2019年03月19日

西国33所 (26) 善峯寺

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 暗い雲に覆われていた。にもかかわらず、時に晴れてまぶしい日が射した。バスは京都東で名神高速を降りた。京都市内で先達さんを迎えるためだった。再び桂川を渡って、洛西の団地の中を通って善峯寺の麓に到り、さらに山道を登って、お寺直下の駐車場に入った。

 京都では朝、雪が降ったそうだ。東門の石畳には雪の塊が少し残っていた。こけら葺きの屋根からは白い湯気のようなものが立ち昇っていた。

 観音堂(本堂)の内陣に上がる。ここは長椅子席が並んでいた。先達さんの音頭で勤行を行う。開経偈、懺悔文、そして般若心経、観音経第25偈は長いので省略して延命十句を3遍、千手千眼観音さまの真言を3返唱える。その後、個人の祈願をして回向文で終わるのだが、私の場合はこの部分は無い。

 本堂の隣は小高い岡のようになっていて、最上段には桂昌院の廟がある。岡は日本一の松といわれる「遊龍の松」に取り巻かれている。その向こうに京都の町が一望できる。周囲には桂昌院にまつわる建物や樹木が集まっていた。

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 桂昌院は、京都の町娘であったと言われるが、大奥に仕え、春日局に認められ、3代将軍家光の側室となった。その子が5代将軍綱吉になった。家光の死後、彼女は落飾して筑波山知足院に入っていたが、将軍の母として江戸城に帰ってきた。元禄15年(1702)には女性最高位の従一位に上り詰めた。通称がお玉さんであったことから、「玉の輿」の語源になったとされる。

 宝永2年(1705)に79歳で亡くなった。亡骸は江戸の増上寺に葬られたが、遺髪がここ善峯寺の廟に祀られた。桂昌院はかねてから善峯寺に多くの寄進をして、現存する観音堂、鐘楼、護摩堂、経堂、薬師堂、鎮守社などの建物を復興させた。ふるさとへの強い想いがあったのだろうか。お手植えのしだれ桜の下に、歌碑がある。「春ははな 秋はもみじの むすび木は この世のしやわせ めでたかりけり」。

 善峯寺は、長元2年(1029)に源算上人が千手観音を刻んで開山したとされる。イノシシの大群が現れて一夜で整地されたという伝説が残る。皇室の崇敬を受けて、室町時代には52に及ぶ僧房を抱える大寺となった。しかし、応仁の乱により焼失して荒廃したという。桂昌院の実家は公式には本庄氏で、父親は善峯寺の薬師如来を信仰していたらしい。桂昌院は「たらちをの 願いをこめし 寺なれば 我も忘れじ 南無薬師佛」と、歌い残している。

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 「幸福地蔵」というのがあった。「自分以外の人の幸福をお願いする」地蔵さんというのが珍しい。妻はこのお地蔵さんの土鈴を買おうと考えていた。それは西山三山の土鈴守りのことで3種類あって、そのうちの一つが善峯寺の幸福地蔵だった。ところが、販売されていたのは一つだけで、彼女はそれを幸福地蔵と思って買ったのだが、どうも違うようだ。検索したところでは、それは光明寺のもので、法然上人なのではなかろうか。

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2018年12月10日

西国33所 (25) 圓教寺

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 建物の隙間から姫路城の天守がちょっとだけ見えた。それだけかと思ったのだが、まもなく城の横を通り過ぎて、ひと時、姫路城の全景を見ることができた。いつだったか忘れたが前回見た時には天守は工事中で足場に覆われていた。今回は長大な石垣とその端に二つの天守が建っていて、素晴らしく調和のとれた眺めだった。

 まもなく目的の書写山とロープウェイが見えてきた。しかし、その辺りから車の列が動かなくなった。その日は日曜日で「もみじ祭り」の最終日ということで、車列はみんな圓教寺に向かっていたのだった。ロープウェイ乗場の駐車場がいっぱいで、なかなか車が入って行けないものだからバスもさっぱり動かない。私たちはバスから降りて歩いた。ロープウェイは目の前であったし、5分間隔でフル稼働していたのですぐに乗ることができた。

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 山上からは歩いた。山上バスが運行されていて、それに乗る人もいた。参道には西国33所のご本尊さまが並べられていた。青銅製の立派な像だが、露天に置かれていた。銅像とはいえ傷みが早いのではないかと思った。十妙院付近からは紅葉が多くなった。30分くらいで摩尼殿に着いた。ここが六臂如意輪観音が安置されている札所本堂である。高い舞台からは見事な紅葉が眺められた。

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 納経を終えて、途中の大仏様(というほど大きくはないが)に参拝して、三つの堂に向かった。そこは大講堂と食堂(じきどう)と常行堂がコの字形に並んでいる。

 食堂は、単純な切妻屋根で、低く見える地味な建物だが、見かけ以上に巨大で、しかも二階建であった。2階は多数の仏像などを展示していて、まるで博物館だった。仏像大好きの妻は熱心に見て回った。

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 このお寺も天台宗だ。それも「西の比叡山」と呼ばれるほどで、中世には、比叡山、大山とともに天台宗の三大道場といわれたそうだ。開山は康保3年(966)、性空上人によると伝えられている。しかし、それ以前から素盞嗚命を祀る祠があったそうで、やはり法道仙人や牛頭天王にまつわる信仰世界があったのではないかと思われる。

 当初は「書写寺」と称したが、花山法皇が寛和2年(986)に来山して、圓教寺の勅号を与え、100石を寄進したといわれる。そして、西国33所の最も西にある札所となった。

 帰りは瑞光院のある下の道を下った。境内には妙光院とか十妙院、壽量院といった、いわくありげな建物が点在している。途中の展望台からは姫路市街が一望できる。ただし姫路城は見えなかった。

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 再びロープウェイ乗場に帰着すると、かなり長い行列ができていた。乗るまでに15分以上待たされた。山内が広いので、混雑はしていなかったのだが、ここにきて、紅葉まつりに多くの客が来ているのだと実感した。

 下に降りてから土産物店で串に刺した名物団子を買った。すでに空腹だった。帰り着くまでお腹がもたないと思ったからだ。


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2018年12月06日

西国33所 (24) 一乗寺

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 舞鶴若狭自動車道を逆戻りして、途中から中国道に入って姫路に向かう。社パーキングエリアで昼食のお弁当を積み込んだ。到着してから食事時間をとるということであったが、多くの人はバスの中で食べた。

 駐車場の付近は公園になっていて紅葉が美しい。たくさんの水子地蔵が祀られていたが、そこは「一乗寺と関係ない」という看板があった。広い参道に入ると、まもなく石段があり、そこを登ると紅葉の中に国宝の三重塔が見えてくる。その上の斜面に本堂が建っている。そういえば山門が見当たらなかった。

 一乗寺は、播州清水寺と同じく法道仙人が開いたとされる。兵庫県には法道仙人を開山と伝える寺が多いという。県内に110ヶ所以上あるらしい。僧ではなく仙人であるのは、道教の聖人ででもあったのだろうか。

 四国88ヶ所でも、愛媛県では法華仙人や阿坊仙人が登場する。他にも役行者や猟師が開山に関わっている。様々な宗教があったというだけでなく、山岳で生活する統制外の人々が存在していたように思われる。彼らの拠点あるいは聖地が、やがては仏僧らに支配されるようになっていったのではなかろうか。

 法道仙人がインドから日本に渡る時に、共に渡ってきたという牛頭天王は、姫路市の広峰神社に祭られている。その後、八坂神社に祭られて祇園さんということで素戔嗚尊と同一視されている。

