場所に移築され、「バルトの庭」として復活していることを知った。で、本日(11/20)立寄ってみた。入場料が大人400円だが、酒保でコーヒのサービスが付いている。先のロケ村に比べて敷地が狭いので、展示や商品に工夫が必要ではないかと思われる。今回は、9ピンのボーリングのピンの並べ方を見て、なるほどと思った。

 その後、県道を隔てたドイツ村公園に入り、バラッケ(収容兵舎)のレンガの土台を見たが、入り口面の土台が水平でなく、中央に向かって倒れ込む斜面になっていた。映画で再現されたバラッケとは建て方が違うようである。建物中央の通路は地面と面一のレンガ道になっていたのではなかろうか。

収容所の記念碑 公園を抜けて、奥にある溜め池のほとりに記念碑がある。近くの主婦・高橋さんがドイツ兵の墓として13年に渡っておまつりしてきたことが、1960年に新聞報道された。これがきっかけで日独親善が進み、鳴門市とリューネブルグ市との姉妹都市縁組、第9を歌う会、ドイツ館や公園の整備など様々な行事や施設建設となった。高橋さんは韓国からの引揚者で御主人はウズベキスタンに抑留された。異国で亡くなったドイツ兵に共感をもったのかもしれない。御子息は私の会社に勤めていた。

 ドイツ館は、最初はドイツのアパート住宅風の建物であったが、現在はリューネブルグ市庁舎に似た立派なものになっている。その前にバラッケを移設した「道の駅」ができている。これは払下げられて残っていた本物のバラッケを修復したらしい。ここにも立ち寄り、ゆずジャムと醤油を買った。その上にはベートーベンの像があるが、見に行く気がしなかった。

ドイツ館と道の駅

 収容所には二つのオーケストラ、吹奏楽団、合唱団、マンドリン楽団があって、活発な演奏活動をしたらしい。ベートーベンの「第九」の初演はよく知られているが、「第一」も「第五」も日本での初演であったようだ。捕虜たちにとって音楽はとても重要だったのだと思われる。人気があったのはタイケの行進曲、ベートーベン、ワグナーだったそうだ。

メガネ橋 ついでに、大麻神社の裏にある捕虜たちが造ったドイツ橋とメガネ橋を見物した。メガネ橋は日本風の池に造られた遊歩道に付属する小さな橋であった。ドイツ橋は山上にある丸山神社・丸山稲荷に続く参道にかかっている。橋自体は通行禁止になっていた。ところで、丸山神社・丸山稲荷は向かい合わせに建てられた小さな神社なのだが、これはどう見ても前方後円墳の上と思われる。円墳の頂に丸山神社があって、そこから細い通路状の突き出しが延びていて、その端に稲荷神社がある。宝幢寺古墳に似ていて、全長は100mを超えると思われる。

 大麻彦神社は、七五三の祈祷に多くの盛装した子供たちが集まっていた。
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2010年11月07日

萩原古墳群

 11月6日、萩原2号古墳に立ち寄る。考古学的には「萩原2号墓」となっている。供えられていたと思われる土器片が2世紀末から3世紀始めのもので、古墳時代より前のものであることが明らかになったため、「古墳」とは呼べないというおかしな話になっている。

萩原2号墳想像図 写真も撮影したが、瘤のように盛り上がった小山にしか見えないので、想像図を描いてみた。低い円形のテラスの上に石積みがあって上面は平たんになっているようだが、中央の埋葬部にはさらに墳丘か何かがあったかもしれない。5mほどの突き出しが南の平野に向かって張り出している。2004年の発掘で「木槨」構造があったとされ、奈良のホケノ山古墳(最古の前方後円墳といわれる)と共通していることから、前方後円墳の原形として注目されている。

 消滅した1号墳も再確認した結果、ほぼ同時期3世紀前半に築かれたということになり、「1号墓」と呼び名を変更された。埋葬部もやはり「木槨」があったと訂正されている。1号墳は周壕が確認されていて、前方部の付け根に甕棺が埋められていた。ホケノ山古墳もやはり付け根に埋葬跡がある。ついでに1号墳の想像図も描いてみた。