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 本堂で勤行を行い、ふと天井を見ると花模様があった。よく見ると、小さな木札を花模様に打ち付けている。古い札を剥がして、改めて打ちなおしたのではなかろうか。

 先達さんの案内で境内の山道を歩いた。本堂の裏には護法堂、妙見堂などの建物があって。道沿いに祠に入った小さな石仏が並んでいた。最初はミニ33所と思っていたのだが、数が多すぎる。しかし、一つ一つ「〇番○○寺」と刻まれているから、ミニ札所にはちがいないのだが。奥の院である開山堂までは行かなかった。

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 常行堂で、国宝の天台高僧図が開帳されていた。この寺は天台宗なのだ。国宝の現物は博物館などに預けられているので、模写されたものであるが、質の高いもので実際に内陣に飾られ拝まれているもののようだ。

 境内はもちろん駐車場も含めて、この辺りは紅葉が美しい。日本海側よりも瀬戸内海側の方が紅葉が進んでいるように思われた。

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2018年11月25日

西国33所 (23) 成相寺

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 バスの車内でパチパチと拍手が起こった。文字通りのヘアピンカーブだった。それをグルっと360度曲がると、傾斜が40度以上にも見える坂が現れる。乗客は思わず息を止め拳を握りしめる。バスは空に向かってじわじわと登り、登り切ったところで水平になると拍手が起こる。しかし、そこは次のヘアピンだった。再び回転。そして再び急坂。バスのエンジンの力強さとドライバーの勇気を乗客は何度も称賛した。

 成相寺は、謎の老人が持参した観音像を安置して、慶雲元年(704)に真応上人が開山したという。後に、雪に閉じ込められた僧が、戒律に反して倒れた鹿の肉を食べて餓死を免れた。だが、その鹿の肉は観音像の太腿だったことから、身代わり観音として信仰されるようになり、食べられた観音像は元の姿に成り合ったことから、寺は成相(合)寺と呼ばれることになったそうだ。

 ここは伝説が多いなと思った。「撞かずの鐘」、「底なし池」、「一願一言地蔵」、「真向きの龍」、「美人観音」といちいち由来を書くと長くなるのでやめる。

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 本堂は四方に千鳥破風があって、正面軒にさらに唐破風が付いている。讃岐の金毘羅さんの祭殿によく似ている。熊野権現社は老朽化しているためか、外側に別の建物を建てて保護していた。十王堂の一ヶ所開いた格子戸からは孔雀明王が覗いていた。

 参拝を終えて、山上にあるパノラマ展望台に登った。この道もヘアピンカーブでかなりの急坂であったが、乗客ももはや慣れたのか、拍手は起こらなかった。眼下に天の橋立が見渡せる。ケーブルカーのある傘松公園よりも高い位置にあるが、その分距離が遠い。天の橋立は少し霞んでいた。昨夜宿泊したホテルも見えた。

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2018年11月22日

西国33所 (22) 松尾寺

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 バスは舞鶴若狭自動車道をひたすら走る。雨雲が次第に濃くなっていくようだった。日本海側に入ったと思われる頃から雨が降り始めた。「必要になるかな」と思って、リュックから傘を取り出した。

 到着とほぼ同時に雨は止み、結局傘は必要なかった。駐車場から入ると、山門を通らずに本堂の横に出る。本堂は御殿づくりの屋根の上に二階が載っているという珍しい建物で、一瞬、阿波の国分寺に似ていると思った。側面はひどく傷んでいるようだった。

 この青葉山は古くは火山であったらしいが、今はそんな雰囲気はまったく感じられない。しかし、大昔は特異な山であったのだろう。修験道の道場になっていたらしい。

 松尾寺は、唐の僧・威光上人が和同元年(708)に馬頭観音を感得してこの山に草庵を結んだのが始まりとされる。それ以降、天皇の庇護を受けて繁栄した。戦国期には火災で何度も焼失したが、細川家や京極家によって復興された。現在の本堂は享保15年(1730)に、舞鶴藩主であった牧野氏によって建立されたという。

 勤行の前に、住職かどうか不明だがお寺の人が、御前立の馬頭観音さまを照明してくれた。勤行の後にはご利益などについて解説してくれた。「有名な運輸会社は交通安全を願って毎月お参りしている」「馬のお守りはなんでもウマくいく」など。

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 山門の近くに新しい宝物館があった。時間が無かったのだが入館した。管理人がいて解説してくれた。仁王像2体は運慶・快慶に関わる鎌倉時代の作だという。分解修復したが、作者を特定するものが発見されなかったらしい。阿弥陀如来像は首のなかに梵字が見つかり、快慶の作品と特定されたそうだ。

 白象に乗った普賢菩薩の仏画は、「舞鶴で唯一の国宝」と紹介された。美福門院の念事仏であったと伝えられている。かつての色彩を再現したレプリカも飾られていた。仏舞いの仮面も興味深いものだったが、何しろ時間がなかった。遅れたら妻にののしられる。

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 駐車場に戻ると、隣に三重県のバスが停まっていて、そのナンバーが私たちのバスと同じ「8」だった。「珍しいこともあるもんだ」と撮影した。

 舞鶴の港には、旧海軍の赤レンガの建物が並んでいた。最新のイージス護衛艦が2隻停泊していた。北朝鮮のミサイルへの警戒はまだ解除されていないのかな。大きなタンカーなども泊まっていた。

 天橋立を眺めながら、「ホテル&リゾーツ京都宮津」に向かった。ホテルになんと分かりにくい名前をつけるものだ。しかし、このホテルはなかなかの立派なものだった。部屋は広々していて、窓から天橋立が見えた。土産物店もホテル内とは思えない大きさだった。難を言えば建物が広くて歩行距離が長いために疲れる。

 夕食は懐石だった。献立は次の通り。芋焼酎ロックを3杯飲んだ。

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2018年11月19日

西国33所 (22) 播州清水寺

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 11月17日午前8時前に家を出た。徳島バスのツアーに参加して、25番から29番までの5ヶ寺を巡る予定だった。淡路で休憩して兵庫県に入る。途中で道を間違えて、同じところをぐるりと一周したりした。

 数棟の住宅がくっついて繋がった大きな住宅が目につく。雪が深いので、外に出ることなく行き来できるようにしているのかもしれない。屋根も複雑に重なり合っているように見える。城郭に似ているようでもある。

 加東市にある標高552mの御嶽山は、かなり紅葉していた。薄緑と黄色と真っ赤のグラデーションが美しい。その山をくねくねと登っていく。入山料を徴収すると、ゲートが開かれてさらに登る。昔はここから険しい登山道を歩いて登ったようだ。

 山上の駐車場の前に真新しい朱塗りの山門があり、そこを入ったところに2軒の土産物店が並ぶ。そのうちの1軒「清水茶屋」で昼食を食べた。山菜ごはんに山菜うどんだった。

 古い石垣の横を通って講堂に向かう。この石垣は江戸時代のものらしいが、城砦のように物々しい。境内の建物は建て替える度に位置が変わったようで、この石垣もある時代には本堂に向かう石段を囲うものだったのではなかろうか。

 講堂が西国33所の霊場で、11面千手観音が祀られている。神亀2年(725)に行基が建立したとされ、永延2年(988)に花山法王が巡礼して札所とされたという。

 先達さんの指揮で、全員が講堂に上がって座り、勤行を行った。合掌礼拝の後、開経偈を唱え、懺悔文を唱える。そして、般若心経を読み、さらに延命十句観音経を三遍繰り返す。私たちにはこれまで、この観音経が不明であった。訊けば、西国33所勤行次第に書かれているとのことで、さっそくこの寺の売店で購入した。

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 播州清水寺は、神通力でインドから飛来した法道仙人が開いたと言われる。つまりは仏教が伝わる以前から聖地であったらしい。推古天皇が推古35年(627)に根本中堂の建立を命じて、法道仙人の刻んだ11面千手観音を安置して開基されたとなっている。この根本中堂(本堂)に参拝してから、薬師堂を訪ねた。

 小さな薬師堂であるが、薬師如来を守る12神将が、「せんとくん」で知られる東京芸大教授・薮内氏の作品であることから、妻から撮影を頼まれた。12支の動物をそのまま擬人化して神将としている。

 ここから、次は日本海側まで行かなければいけない。十分な時間がないので、境内を一通り歩く余裕は無かった。

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2018年06月16日

西国33所 (21) 施福寺

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 「難所だ」という。地図を見ると、なるほど、駐車場から1キロ以上山登りのようだ。年が寄って、登山は苦手になった。体を持ち上げるのがダメなのだ。すぐにへたばって、その後はひどい苦行になる。

 歩き始めると、思ったよりも傾斜が緩やかだった。「これなら大丈夫だ」と機嫌よく歩く。やがて、山門が見えてきた。ところが、下ってくる人が言うには、「まだ半分くらい。頑張ってね」「杖を譲りますよ」。親切なのだが、どっと疲れる。

 施福寺は、欽明天皇の時代(539-571)に行満上人が創建したとされる。本尊は弥勒菩薩であったという。しかし、実際はもっと古くからの修験道の道場だったようだ。

 役小角が、自ら書写した法華経の巻々を葛城山系の各聖地に埋納し、最後に埋めたのがこの山であったことから巻尾山(槇尾山)の名が付いたとする伝承もある。

 宝亀2年(771)、一人の修行僧が滞在して修行したが、終わって帰る時に路銀を請うた。それを断られると怒って「この寺は滅び、悪鬼の棲家となろう」と言って去った。法海上人が後を追うと、修行僧は海の上を歩いて渡って行った。法海上人はこれは観音様の化身であると悟り、千手観音の像を刻んで祀ったという。

 また、延暦12年(793)、空海が20歳の時、この寺で剃髪し沙弥戒を受けたともいわれる。現在の愛染堂がその場所で、空海の髪の毛を祀る御髪堂もある。空海は唐から帰って、大同4年(809)に再びこの寺に籠り、真言宗開創を練ったとされる。

 南北朝時代には南朝方の拠点となり、戦火に焼かれて衰亡した。天正9年(1581)には織田信長と対立し、一山焼き払われた。豊臣秀頼の援助によって復興された。

 徳川時代になって、幕府によって保護されたが、真言宗から天台宗に改宗させられた。弘化2年(1845)、山火事で仁王門を除く伽藍を焼失した。現在の本堂等はその後に再建された。

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 境内からの眺めは素晴らしい。どれが何という山なのか分からないが、葛城連峰らしい。さらに急な石段を登ると小さな神社があった。表示はなかったが、槇尾明神のようだ。

 仏像ファンになっている妻が、本堂を拝観しようと言う。拝観料は500円。正面に弥勒様、千手観音、四天王が並んでいるだけと思ったのだが、裏側に回廊があって、多くの仏像が、それもなかなかに凄い像が並んでいた。とりわけ、ガラスの大きな眼で睨んでいる馬頭観音が印象的だった。

 参拝の団体には、お寺の奥さんらしい人が本堂拝観を薦めていた。確かに勧めなければ500円出して本堂に上がろうという参拝客はそんなに多くないかもしれない。内部が仏像の博物館になっているとは誰も思わないからだ。むろん、撮影禁止だから内部の様子も知られていないし、案内の本にも掲載されていない。

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 とにかく、解説がないのでよく分からないのだが、施福寺は多くの謎を抱えたお寺のようだ。山門の仁王様の周りにはたくさんのわらじが掛けられていた。足腰にご利益があるらしい。

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2018年05月06日

西国33所 (20) 粉河寺

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 ホテルの部屋は東に向いていた。町並みの向こうに那智湾の海が見える。さらに向こうは太平洋のはずだ。その真ん中から真っ赤な朝日が昇った。

 朝食の味噌汁は小鍋で出された。妻は「変だ」と言った。確かに勝手が違う。スプーンですくって飲むしかないし、加熱が続いているので次第に熱くなっていく。

33-408b.JPG 南紀白浜の辺りだろうか、サービスエリアで湯浅の醤油を見つけて買った。湯浅は醤油の発祥の地だといわれる。「稲むらの火」で知られる濱口梧陵は湯浅の醤油商人の息子だった。養子に入った本家濱口家は銚子で醤油の製造をしていた。今のヤマサ醤油の前身である。

 梅畑から、さらに桃畑やみかん畑を通って、バスは和歌山市内に入った。さらに紀ノ川の北岸を少し遡ったあたりで昼食となった。「ホテルいとう」の構内にある食堂だった。弁当だったが、よくできた料理だった。

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 粉河寺には「粉河寺縁起絵巻」が伝わっている。焼損部分があるが国宝である。これに粉河寺創建の説話があって、内容はだいたい次のとおりである。

 「宝亀元年(770)、紀伊国の猟師・大伴孔子古(くしこ)が風猛山で狩りをしていて、光を発する場所を見いだし、そこに庵を建てた。その後、孔子古の家に一人の童子を泊めたところ、童子がお礼にと7日かけて千手観音の像を刻んで消えた。孔子古はその童子が観音様の化身と悟り、殺生をやめて信仰するようになった。童子を童男行者と言う。
 河内国の長者・佐太夫は、娘が重い皮膚病に罹り命も危うかった。そこへ童男行者が現れ、祈祷すると娘は全快した。長者はお礼をしようとするが、行者は財宝には目もくれず、娘の捧げる提鞘(さげざや)と緋の袴だけを受け取って消え去った。長者は行者の言葉を頼りに那賀郡の小さな庵を捜し当て、そこに立つ千手観音像の手に娘の提鞘と緋の袴を見つけた。長者一家はその場で出家し、孔子古を別当として、ともに粉河寺の興隆に尽くした。」

 粉河寺は平安時代中期には観音霊場として知られ、後期には西国33所観音霊場巡りの3番札所とされた。鎌倉時代には七堂伽藍、550坊、およそ4キロ四方の広大な境内地があり、寺領は4万余石といわれた。

33-408d.JPG しかし、天正13年(1585)の秀吉による紀州攻めに対して、根来寺や雑賀衆と結んでともに秀吉軍と戦い全山が焼失した。正徳3年(1713)にも火災に遭った。現在の諸堂のほとんどは、その後江戸時代になって、紀州徳川家の庇護と信徒の寄進を受けて再建されたそうだ。大門から南に続く粉河駅前通りは、門前町として長く栄えた。

 この日は花まつりだった。妻は出されていた小さなお釈迦様に甘茶を灌いだ。古くは旧暦4月8日(今年は5月22日)であったが、現在は寺によって新暦、旧暦、月遅れなどばらばらに行われているようだ。彼女はさらに境内の茶店で、名物の手作り粉河寺みそを買い込んでいた。