萩原1号墳想像図

 1号墳の削除跡には、小さな「たこ焼き屋」のプレハブがあるだけで空き地同然である。どういう経過があったのか知らないが、こんなことなら遺跡を残して公園にでもしておけば良かったのではないかと残念に思う。

 池の谷の周辺は今、コスモスの花盛りである。鳴門市花街道の運動でそれぞれの季節の花を道路沿いに咲かせているらしい。ネットワーク加盟の約80の団体・個人は、コスモス祭りに開花を合わせようと、8月中ごろに種まきをしたが、厳しい暑さが続き、ほとんど雨が降らず、発芽がかなり遅れた。日照りで枯れてしまうこともあったらしい。コスモス祭りは11月3日に終わったが、その後になって、鳴門市にはコスモスの花が咲き乱れている。

コスモス畑
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2010年11月04日

宝幢寺(ほうどうじ)


宝幢寺本堂 鳴門市池谷の宝幢寺を訪ねた。由緒書きによると、少し北に入ったところにかつて勝明寺という寺があって、この付近の豪族の菩提寺であった。7世紀に建てられ、行基作の地蔵菩薩と浄澄作の薬師如来を本尊としていたが、鎌倉初期に雷火により焼失し、廃絶していた。それを寛永15年に再建したのがこの宝幢寺だとのことである。

 ここには萩原古墳群の一部が移設されている。フェンスで囲まれた中に三つの石囲いが並べられている。四角い穴を掘って側面を石で囲んでそこに遺体を埋葬したらしい。

お聖天さん その隣には「お聖天さん」を祀った祠がある。お聖天さんとは歓喜天であり、元は小高い山の上にあったらしい。いろいろな経過があって平成12年にここに移転したそうだ。引き合いに出されているのは香川県の五剣山・八栗寺だ。そこは四国八十八ヵ所の85番であり、本尊は聖観世音だが、本堂左前の聖天堂に「歓喜天」が祀られている。歓喜天はインドでは「ガネーシャ」と呼ばれ、頭は象で身体が人間の男女二像の和合神である。現世ご利益に霊験あらたかということで人気がある。

 ところで、宝幢寺の裏山には古墳がある。前方後円墳なのだが、一般的な形ではない。手鏡のような形をしている。つまり、丸い墳丘の北側に細長い通路のようなものが付いていてその端は台状になっている。墳丘は山を削りだして築かれ、周囲にテラスがあって円筒埴輪と朝顔形埴輪を立て並べられていたとみられる。その埴輪から4世紀中頃のものと考えられているが、もっと古いのではなかろうか。

 谷を挟んだ西隣の尾根には以前紹介した「天河別神社古墳群」があって、そこの4号墳が形ははっきりしないものの良く似ているように思われる。やはり北の山に向かって前方部が細長くのびている。出土した土器によって5世紀とされているようだが、そうではないと思われる。

 これらの古墳は、集合墓地のようであり、何世代にも渡って周辺に埋葬が続けられているので、最初の古墳は相当に古いと考えられる。外周の土器や埴輪から年代を特定することには無理がある。副葬品は鏡や勾玉などわずかにあるが、年代特定には幅がありすぎる。

 さらにその西隣尾根に萩原1号墳があった。県道を通すためにすでに山ごと削られてなくなっている。これは積石塚で円形の石積みに通路状の列石が付いていた。これも北の山に向かって登っていて、その端は円墳部よりも高くなっていた。

萩原1号墳想像図

 善通寺の野田院(のたのいん)古墳の画像を掲載したが、萩原1号墳の想像図を描いたので差し替える。上面はどうなっていたか分からない。石英質の白い丸石で覆われ、祭壇のような積み石あるいは墳丘があったかもしれない。周壕が取り巻いていて、前方部の突き出しも石積みである。突き出し付け根の両側に甕棺が埋められていて、おそらく小さな墳丘があったに違いない。この突き出しは工事のための通路などでなく、宗教的な意味を持っていたと考えられる。