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 本堂の前に石垣のように細長く石庭がある。これを見た瞬間、阿波国分寺の庭が浮かんだ。とてもよく似ている。同じ人物かあるいは集団が造築したのではないかとさえ思われる。大量の巨石を積み重ねた異常な迫力をもった枯れ山水なのだ。

 石庭の左奥に枯滝があり、石橋の下を通って手前に流れ出している。ということは、手前には何らかの池の表現があったはずだと考えられる。あるいは童男行者の池に繋がる流れが表されていたかもしれない。今はただの広場で、新しい建物が建っていて、少し離れて若山牧水の歌碑があるだけだ。庭が作られた時には、本堂は今とは別の場所にあったのではなかろうか。

 下の画像は阿波国分寺の庭である。ここも建物(本堂)は江戸時代末期に後から建てられている。築庭当時の景観とは異なる。作者も分からないし、その構想がどういうものだったかも分からない。

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2018年04月18日

西国33所 (19) 青岸渡寺

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 バスは南紀白浜を過ぎた。紀勢自動車道は海岸線を離れた山の中を走っていて、トンネルが多く、風景はあまり楽しめない。周参見付近で海沿いの国道に出た。海岸には洗濯板のように層をなした岩床が続いていて、その所々に草木を被った岩島がある。

 道の駅・橋杭岩で少し長めの休憩がとられた。橋杭岩は、大きな岩山が海岸から近くの島まで一列に並んでいる珍しい眺めだ。これは堆積岩の地層の中にマグマが線状に噴出した跡だ。堆積岩が侵食されて無くなり、火成岩の固い部分だけが残ったものらしい。

 海岸で石を拾った。黒っぽい泥岩のようで、きれいな面に割れている。薄く割れるものは頁岩と言い、厚く割れるのは粘板岩と言うらしいから、それだとこれは粘板岩ということになりそうだ。

 紀伊半島の南部は約1500万年前〜1400万年前、巨大なマグマ活動があったらしい。堆積岩と火成岩が混在する地質となり、特異な景観を作り出したという。かつては富士山なみの火山ができていて、さらに周辺部にマグマが噴出して陥没し、巨大カルデラとなった。その後地震の度に隆起して、同時に絶え間ない侵食を受けて現在の形になったそうだ。

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 青岸渡寺は、仁徳天皇の時代に、天竺から渡来した裸形上人が開基したとされ、推古天皇の勅願寺として、生仏聖が伽藍を建立したという。しかし、あの壮大に流れ落ちる那智の滝を見ると、仏教が伝わるはるか以前から何らかの信仰の場であったことは疑いようがない。この滝も橋杭岩と同じく、巨大な火山活動のなごりなのだ。

 平安時代末期の末法思想から熊野詣でが盛んになり、熊野三山のひとつ、那智大社として大いに栄えた。ご本尊さまは如意輪観音菩薩で、花山法皇が、永延2年(988)に御幸し、西国33所第1番札所と定めた。

 明治になって新政府の神仏分離、廃仏政策によって仏教関係は全てが排除されたが、如意輪堂は残され、信者によって青岸渡寺として復興された。

 本堂に参拝した後、すぐ隣の那智大社にもお参りした。実は西国巡礼1300年記念ということで和歌山県が協賛するスタンプラリーが行われている。県内3ヶ寺と那智大社のスタンプを集めると記念手ぬぐいがもらえて、さらに抽選で那智黒石の硯が当たる。今回のツァーだけでスタンプが全部揃うことになるので、帰りには記念手ぬぐいは間違いなく手に入るのだ。このキャンペーンをネットで見つけた妻の殊勲である。

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 石段の参道には、土産物店が並んでいるが、その多くは那智黒石の製品を売っている。硯や八咫のカラスなどだ。現在、「那智黒石」と言っているのは那智ではなく、三重県熊野市神川町で産出される黒色のきめの細かい粘板岩である。その石を粉末にし、硬化性の樹脂をまぜ合わせて、型に流し込んで成型するのだそうだ。そんなわけで、出来の良さに比べて意外なほど安価だ。

 その日は南紀勝浦温泉の観光ホテルに宿泊した。ホテルの玄関ではマグロの兜焼き実演が行われ、試食と無料の記念撮影がされた。夕食にもマグロがたっぷりだった。刺身はおなじみだが、マグロの焼き物、から揚げとなると珍しいだけでなく、それだけでお腹がふくれる。露天風呂に入ってよく寝た。とても気の休まるホテルだった。

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2018年04月12日

西国33所 (18) 紀三井寺

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 西国33所の巡礼ツァーに加わり、4月7日に南海フェリーに乗船して和歌山に向かう。船旅はひさしぶりのことだった。曇り空で風が強く、寒かったので外に出る人はほとんど無く、暖房のある客室はほぼ満席状態だった。船上に太陽電池パネルが設置されていて、船内の照明はこれによって賄われているらしい。

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 紀三井寺は、正式には紀三井山金剛宝寺護国院という。宝亀元年(770)、唐の高僧であった為光上人によって開山されたそうだ。御本尊は11面観音菩薩。中世には広大な寺領を持ち、一定の武力もあったようであるが、天正13年(1585)の秀吉による紀州征伐の際に、山内安堵の証文を得たものの、領地や諸文書などすべて没収された。そのため、それ以前の様子は定かには分からないらしい。

 もとは真言宗のお寺であったが、昭和26年に救世観音宗として独立し、その総本山を名乗っている。国の重要文化財である巨大な山門を抜けて、231段の石段を登る。この坂は結縁坂と呼ばれ、紀伊国屋文左衛門とその妻おかよの縁を取り持ち、その後文左衛門は、宮司の出資金によって船を仕立て、蜜柑と材木を江戸へ送って大もうけをしたとされる。

 いつものように、本堂の前で般若心経と光明真言を称えたが、今回のツァーには先達さんが添乗していて、みんなが集まるのを待って一緒に参拝するようなので、再度、観音経を加えて一緒に参拝した。納経帖はバスの中で集められて、添乗員がまとめて御朱印を受けることになっていた。

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 この日は4月の第一土曜ということで、文塚供養が行われていた。あて先や差出人の記載が不十分で届けられなかった手紙やはがきは、郵便局に3ヶ月間保管された後に廃棄処分となる。集めて焼却された郵便物の灰を壺に入れて、ここにある文塚に安置して供養するのだそうだ。郵便局関係者らが昭和42年に始めたという。参列しているのは郵便局の方々らしい。

33-407d.JPG 麓から見上げると異様な感じのする鉄筋コンクリート造3階建の新仏殿がある。これは平成14年に建てられたもので1、2階は納骨堂で、3階は展望台になっている。中央には平成19年に完成した金ぴかの大千手十一面観世音菩薩像が安置されている。木製立像としては日本一だとのことで、一応拝観した。

 紀三井寺は桜の名所としても知られる。妻は桜の満開に合わせようと日程を考えた。しかし、今年は開花が1週間ほど早くて、すでに葉桜となっていた。階段の上り口に文化年間に建てられたという芭蕉の句碑があって、それには「見上ぐれば 桜しもうて 紀三井寺」とあった。

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2017年11月09日

西国33所 (17) 総持寺

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 初めて大阪モノレールに乗った。千里中央から南茨木まで。途中、万博記念公園があって、岡本太郎の太陽の塔が立っていた。南茨木から阪急電鉄京都線に乗り換え、総持寺に着いた。

 総持寺駅から徒歩5分ということなので、そこら見当でぶらぶら歩いていく。思わぬ古い町並みに出くわした。立派な板塀に囲まれた豪邸が立ち並んでいた。武家屋敷なのかと思ったが、町家のような屋根もあり、付近に城があるとも聞かない。お寺の裏側だから門前町でもない。なぜこのような豪邸が集まっているのかよく分からない。

 総持寺の裏門から入ることになった。境内に入って、なんだか雰囲気が違うという印象を受けた。先ほど見かけた屋敷の塀や壁に使われている表面を焼いたのかタールを塗ったかのような黒っぽい板が建物に使われている。朱塗りの建物はあまり赤くない暗い朱が塗られている。山門も朱塗りのようだが薄いオレンジ色に見える。

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 総持寺はその由緒について不思議な物語を持っている。

 藤原高房が捕らえられた亀を逃がしてやった。翌日に高房の子が川に流されたが、観音様にお願いしたところ、子供は前日助けた亀に乗って無事に戻ってきた。

 高房は観音様に感謝し、唐の香木で観音像を造ることを願った。しかし、香木が手に入らないうちに高房は亡くなった。

 高房の子はやがて成人し山蔭と名乗り、太宰府に赴任した。その時に香木が流れ着き、そこに刻まれた銘文から、父がこの木で観音様を彫ろうとしていたことを知った。
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 都に帰った山蔭は、ふさわしい仏師を求めて奈良の長谷寺に参篭した。お告げにより一人の童子に出会い、この童子こそその仏師であると確信を得た。

 童子は「1千日の間、誰も入らぬよう、食事は山蔭自身が作ってもってくるよう」言って、仏舎に籠った。

 1千日目の朝、童子は空に飛び立ち、亀の座に乗って立つ千手観音像が残されていた。

 藤原山蔭は、この観音様を本尊として総持寺を建立した。落慶法要は寛平2年(890)に行われた。山蔭は仁和4年(888)に亡くなっていて、その3回忌法要を兼ねたという。

 藤原山蔭は実在の人物のようだ。下級貴族であったが、清和天皇に仕え、その後、陽成天皇、光孝天皇にも出仕を求められ、従三位・中納言にまで出世したらしい。光孝天皇の命により新たな庖丁式を編み出し、四条流庖丁式の創始者となった。吉田神社と総持寺を創建した。吉田神社の末社である山蔭神社に庖丁の神、料理・飲食の祖神として祀られている。実在の人ながら最終的には神様になった。
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 参拝の後、古民家を改造した蕎麦屋で昼食を食べた。丁度、女性の団体が出てくるのとぶつかり、囲炉裏のある小部屋でしばらく待たされた。話を聞いていると、多くの人が「ぜんざい」を注文したようだ。食べてみたくなった。2階に上がって「そば切り」と「ぜんざい」を注文した。しかし「ぜんざい」は品切れになったという。蕎麦がとてもおいしかっただけに返す返すも残念。食べたかったなあ。

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2017年11月04日

西国33所 (16) 勝尾寺

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 千里中央駅を出て、1日3本のバスの時間を確認した。出発にはまだ1時間ほどあった。コーヒとサンドイッチを注文して待った。

 奥という停留所あたりから、バスは山登りを始めた。細い道をくねくねと登っていく。勝尾寺は2002年に紅葉見物で一度訪れたことがある。その時は周囲はみごとに真っ赤な紅葉だった。今回、樹々はまだ緑が多かった。まもなく、バスは勝尾寺門前に着いた。正門には菊のご紋章があり、「下馬」の石柱が立っている。

 神亀4年(727)、藤原致房の子である善仲、善算の双子兄弟 が草庵を結んだ。後に、光仁天皇の皇子開成が二師と出逢い、宝亀6年(775)に大般若経600巻を理経して寺を創建し、彌勒寺と号したのが勝尾寺の開山とされる。

 宝亀11年(780)、妙観という名の比丘が彌勒寺を訪ね、白檀香木をもって身丈八尺の十一面千手観音を彫刻したものをご本尊とした。稀代の名工であった妙観は、観音の化身と信じられている。

 六代座主の行巡上人は、清和天皇の病気平癒を祈って効験があったことから、「勝王寺」の寺号を賜ったが、「王に勝つ」では畏れ多いので勝尾寺とした。「日本三代実録」には、清和天皇が「勝尾山」に参詣したとの記載がある。以来、勝運の寺として信仰された。

 源平の戦いの時に焼失したが、建久6年(1195)に、源頼朝の命で梶原景時らにより再建されたという。薬師堂、荒神堂がその当時の建物として残っている。現在の山門と本堂は豊臣秀頼によって再建されたものだそうだ。

 山門を入ると大きな池があり、その中央にある橋を渡って参詣する。片側の水面にはなぜか湯気が立ち昇っていた。灰色のサギが池の魚を狙っていた。

 このお寺の名物は「勝ちだるま」である。500円のおみくじは、小さな福だるまに入っているので、境内のいたるところにその福だるまが置かれている。「福を呼ぶのでお持ち帰りください」と言うものの置いて帰る人が多いらしい。私のおみくじは「末吉」であった。前回2002年には「凶」だったと記録されているのka1101-3.JPGで、それよりは良い。

 帰りに、池に立つサギを撮影していたら、カメラを持つ手にバサッと何かが当たった。見ると異常に大きなスズメバチが中指に抱き着いていた。思わず振り払うとボタッと地面に落ちて、それからゆっくり飛び去っていった。指に小さな出血があったが、刺されたのではなく、掴まった足でひっかいただけのようだった。そういえば、多宝塔には壊されたスズメバチの巣の痕跡があった。

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多宝塔の左上にハチの巣がある。

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2017年10月13日

西国33所 (15) 石山寺

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 石山寺は天平19年(747)、良弁僧正によって創建されたとされる。良弁は、巨大な国策事業である東大寺建設をプロデュースしていたようである。琵琶湖の最南端である瀬田は、そのための資材の集積場になっていた。そこに管理事務所とでもいうべき寺院を作る必要があったのだろう。その後、次第に堂宇が増加して大寺院になった。

 東大門を入って石畳を歩いていくと、胎内くぐりの岩がある。立札には大理石と書かれていたが、マグマによる変性を経たもので珪灰石と呼ばれる。さらに階段を上って本堂前に達すると、まるで人工的に配置されたかのように見事な巨石が並んでいた。これも同じ石のようで、この山全体がこうした岩でできているらしい。まさに石山寺なのである。紅葉がわずかに紅葉を始めているようだった。

 本堂で般若心経を唱え、御朱印を受ける。脇の小部屋に紫式部の人形が飾られている。言い伝えによれば、紫式部がここで源氏物語の構想を得たといわれる。最も高い場所に博物館があって、そこで「源氏物語と出家」展が行われていた。仏像などとともに住吉如慶や土佐光吉の精密で美しい源氏物語画が展示されていた。

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 門前にある「志じみ茶屋湖舟」で昼食。名物の「志じみめし」定食を食べた。しじみと近江米の釜めしは、炊きたてでおいしかった。近江のおばんざいとしじみ汁が付いている。おばんざいにもしじみ料理、大豆の煮ものには小さな淡水エビが入っていて感激した。

 石山寺駅まで歩いて、京阪電鉄で京都に戻り、昨日行った京都浮世絵美術館に再度入館した。なるほど展示はすっかり変わっていた。広重の東海道53次の全作品が展示されていた。妻の興味は風景デザインだけでなく、描きこまれた小さな人物や洒落に及んでいる。細かく見れば確かにおもしろいのだ。