 こうした古墳は、どう見ても通常の前方後円墳に先立つ、その原形と思える。天河別神社古墳の3号墳は通常の前方後円墳の形をしていて、前方部が南側にあって平地を向いている。宝幢寺古墳群の3号墳は田の中に埋まっていて、平地部に築かれていた。つまり、時代が下るに従って、山の上から平野に移り、なじみのある前方後円墳の形になっていっているのではなかろうか。そうすると、近畿の大王墓も、香川や徳島にまたがる東四国の古墳から発展したものということになる。
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2010年09月27日

高島の塩 (その3)


高島・昌住寺

 元禄の頃から(1688〜)、瀬戸内沿岸に塩田が増加し、「新斉田塩」の名ででまわり、鳴門の塩は「本斉田塩」を名乗った。しかし、塩の生産量が増加したため、塩価は下がる傾向にあった。寛政年間(1782〜)から、燃料の薪の値段が上がりしばしば採算がとれなくなった。寛政9年(1797)には、藩から拝借銀を受けている。とりわけ、高島は米から水まで他村に頼っていて物価の動向は大きな影響を及ぼした。

 寛政6年(1794)、高島村手代・伊丹藤佐衛門は、「重宝金」という制度を提案して実施した。塩一俵あたり1厘を徴収して、凶年や災害時に貸与するという共済のようなものであった。寛政8年、藩もこの制度をとりあげ、鳴門12ヶ村に拡大した。

 徳島藩は寛政期に大幅な行政改革を行った。その一環として、享和3年(1803)に塩方代官が廃止された。塩方分一所も無くなり、監督は板野郡代が行うことになった。郡代は塩方御用に鳴門に出張することとなった。塩税は地面請に改められた。塩田をその生産力によって9段階に別け、生産量を計算して1俵につき2分徴収するものであった。高島村の場合、年間16358俵分の減税になった。立岩村など3村で増税になっているが、鳴門全体として6万俵分ほどの減税となっている。

 しかし、この年は塩の豊作がみこまれたことから、板野郡代は新税制を施行せず、旧制度で課税し事後承認を求めた。しかし、これは問題になり郡代3名のうち2名は役を免ぜられた。

眉山の墓 篠原邸の北には大きな墓地が拡がっている。長昌庵墓地と呼ばれている。昌住寺配下の庵があったのだろう。この墓地を歩いてみた。その中で目をひいた墓を二つ紹介する。

 メイン通路沿いに石碑のような墓があった。「名は達(?)、眉山と号す。通称は信助で8代彌治兵衛の次男。若くして中井竹山の塾にあってその名を知られた。たまたま病を得て没す。享和3年2月23日。時に21歳(原文は漢文)」と碑文がある。将来を期待された才人だったのだろう。竹山は高名な儒学者で、大阪・尼崎にあったその塾は懐徳堂といって官許学問所となっていた。西日本における学問の頂点であったという。

三世庵竹叟の墓 墓地入り口付近に六角形の墓がある。破損がひどく碑文は読めなかったが、鳴門市史に記載されていた。「名は君聰、字名は景思、通称は禮蔵。三世庵竹叟と号す。篠原家に生まれ、益富家を継ぎ久左衛門を襲名した。風流で頭がよく、幼い頃から書を読みよく理解した。大阪に出て、尺艾(淀名和氏。其日庵と号す。下総生まれ、大阪に定住し、上方俳壇で名を成した)に俳諧を学んだ。数年にして奥義を悟って帰郷。塩会所に勤める傍ら朝に夕に吟詠した。老いてもしっかりしていたが、慶応元年に病を得て卒す。享年86歳。後継ぎが先に亡くなり、片山家から養子をもらった。十朋、通称は幸太郎が業を継いだ」といった内容である。一句が添えられている。「さためなき空やしくれの初月夜」