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 美術館を出て、バスで「京都水族館」に向かった。これは、妻が突然加えた予定だった。ここはJR貨物・梅小路駅の跡地で、平安遷都1200年記念事業の一環として造られた「梅小路公園」の中にある。2012年に開業した水族館で、完全な人工海水を利用しているそうだ。

 丁度、イルカのショーが始まるところで、休憩も兼ねて見物した。その後、館内を巡った。3階まで達する大型水槽もあって、大阪の海遊館に似ている。クラゲもいた。

 京都駅まで歩いて、地下で土産などを買い、それでも時間が余ったので、早い時間のバスに乗り換えようとしたのだが満席のためできなかった。予定の通りに帰宅した。

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2017年10月11日

西国33所 (14) 岩間寺(正法寺)

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 深夜に京都の町を歩いた。理由は煙草を吸うためだ。ホテルの部屋は喫煙可能なのだが、妻と同室なので事実上禁煙なのだ。ホテル内に喫煙場所はなく、周辺の通りも全て禁煙地帯だった。カウンターでマナースポットの地図をもらって外出した。

 最も近いのが、新京極公園だった。ベンチに男が一人寝ていて、別のベンチでは若い男が携帯で話し込んでいた。老人が一人黙々と道路を掃いていた。周囲は煙草の吸殻と飲み物の空き缶やペットボトルが散乱していた。

 2回目は四条大橋のたもとで、ここは照明があってにぎやかだった。カラオケ喫茶の呼び込みや、路上演奏家もいる。周辺には多くの男女が座り込んでいた。やはり吸殻とゴミが散らかっていたが、前には高瀬川がさらさらと流れていた。

 朝食はマクドナルドでハンバーガーを食べた。地下鉄・東西線が京阪・京津線に繋がっていることが分かったので、四条駅から電車に乗って、御池からは浜大津まで直通に乗った。昨日から気づいていたのだが、この電車を撮影している人がいる。この日も3人のカメラマンを見かけた。この電車に何か珍しいところがあるのかと思って、私も京津線の空色の車体と坂本石山線の緑の車体を撮影した。しかし、車体には別に変わったところはなかった。やはり、併用軌道が珍しいのではないかと思われる。4輌編成の結構長い列車が道路を走っているのは確かに不思議な気がする。

 石山寺に向かう途中、電車の窓からお城の天守閣が見えた。膳所城の櫓に似ているのでそれかと思ったのだが、位置が少し違う。これは琵琶湖文化館だそうだ。2008年以来、老朽化と入場者の減少で閉館になっているそうだ。鉄塔のてっぺんにはトンボが停まっている。

 石山寺駅前でタクシーを呼んだ。岩間寺(正法寺)は標高はそれほどでもないが数キロの山道を歩かねばならない。今の私たちにはとても無理だった。駐車場にタクシーを待たせて参拝した。

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 岩間寺は養老6年(722)、元正天皇の病気平癒に功があったとして、泰澄大師が創建したという。桂の霊木で千手観音ほかを刻み、体内に天皇の念持仏を納めて本尊としたそうだ。境内には3代目の桂の木がある。伝説から「汗かき観音」とか「雷避け観音」の異名がある。白姫竜神が祭られていた。加賀白山の神だという。おそらくこの地は古くは山岳宗教の聖地であったものと考えられる。

 本堂の隣に蛙池があって、松尾芭蕉の「古池やかはず飛び込む水の音」の句碑が建てられている。芭蕉ゆかりのお寺なのだとのこと。「ぼけ封じ観音」の前に仏足石が置かれていて、ここに立って拝めば「ぼけ防止」に効果があるのかというと、立札には健康と長寿を祈るとだけしか書かれていない。

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 再びタクシーに乗って、石山寺の門前まで送ってもらった。

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2017年10月09日

西国33所 (13) 六波羅蜜寺

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 京都駅に着いて、さらに地下鉄で四条まで行った。彼女は浮世絵美術館に立ち寄って、河原町近くのホテルに荷物を預けてから六波羅蜜寺に向かおうと考えた。しかし、四条駅を出てから方向を間違えた。気が付いた時には五条通り近くまで戻っていた。それで、五条の橋を渡って先に六波羅蜜寺へ行こうと提案した。

 人通りが多かった。中国語の会話がとてもよく聞こえてくる。二人ともずいぶん疲れていた。私は旅行前から膝が痛くて、こんなに歩くと脛や太腿まで痛くなっていた。

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 日射しが暑いので、早めに狭い通りに入った。小さな路地がいくつもあってそれぞれに名札が付いていた。勝手に名前をつけているのだろうか。六波羅蜜寺は何でもない普通の町中にあった。

 六波羅蜜寺は空也上人によって創建されたという。当時は西光寺といった。寺の由緒では、空也上人は醍醐天皇の次男とされているが真偽はわからない。修行者として「南無阿弥陀仏」の名号を唱えながら諸国を廻り、様々な社会事業を行って広く信者を得た。出家したのは延喜22年(922)といわれる。天暦2年(948)に天台座主・延昌のもとで受戒し、光勝の号を受けた。天暦5年(951)、悪疫の流行に際して、十一面観音像を造立して車に乗せて曳き、病人に特別な茶を授け、踊りながら念仏を唱えて市中を歩き、ついに病魔を鎮めたという。応和3年(963)、鴨川の河原で金字大般若経供養会を修した。この際に三善道統の起草した「為空也上人供養金字大般若経願文」が今に伝わっている。上人は天禄3年(972)、ここ西光寺において70歳で没した。

 弟子の中信上人が、規模を拡大して天台別院とし、寺号を六波羅蜜寺と改めた。平安末期には平家一門が邸宅を建てて本拠とした。しかし、都落ちに際してそれらの邸宅を焼き、寺も本堂のみを残して焼失したそうだ。その後も戦乱の度に火災にあったが、時の権力者に保護され、その都度再建された。

 明治維新になって、政府の廃仏方針によって寺領を失い、本堂と弁財天堂だけになり荒廃していたが、昭和44年に解体修理が行われ現在の姿になった。

 宝物館に収蔵されている仏像などの多くが重要文化財で、美術の本などで見たことのあるものだった。四天王像や吉祥天像は優れた作品だった。有名な空也像、平清盛像もあった。

 建仁寺の境内を通って、四条の橋を渡って河原町まで何とか歩いた。鴨川の土手には人々が列を作って並んで座っていた。いつも不思議に思う。なぜこんなところに座り込むのだろう。ホテルに入ってしばらく休憩。私の足は限界に近かった。

 荷物を置いて、京都浮世絵美術館に行く。彼女にとってはこちらが第一の目的だった。葛飾北斎、喜多川歌麿を中心とした展示をやっていて、翌日には歌川広重の東海道53次全55作が展示されることになっていた。

 夕食は錦市場の「いけまさ亭」で食べた。「おばんざい」6種、炒め物、ゆばの餡かけどんぶりを注文した。生ビールと日本酒2合飲んだ。お酒はいつもよりちょっと多い。なかなかおいしかった。錦市場商店街はシャッターに伊藤若冲の絵を描き、アーケードにもやはり若冲の絵を飾っていた。妻はこれを撮影しろというが、暗いのでちょっと無理だった。

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2017年10月04日

西国33所 (12) 三井寺

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 山科で京阪電鉄・京津線に乗り換えて大津に向かう。好い天気だ。車窓には古い町家や大きなお寺などが現れては過ぎ去る。とても長閑だった。浜大津駅が近くなると、電車は車と一緒に道路を走る。「わあ、まるで路面電車だ」と妻が言う。車と一緒に信号待ちしてからゆっくり駅の構内に入った。坂本石山線に乗り換え、1駅行ったところが三井寺駅だ。

 山門まで「歩いて5分」とあるが、もう少しかかった。途中に琵琶湖疎水の取水口があった。疎水の水路はそこから山に向かって続いていて、三井寺の下で地中に潜っている。

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 三井寺は朱鳥元年(686)に大友家の氏寺として創建されたといわれる。天武天皇により園城寺の寺号を与えられた。やがて衰退したが、貞観元年(859)、智証大師・円珍により再興された。
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 その後、三井寺は本山であり隣接する比叡山延暦寺と長く抗争を続けた。武蔵坊弁慶は延暦寺側の僧兵として三井寺に攻め込んで勇名を馳せたらしい。

 茅葺の建物はほとんどが重要文化財に指定されている。広い境内をまっすぐに歩いて、観音堂に向かった。途中にあった文化財収蔵庫に入館した。襖絵や仏像が陳列されていた。彼女は仏像に興味がある。
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 観音堂で般若心経を唱えて、御朱印をもらった。「大悲殿 三井寺」と書かれていた。大悲というのは観音さまの別名だそうだ。ここには円珍が香木で刻んだ如意輪観音像が安置されている。

 山門前の駐車場に降りて、そこにあるレストラン「風月」で昼食。蕎麦定食を小盛りにしてもらった。普通盛りでは食べ過ぎになるからだ。食後、この店で売られていた大津絵の葉書を買った。四代目高橋松山さんが顔をアップで描いたものだ。先に色絵具を塗り、最後に墨で仕上げている。妻は広重の近江八景を買った。

 すぐ近くに大津市博物館があったので入館した。大津の古い風景を模型で展示していた。そして、大津について私が全く何も知らないことに驚いた。この日覚えた地名が二つある。堅田と膳所(ぜぜ)だ。膳所9万石のお城は湖に浮かんだ水城なのでとても印象に残った。

 京阪・別所駅まで歩いて、皇子山で湖西線に乗り換え、京都に帰った。


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2016年04月13日

西国33所 (8) 清水寺

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 3月29日の夕方、京都駅に着いた。とりあえず夕食を食べる。地下街の京料理「萬重」で懐石弁当を注文し、玉之光(日本酒)を2合飲んだ。

 彼女はホテルに入る前に、ライトアップされた清水寺を見に行こうと言う。バス停に行くと行列ができている。大半が外国人だった。列に並んでいると、突然、老夫妻がやって来て「使ってください」とバスの一日乗車券をくれた。

 五条坂で降りたが、満員のバスから降りたのは少数だった。坂道を歩く。清水寺は西国33所の第16番札所であるが、納経受付はすでに終わっていると思っていたから、その日は単に花見だけのつもりだった。

 清水寺は、興福寺の僧・延鎮の開基とされる。宝亀9年(778)、延鎮(当時は賢心)が音羽山に行き、そこで修行していた行叡居士に出会い、その庵に千手観音像を刻んで安置したのが始まりと言われる。

 その2年後、坂上田村麻呂が鹿を捕えようとして音羽山に入り、修行中の延鎮に出会い、殺生の罪を説かれて観音に帰依し、自邸を本堂として寄進した。その後、田村麻呂は東国の蝦夷を平定し、都に帰ってこれたことを仏の加護と感じ、延暦17年(798)、さらに寺を大きく改築し、観音像の脇侍として地蔵菩薩と毘沙門天を祀ったという。延暦24年(805)、田村麻呂が寺地を賜っている。

ha329-4.jpg 弘仁元年(810)、勅願寺となり北観音寺と称した。平安時代中期には、清水観音としてよく知られるようになっていた。長らく興福寺の支配下にあって、都の争乱の度に焼失し、その度に再建された。

 豊臣秀吉は清水寺に130石の寺領を安堵し、それは江戸時代にも継承された。近世の清水寺は「三職六坊」と呼ばれる組織によって維持運営されていたそうだ。

 現在の本堂は、寛永6年(1629)の火災の後、寛永10年に徳川家光により再建されたものといわれる。他の諸堂の多くもこの頃に再建されたと考えられている。

 桜はやはり三分咲きというところで、ライトアップしてもあまり映えない。しかし、塔や建物の赤い色は暗い夜空に浮き出し鮮やかだった。観光客は昼間と変わらないほど多かった。

 舞台に上がってみると、納経受け付けが行われていた。納経帳を持っていたので、あわててご朱印を受けた。まだ拝んでいなかったので、その後、本堂前で線香を供え、お経を称えた。後から妻が言う。「注目されて恥ずかしいから、お経はもっと小さい声で…」。

 坂を下って、バス停でバスを待ったが、長い行列ができていた。しかも、来るバスは満員でほとんど乗れない。すぐに諦めてタクシーを停めた。ホテルの場所を知らなかったのだが、予約の文書を見ると地下鉄五条駅付近であった。「なんだ歩いていける距離じゃないか」。タクシー料金は560円だった。

 松風や 音羽の滝の 清水を むすぶ心は 涼しかるらん

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2015年11月03日

西国33所 (6) 岡寺

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 「たかが2キロくらいと思って歩いたんだが、下りで足先を傷めたようだ。岡寺に寄って橿原神宮前まで送ってくれ」と説明してタクシーに乗り込んだ。「お客さん、2キロじゃない。片道4キロありますよ」と、運転手はなぐさめてくれた。

 「飛鳥は初めて?」「いや、前回はレンタルサイクルで回ったし、学生時代は歩いた」「じゃあ、よく知ってるんですね」「うーん、しかし地図と見比べないと分からないな」「学生時代に来たのなら高松塚発掘の頃ですか」「いや、もっと前だ。浄御原宮跡を見にきた」「昔と比べてここも良くなりました。道路がね。他は変更できないですからね」。まもなく岡寺に着いた。

 岡寺は正式には龍蓋寺といい、義淵僧正によって建立されたとされる。義淵僧正は、天智天皇が引き取り、岡宮で草壁皇子とともに育てたという伝承がある。百済聖明王の後裔であったとか、あるいは天皇の御落胤かといった説がある。後に岡宮の地を与えられ、大宝3年(703)には日本で初めて僧正の位についた。法相宗の祖とされ、その門下には良弁、行基、玄ムらがいる。また皇位を簒奪しようとした道鏡も弟子の一人だそうだ。神亀5年(728)に入滅するまで25年間、我が国仏教界の頂点にいた。

 本堂は巨大だった。ここに納められている御本尊の如意輪観音像は座高4・85メートル、塑像としては日本最大の大仏さまである。

s-oka2.jpg 境内には四角い池があり、義淵僧正がここに悪龍を封じたといわれる。龍は水に関わる神であり、治水や雨乞いなどを意味する伝説ではないかと思われる。また、悪龍の厄難を取り除いた事から後に「やくよけ信仰」の始まりとなったとされる。僧正の創建した寺は「龍門寺」、「龍福寺」などみな「龍」の文字がある。

s-oka3.jpg 少し登ったところに奥の院ということで、洞窟の中に弥勒菩薩が祀られていた。これは平安期の末法思想の名残りではなかろうか。

 ご朱印を受けて、待たせていたタクシーに乗った。橿原神宮前駅に向かう途中、「次は長谷寺ですか」と運転手が言う。「あそこは特急が停まらないので気をつけてくださいね」、「途中に番外寺があるので見逃さないように」とか忠告してくれた。運転手は以前に西国33所を巡ったことがあるそうだ。