 文化4年(1807)、高島村・橋本民右衛門は、備後で石炭焚きの伝習を受けてきた。この頃、塩作りに石炭が利用され始めていた。石炭は、室町時代から、筑豊地域で燃料として使われていたようだが、産業用には使用されていなかった。石炭は薪に比べて火力が強く、燃えがらが残り、種類・等級によって違いがあり、使用するには一定の経験と技術が必要だった。しかし、徳島藩では石炭焚きは禁止されていた。塩作りのための薪の栽培・生産も重要な産業であったからである。

 文化9年(1812)、西国の石炭焚き塩がよく売れたため、徳島でも石炭の3分焚きが認められ、さらに惣焚きも試しとして許可された。文政4年(1821)から全面的に認められた。はたして薪の供給地であった淡路・阿那賀、北灘は困窮した。

 この頃、塩焚百姓と呼ばれた塩業者「浜屋」には、「元浜人」といわれる塩田地主と自作、「借浜人」である小作、請負があった。労働者は「奉公人」と呼ばれ、雇い主に隷属していたが、番頭から住み込み、窯焚き、浜引きなどあり、そのなかでも様々な階層があった。「浜屋」の一軒前は平均して1町5反から2町の塩田を経営していた。

高島の町 高島では地主や問屋など特権階級は主に東の山際に邸宅を構え、窯屋は塩田の中に散らばっていたが、その他は島の中央部に大きな集落を形成していた。現在、古い屋敷はもはや残っていないが、風よけに石垣を築いて迷路のように入り組んだ村の構造は今でもそのままである。村自体が一つの集合住宅であるかのような印象を受ける。
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2010年08月15日

人丸神社 その2


人丸神社 前回、この神社について「 里浦の人丸神社は、『天神の森に年久しく祀られてあった古祠を寛政の頃ここ北の山根に移し社殿を造営した』そうだ。享保以降に疫病除けのため、明石の人丸神社から分祀されたと考えるのが自然ではなかろうか」と書いた。

 しかし、どうやらそうではないらしい。元禄の頃、和歌が盛んになり、歌人たちの間で「後拾遺和歌集」などに出てくる「里の蜑(あま)」の歌がすべて里浦にかかわるものという説が広まったらしい。そのため、国内外の歌人や俳人が鳴門見物に訪れた時、里浦に立ち寄り「里の蜑」を題に和歌や俳句を詠むようになった。

 4代藩主・蜂須賀光隆(1630〜1666)は、自らの歌集を「里蜑集」と名づけている。「さとのあまの なれしなからも 打侘びぬ うきねにこよひ 浪枕して」

 京都の歌人・有賀長伯は、享保元年(1716)、5代藩主・綱矩の子である吉武に招かれた時、里浦を訪ねている。「ことのはの 道のよすがを おもふにも うらなつかしき さとの海人」。享保9年にも招かれ、徳島城・西の丸での歌会に出席した。この時は、門人の道工正央(どうくまさちか)に勧めて里浦を訪ねさせている。「けふもまた 立寄り里の 海士衣 うらなつかしき よすが尋ん」

 宝永5年(1708)に里浦の神職の家に生まれた宮崎道治は、歌人でもあった。彼は自分の屋敷に柿本人麻呂の肖像画を祀るようになったという。やはり、人麻呂の没後一千年にあたる享保8年(1723)、朝廷から正一位柿本人丸大明神の名号が追贈されたことがその動機になったのではなかろうか。

 つまり、里浦の蜑が歌枕となり、各地の歌人が訪れて歌を詠み、歌聖・人麻呂の画像あるいは木像に奉納するという形になったのである。そうした形は何も里浦に限ったことでなく、各地の歌枕の地で流行したのではなかろうか。

 後に、宮崎道治の孫・道綱が、天神社の境内に人丸神社を建て、さらに、寛政4年(1792)に現在の場所に移して社殿を造営したそうだ。

 「防長人丸社新考」では、「圧倒的に疫病除けに効験をもとめるものが多い」とされているが、この頃、全国に人丸神社が数多くできたのは、やはり、それに先行した和歌の興隆が大きく関わっている気がする。
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