 けさ見れば つゆ岡寺の 庭の苔 さながら瑠璃の 光なりけり

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2015年09月06日

西国33所 (5)  宝厳寺

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 彦根に着くなり、駅構内にあった観光案内所に飛びこんだ。琵琶湖の船が出ているのかどうか確認するためだ。「大丈夫だろう」ということで、船の時刻表をくれて、港までの無料バス乗場を教えてくれた。土産物も売っていて、頼まれていた彦にゃんの人形を5個ばかり買った。

 バスの時間にはまだ1時間もあった。それで、彦根の城を見に行った。驚いたのは「歩車分離信号」だった。歩行者の信号が全部青になると、車用の信号は全て赤になる。交差点は歩行者天国になり、斜めに横断することもできる。駅から城までの交差点は全てそういうことになっていた。

 彦根城はもっと小さな城だと思っていた。思いのほか立派な城だった。井伊直弼は35万石の大大名だったのだ。城には入らなかった。堀の周りを少し歩いて、古風な木の橋がある大手門まで行った。

 昼が近く、竹生島には食べるところなど無いとのことだったので、弁当屋さんを探したが見当たらず、マクドナルドでハンバーガーを買った。

 シャトルバスで彦根港に行き、船のチケットを買ったが、3500円。「高いじゃないか」と思った。しかし、よく見ると往復券だった。しかも、帰りの船の時間も決まっている。つまり、島に約1時間ほど滞在して、行きと同じ船で帰ってくることになっているのだ。

 大きなうねりはないが、波はあるので海の上と変わりがない。しかし、初めて琵琶湖を航海していると思うと心が躍る。今回はそれが目的だったような気がする。雪を戴いた山々が見える(この日は3月2日)。

 港を出てから左に小さな島が見える。船はそちらに向かっていないのでこれは違う島のようだ。何の理由も無く琵琶湖には竹生島しかないと思っていた私には不思議な気がした。これは多景島(たけしま)というらしい。ここにもお寺があるそうだ。

 竹生島はかなり近づくまで見えなかった。白い靄の中から突然現れたような気がした。形からしてひょうたん島だと思った。

 宝厳寺は、寺伝によれば、神亀元年(724)に行基が竹生島を訪れ、弁才天を祀ったのが起源とされている。しかし、『竹生島縁起』では、天平10年(738)に行基が小堂を建てて四天王を祀ったのが始まりとなっている。当初は本業寺と称していたという。

 竹生島には古くから式内社である都久夫須麻神社があった。祭神は浅井姫命で、浅井氏の氏神であったようだ。浅井氏は戦国大名として有名だが、古代からの名族のようだ。この浅井姫命が神仏習合で弁才天と同一視されるようになったらしい。寺と神社は一体として竹生島権現あるいは竹生島弁才天社と呼ばれた。お寺は大神宮寺であった。

 何度か火災にあっているらしいが、永禄元年(1558)の大火で焼失した時は、豊臣秀頼によって再建されたそうだ。唐門は、豊国廟の門を移築したものといわれ、都久夫須麻神社本殿や渡り廊下、観音堂なども、豊国廟あるいは伏見城の一部を移築したものと考えられている。

 観音堂から船廊下で繋がる都久夫須麻神社本殿は、元は寺の本堂であった。明治の神仏分離の際、市杵島姫命(弁天様と同一視される)を祀る神社とされ、寺は廃されようとした。信者の抵抗によって寺は宝厳寺として残されたが、本堂は神社として分離された。現在の本堂は昭和17年に別に建てられたものだ。

 工事中の観音堂に入って気がついた。ここに千手千眼観音菩薩がまつられていて、そこが西国33所の札所なのだ。私は、本堂で般若心経を読んで、ご朱印を受けたのだが、ご本尊は弁天さまで観音さまではない。もう一度お経を読んだ。

 時間がくるまで船が出ないのでゆっくりしたものだ。宝物館に入ったり、かわらけは投げなかったが龍神拝所から琵琶湖を眺めたりした。

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 月も日も 波間に浮かぶ 竹生島 船に宝を 積む心地して

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2015年08月24日

西国33所 (4)  壺坂寺

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 八木町のホテルを出たのは午前6時ちょっと前だった。電車で橿原神宮前まで行って、吉野行きに乗り換え、壺坂山駅に着いた。国道169号を歩き始めた。まもなく午前7時のチャイムが聞こえた。

 壺坂寺への県道に入った。蝉が鳴き始めた。汗は出るがそんなに暑くはない。くもり空で風があった。広い舗装道路をぶらぶら歩き、時々休憩した。荷物が肩に食い込む。車が1台と自転車が1台通っただけだった。山に入ると風が止まって汗が乾かずに流れ落ちた。

sai822-2.jpg 40分くらいでお寺に到着したのだが、入口には開場は8時半だと書かれていた。ガードマンが巡回していて、「もう少し待って」と言う。それでも、8時を過ぎた頃に入れてくれた。

 壺坂寺は、正式には南法華寺という。大宝3年(703)、元興寺の弁基上人がこの山で修業中、秘蔵の水晶の壺に観音様を感得し、観音像を刻んで坂の上に安置したのが始まりとされる。

 その後、朝廷から南法華寺の寺号を受けた。平安時代の最盛期には36堂60余坊の大伽藍が造営されていたそうだ。しかし、数度の火災で焼失し、現在ある八角円堂、三重塔などは室町時代以降に建てられたものだそうだ。

sai822-3.jpg 御本尊の十一面千手観音は、とりわけ眼病に霊験あらたかとして広く信仰された。明治12年に三味線の2世豊沢団平・加古千賀夫妻が加筆・作曲した浄瑠璃「壺坂霊験記」が上演され、一世を風靡した。「三つ違いの兄さんと、いうて暮らしているうちに、情けなやこなさんは、生まれもつかぬほうそうで、眼かいの見えぬその上に、貧困にせまれどなんのその、一旦殿御の沢市さん…」という一節は誰知らぬものとなり、歌舞伎や講談でも演じられた。浪曲では、浪花亭綾太郎による「妻は夫をいたわりつ、夫は妻に慕いつつ〜」の名調子で有名になった。

 境内には慈母園という養護盲老人ホームが昭和36年に建てられ、これは盲老人ホームとしては日本最初であるらしく、発祥の地の碑がある。

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 壷阪寺先代住職・常盤勝憲和尚は、そればかりではなく、幅広く福祉事業に乗り出した。また、昭和39年より、インドにてハンセン病患者救済活動に着手し、教育助成事業や地域開発援助などの国際奉仕活動を始めた。

 境内にある大仏、レリーフなどの巨大石造物はインドにおける石彫事業によるもので多くの雇用を生み出している。これらの石造物は単に大きいだけでなく、なかなかの迫力をもった作品群だった。あるいは未来に向けての文化遺産であるかもしれない。

 この日は、第7回 高取城・戦国ヒルクライムと称する自転車レースが行われていた。私が下り始めた午前9時に高取町を出発して、高取城跡までのレースで、下から次々と自転車が登ってきた。「こんにちは」と挨拶して通り過ぎる選手もいたが、多くはハアハアと息を切らして必死だった。高取城跡は壺坂寺よりさらに倍以上登る。たいへんだ。

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 私は、帰りに高取町の古い町並みを歩いた。しかし、私の足は限界がきていた。下りのために足先の指が痛くなり、太股もぴくぴく痙攣し始めた。「もうだめだ」と壺坂山駅に着くなり、タクシーに乗り込んだ。

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posted by kaiyo at 23:37| 徳島 ☁| Comment(0) | 西国33所 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする